池澤春菜&堺三保のSFなんでも箱#49 『ゲームの王国』小川哲さんゲスト回イベントメモ。

以下、Live Wire [562] 17.11.11(土) 池澤春菜堺三保のSFなんでも箱#49 『ゲームの王国』小川哲さんゲスト回の備忘録的な?メモです。

1:イベント本編のメモ
2:懇親会で他の参加者の方との間で出た話題
3:個人的な雑感
4:(イベント参加前時点での)自分の『ゲームの王国』感想

について書いていきます。

 

1:イベント本編のメモ


■『ゲームの王国』作品構想等について

・作品の構想を抱いた/固めた時期について。
少なくともカンボジアポル・ポトをやるというのは正確には覚えていないが『ユートロニカのこちら側』でハヤカワSFコンテストで大賞受賞した式の際に小川一水さんに次回作について尋ねられそう答えたので少なくともその頃には。

 

・特にカンボジアとの関わりはそれまで無く(渡航経験や家族絡みなども)、諸々の情報も書くと決めてから調べた。

 

・(池澤さんの感想「登場人物たちがこれから、というところで次々に死んでいくのがすごかった」「地位や善悪がガラリと入れ替わるのも」等に応える形で)登場人物の多くが死ぬのは作品の要請でもあった。
ポル・ポトが台頭した)数年でカンボジア国民の二割が死んだ。ならば、作中人物の多くも死ななくてはならない。(地位などの)逆転も「革命」を描くならば当然のこと。

 

・当初歴史改変ものも考慮したが、読者によく知られていない歴史の改変をやっても仕方がない。
それは早期にプランとして放棄した。

 

・第2次世界大戦ものだと近未来に時間を飛ばした場合、登場人物が世代交代というか入れ替わってしまう。
今回の題材だとギリギリ同じ人物を出すことが出来る。

 

・(東南)アジア方面で何か書きたい、という思いはあった。
(その中で)カンボジアを舞台とすることで抽象的、図式的な話として描ける。
これが日本だと政治の話をすればこれは例えばモデルが小池百合子だとかそういう風に勘ぐられてしまいもするしそういう色をどうしても帯びてしまう。
それは避けたかった。

 

■「民主主義への疑問」というテーマ

・中高生頃から民主主義への疑問(や反発)があった。
特に、政治家たちは選挙に勝つことを目的としすぎている(ゲームのルールとして選挙の勝利に最適化されてしまう)、それが良き政治を行うこととの乖離を(必然的に)生んでしまう。

 

・そして中高生や大学生の頃は言い難くもあった(なにやらフランシス・フクヤマが『歴史の終わり』なんて書き飛ばすなんてこともあった。今では嗤われがちではあるが当時は……)が、今ならば「民主主義は万能ではない」といったテーマも書きやすいというか受け入れられやすいとも思った。
だが今作では書き得なかった。執筆期間約二年のうち少なくとも三ヶ月ほどはそのテーマに挑もうとしてみたが結果として活かせなかった。

 

・例えば上巻では共産主義(の悪夢的側面)を描き。下巻では民主主義(のそれを)を描けたなら美しかったかと。

 

■「馬鹿を(巧みに)描く」ということについて

・(池澤さんからもそこを褒める感想が出たのを受け)「馬鹿を描く」というのは大きなテーマ、目標でもあった。
自分の分身ではない、自分とは異なる、離れたキャラクターを書けるかということでもあった。

 

・馬鹿にもソフトウェアに問題がある場合とハードウェアのそれとがある。
前者を書くのは簡単。単に知識やロジックを知らないという話で、そう書けばいいだけ。
考え方そのものが致命的におかしいという後者を試みた。

 

・池澤「話の通じなさ……例えば村の中でただ一人いろいろ分かってしまう人がいて。なんとか話そうとするけど分かってもらえない。それで「もういいよ」と諦めてしまう。そういう描写がものすごく巧い。そして作中で幾人も、そういう壁を越えて分かってもらおうと試みてはうまくいかずに死んでいってしまう。そんな流れのようにも」

 

・「狭義のゲーム」について詰めて書いていくのは作品の要請でも合った。この話を書くならば、そうあらなければならない。

 

・堺「(馬鹿による断絶とか)ゲームの話を突き詰めていくと、ハリ・セルダン(の心理歴史学)になるのかもね、と思った」

 

■作風について

・自分の現状として「地に足がついていない」、おとぎ話的なものは(今は)書き得ない。
→堺「書きたいができないのか、書き得ないのか」
→(自分が満足するようには)書き得ない。(その方向性の中で)「書くことがいいか悪いか判断する「定規」が自分の中にない、自信がない。
ある描写や表現は(その方向性、方法論の中で)良いのか悪いのか、それは「正解」であるのか、そういうのが自分で判断し得ない。
だから今はそれが書き得ない。


■経歴、履歴について

東京大学院で表象文化論を研究中。一応在学中(休学中)。そろそろ学生辞めるかも。

 

・OBによく炎上する人たちが(堺「どこかで(東大で表象文化論って)聞いたと思えば(笑)」)。
※実名出ていましたが、一応伏せます。

 

twitterは(アカウントはエゴサーチやその他調査用に)持っているが自分でつぶやいてはいない。
炎上対策をしてマイルドに当り障りのないことだけつぶやくか炎上上等でいくかの二択であるような気がする(池澤「ですねー。(女性)声優だと食べ物や猫の話とかばっかりに……」)フェイスブックはやっていて友人たちとの連絡に使っている。

 

■読書遍歴及び学生時代について

・SFとの関わりはSFファンの父(現在65歳くらい)の本棚にあった星新一筒井康隆などから。中学生の頃、特にSFとは意識せずそこら辺を読んでいた。

 

・高校生の頃に自分の中でミステリブームが。母親がミステリファン。本格ではなく、宮部みゆきさんとか東野圭吾とか割合ライト(?)な感じのものを中心に読む方とのことでその影響を受けつつ。

 

・ちなみに父親の方はミステリもよく読む人だけどSFもミステリも古典偏重なきらいがあって新し目のそういうの(?)には批判的だったのだとか。

 

・高2頃からいわゆる高二病とでもいうべきかエンタメフィクションをあまり読まないように。
岩波文庫端から読んでいくとか。新潮クレスト・ブックス、それとハヤカワepi文庫あたりならオーケーとか。
オーウェルとかNever let me go……『わたしを離さないで』とかあたりからの流れで(ハヤカワの)青背もまあいいか、みたいな。

 

■研究と作家志望&賞への投稿に至った経緯やそれ周りの心情などについて。アラン・チューリングについて。

・そんなこんなで大学では松浦寿輝に師事。初めに仕上げた小説はいわゆる純文学。
それで文学賞に応募となり相談した所「自分が(選考委員などで)関わっていないところを」と言われたが(松浦さんは)なんかやたら幅広く関わっていて。新潮新人賞くらいしかなかった。
で、二次くらいまでは通ったけれど落選。勿論(?)、受賞する気満々だったので受賞作も読んで見つつ「ほお……」と思ったり。

 

・大学院ではアラン・チューリングを研究。
実は高校あたりまでは割と体育会系。サッカー、そしてラグビー。東大理Ⅰから文転した。
中上健次をテーマにするなどしていたけど、それだともうどうやっても将来うまく勝負できなさそう、食えなさそうだった。
そこで「自分はどこらへんなら勝ち目があるか」と考えてみて、チューリング研究なら自分にも強みを見いだせるかもしれない、と。

 

・文学も科学も分かるしチューリングもSF好きだったという。
チューリングSF小説を書いており、拙くそれ自体は面白くはないがチューリングの人物・人生を考える上では非常に面白くもあればなにやら染み入るものもあった。

 

・堺「『イミテーションゲーム』は観たの?どうだった?」
「あの時期のチューリングは記録が残されていない、エニグマ解読で秘密任務に従事していたから。
フィクションでチューリングを物語にして語るならそこしかない、というところ。
あり得ないけどもしも自分が「(チューリングで映画を撮るとしたら)どうすればいい?」と意見を求められていたら「そこしかないでしょう」とアドバイスしただろう。
面白い作品ではあった」

 

・堺「チューリングを題材に小説を書く予定は?」
まだそれは書けない。書き得ない。
また、イーガンが先に書いてしまってもいる。
『ひとりっ子』で未来から来たAIがチューリングをパパと呼ぶ。
(同性愛者だった)彼にとって子孫を残せないのは本質的。
チューリングSF小説に登場させるなら例えばそうだろうという形でもう書かれてしまってもいる。

 

・(純文学で投稿して受賞を逃した後)どうも自分が好んで読んでいるのはSFというジャンルに属するものらしいと気づく。
では、ということでSFを書いて応募してみた。それが『ユートロニカのこちら側』で実質人生二作目の小説でデビューとなった。

 

・今の作家生活はストレスがごく少なくていい。満員電車や目覚ましでやたら叩き起こされる生活は嫌で仕方がない。(当初はアカデミックな進路も考えていたが)大学教授とかはあからさまに面倒な事務仕事とか付き合いとか何やらたいへんそうでしがらみも盛り沢山でつらそうだった。ぜひとも作家になりたくて、なれてよかった。そんんわけで(『ユートロニカのこちら側』での)応募の際、かなりはっきり作家になりたかった。

 

・作家も作家でとうぜん人との付き合いの必要は生じるけどもなんというか「面」での付き合いでなく点と点という感じでいろいろ良い。助かる。やりやすい。

 

■今後の執筆予定について

※幾つか話に出ていましたが、一応ここでは配慮として伏せます。

 

2:懇親会で他の参加者の方との間で出た話題


とある、作品に詳しい方(作者ご本人ではなく)に伺った話題の幾つか。

 

・『ゲームの王国』はボーイミーツガールの物語としたことに大きな意味もあるかと思っているし、基本的にまずボーイミーツガールの物語と思っている。

 

・「ゲーム」とか民主主義や共産主義と言った政治的な話を書く上で、例えば中国の文化大革命とか、あるいは日本の話を直接書かなかったのはある意味で「逃げ」でもあったかとは思ってしまえてもいる。
特に海外(欧米)の読者が読めばそう思ってしまうのでは、とも。

 

文化大革命だとまだまだ利害関係者、何か書けば激しい反応を寄越してくる人々が存命だしそれなりに活発に動いている。ムズカシイ。


3:個人的な雑感

 

■「抽象的、図式的な話として書きたかった」、というのは個人的な作品の印象とも大いに重なる。

例えば、

マジックリアリズム「的」な描写の数々から。
→あるいは「馬鹿を描く」を試みつつ、ごく個人的には馬鹿は一般に内省、自己省察、自己規定(自分とはどんな人間か)をあまりやらないものでは?といった感覚や習性を欠きがちなものかと思える所(すごくひどい偏見かもしれませんが。また湊かなえ作品などは正にそこにおいて愚か者の描写が非常に巧みだとも)、『ゲームの王国』の人物たちは皆けっこうクリアに自己省察、自己規定を行ったりすることも。


→登場人物が時に「ネタバレ」とか「突っ込みは控えた」とか妙に現代日本の言語感覚に寄せた違和感のある言葉遣いを台詞や地の文でするのも。

いわゆる「リアル」に現実のカンボジアとか社会をそのままに活写する、といった志向ではなく。
特に上巻に顕著だったそれは下巻で抽象的、図式的な展開をしていくためのジャンプボードとでも言うべきものだったのでは、と。


■「革命」(ゲームのルール変更)を書くのに便利な場としてカンボジアを選択したという話。
■(懇親会で他の参加者の方の意見として聞いた)「「ゲーム」とか民主主義や共産主義と言った政治的な話を書く上で、例えば中国の文化大革命とか、あるいは日本の話を直接書かなかったのはある意味で「逃げ」でもあったかとは思ってしまえてもいる」という話。

これは例えば国内だと、ほぼ必然的に1960-70年代の学生運動とか安保反対運動とかそこらへんになるのだろうな、と。
長谷敏司さんが『円環少女』で学生運動を扱った理由も京フェス夜の部で直接伺った所、「そういう運動とか「熱」があるものはそこしかないから」との話でした。

 ※参考

 

米澤穂信さんがデビュー作『氷菓』でヒロイン、千反田えるの叔父関谷実に学生運動(の余波)に押し流される設定を与えたのも(直接伺ったことはないけど)きっとそういうこと だろう、とも。

 

アニメ方面でも学生運動周辺の諸々は例えば幾原邦彦押井守あたりの作品には非常に大きく影を落としてもいますし。
ジブリ方面でもいろいろあり、例えば映画『コクリコ坂から』でもそこら辺はいろいろあるかとは思えもしました。

小川哲さんもそこら辺に触れつつ、日本を舞台にした物語を描くこともあるのでしょうか。

 

また、連想に連想を重ねてなんか変な方向に行くようでもありますけれど。
幾原邦彦の代表作『少女革命ウテナ』では幾つかの回で月村了衛さんが脚本を担当しているところ。
今の日本のSF(あるいはミステリ)で、政治色も強めに「"今"と(逃げずに)真正面から切り結ぶ作家・作品」といえばまず思い浮かぶのが月村了衛であり『機龍警察』シリーズでは、とぼんやり思えもします。

小川哲さんがいつか日本を舞台にした物語を描くとき、"今"と切り結ぶという側面において『機龍警察』にも対抗し得るような作品になりもするのでしょうか。
そんなところにも期待や関心を抱いていきたいと個人的には思えます。

また作家が"今"や歴史や政治から逃げずに真正面から向き合った作品と言えば、古今東西を見渡してもその白眉と言えるのは例えばネヴィル・シュート『パイド・パイパー』ではないかとも思います。


以前、ブログ記事内で書いた話から感想を抜粋するとこんなところです。

 

「英国人の作者がこの作品を1942年に書けてしまうバランス感覚と矜持に感嘆。国同士が存続を賭けて戦う大戦の中、各々が「こんな時、人は自分の国にいなくてはいけません」と責務を果たさんとしつつ、争いそのものの悲惨さを痛感し、それらと関わりない幼い子供たちをその災いから遠ざけたいという思い。その責務と子供たちへの思いにおいて、英国民の老人や、瓦解した国際連盟の職員や、ドゴール派のフランス人漁師とも重なるものを、ゲシュタポの少佐にも認める眼。これが大人、これが紳士か。凄い。
そのバランス感覚は、子どもたちの描写にも(あるいはそこにこそ最も素晴らしく)反映されていて。大人たちの理想や悔恨や希望の、都合のいい投影ではない子どもたち。例えば、ドイツ兵に戦車に乗せてもらったり、イギリス軍へ空爆に向かいに飛び立つドイツ軍機を観て、それらが何を意味しているかわからずにはしゃぐロニー少年。何度念入りに言われても、興奮するとつい英語を口にしてしまう彼と妹のシーラ。
しかし、作者はそんな彼ら同士だからこそ、国境や言葉や上流下流といった壁などに全くこだわらず自然に打ち解けていけるのだとも描く。そして、それら全てをひっくるめて渇望していた責務として受け入れ、愛すべきものとして見守り、老紳士はこう答えるわけで。「「「子供ふたりは、ジュネーヴの両親がディジョンまで迎えにくるようにすれば、とっくにイギリスへお帰りになれたでしょうに」ハワードは微かに頬をほころばせた。「でしょうね」」(p185)
他にも気持ちのいい台詞が実に多い作品。例えばこれ。「ニコルは昂然と顔を上げて、低く言った。「何と言おうとそちらの勝手です。夕焼けを下品に言うことはできます。でも、夕焼けの美しさは変りません」(p295) しかし、更に気障でかっこいい台詞といえば、プロローグでのこのやりとりだと思うわけで。「「帰りは何かと大変だったでしょう」「いや、それほどでもありません」」(p15)
実にもう、呆れるほど見事に英国紳士だなぁ、と思わされる作品。当然、独特のユーモアもたっぷり。そして手に汗握りつつ次のページへ、その次へと読み進めずにはいられない、冒険小説としての愉しさに満ちた小説でもある。大傑作との評を聞くことが多く、つい先日新訳版が出た『渚にて』も読んでみようと思う。米澤穂信を作った「100冊の物語」」関連その14」

「『パイド・パイパー』の描写は大人たちの愛国心と、国同士の争いの悲惨から幼い子どもたちは遠ざけようという思いの双方について、引退した元弁護士の老英国人にも瓦解した国際連盟の職員にも、ドゴール派のフランス人漁師にも、そしてゲシュタポの少佐にも軽重の無い共通のものとして認めている。
あのトンデモ兵器パンシャンドラムの命名者、自身もどっぷり戦争に浸かってた英国人作者ネヴィル・シュートがが1942年刊行の1940年を舞台にした小説で、ゲシュタポ少佐をもそう描いてみせている。

バトル・オブ・ブリテンは1940年。
チャーチルが「もしヒトラーが地獄に侵攻することになれば、私は下院において悪魔に多少なりとも好意的な発言をするようになるだろう」と演説したのは1941年。
その中での42年『パイド・パイパー』刊行、作中の1940年。

その状況下で"我々も彼らも、各々の事情と責務を抱え、それを果たし、子どもを思う同じ人間なのだ"と明確に書いてみせたのは、単に人の善意の賛歌なんてものじゃない、もっとものすごいものだと思う」

 


■「例えば上巻では共産主義(の悪夢的側面)を描き。下巻では民主主義(のそれを)を描けたなら美しかったかと」について。

先程触れた『円環少女』において、非常に大雑把に言うとラスボス勢力(?)たる再演大系には共産主義の影がちらついたりもしているのも面白いかな、とぼんやり思えます。

 
東野圭吾作品と"ゲームのルール"的な話?と『ゲームの王国』と。

小川哲さんの母親のミステリ好き話絡みで東野圭吾の名前も出ましたけれど。
名探偵の掟』『名探偵の呪縛』はある意味"ゲーム的に"「名探偵」や「(本格)ミステリ」という概念をパロディとして扱ったもので。
国書刊行会本格ミステリの現在』では「本格原理主義者」としても知られる北村薫先生が「東野圭吾論 : 愛があるから鞭打つのか」と題して論じるほどのものでもありました。


ここで東野圭吾の名前が出たのもすこし、面白く思えました。


4:(イベント参加前時点での)自分の『ゲームの王国』感想

 

以下、全文です。


小川哲『ゲームの王国』、自分の暫定的な感想をまとめました(リンク先ネタバレ有)


きっと国内SFオールタイムベスト上位確定かとすら思う傑作で。それにも留まらない、多面的かついずれの面においても輝かしい魅力に溢れた化物作品かと思えます。


まず、唐突ですが。
かつて日本推理作家協会賞に『華竜の宮』が(数年後『深紅の碑文』も)ノミネートされるという「事件」がありました。

その選考で小説全般の読み巧者の中の読み巧者。
とりわけミステリにおいては疑いなく日本一の人物である北村薫先生がこうおっしゃったわけです。

「『華竜の宮』と『折れた竜骨』を推した」

という冒頭に続き。まずSF読者ではない自分は

「その枠の中での評価はできない」

と断られた上で。

「五作を並べた時、小説としての魅力は『華竜------』が飛び抜けていた」

と始め。青澄とチェンの姿勢を

「《汚れた街を行く探偵》という、ハードボイルドの典型でもある。また『鷲は舞い降りた』などの主人公にも通じるものを感じた」

とハードボイルドの文脈に引きこんだ視点から賞賛。そして、

海上民と魚舟の繋がりなど、描かれる世界に小説の喜びを感じつつページをめくった。一方、陸地が水没を迎える物語を《今、読む》ということに、特別な思いもあった」「どうしても《この一作をとり、他のミステリ四作からもうひとつを選ぶ》という形の選考にならざるを得なかった。『華竜------』と他の作では、比べようがなかったのだ」

と、あの最高の小説読みでそして「本格ミステリ原理主義者」がこう褒め称えた。
例えば同じ推協賞長編賞の2010年度の選評を参照してみると面白くて。

「一般の読者に、どちらを面白いと言って渡すかといえば、普通は『身の上話』」

と断った上で。

「『乱反射』に与えないようなら、推理作家協会賞の存在意義はない」 

「なぜなら『乱反射』は「小説という衣の下に、本格の鎧を隠した作品」」

との論で場を圧し受賞を決めさせたのが北村薫先生でした。その先生に推協賞選考という場においてここまで言わしめたのが『華竜の宮』という圧倒的傑作海洋SF小説でした。

 

で、ここまで脱線してまで何が言いたいかというと。


「『ユートロニカのこちら側』が第3回ハヤカワSFコンテストで〈大賞〉を受賞し作家デビュー」したSF作家小川哲の第二作品『ゲームの王国』もまた、実に多様な側面を持ち、そのいずれにおいても光り輝く大傑作であり。
同様にジャンルの壁など飛び越え、あるいは様々なジャンルでそのジャンルの傑作を取り上げる場においても各々注目され讃えられ称されるべき作品なのでは?と。

 

『ゲームの王国』はまず何よりスペキュレイティブ・フィクションの大傑作でありつつ。
大衆文学なり、例えばハードボイルド枠で(?)ミステリなり、恋愛小説なり、歴史もの、政治ものなりの各ジャンルにおいても大注目作として勝負し得るし、ある意味それは作品にとって作者にとってどうなのかという面があってさえもそこら辺の賞にも殴りこませたい……「SFにしておくのがもったいない」云々という帯の文言も、そのように理解できなくもない話かなとも思えます。

 

この作品には例えば、大河ドラマそこのけのエンタメ性、大衆性も見出し得ますし。

序盤から毎ページ毎ページ、単語、言い回し、比喩、軽く差し挟まれる挿話を個別にみても「こういうの幾つか読めるなら、それだけでもその作品は傑作認定したい」という表現のオンパレード、百鬼夜行です。
最初の最初の書き出し「闇の中からは、光がよく見える」があの二人の掛け替えのない再戦の中で何度も現れる様など、あまりに文章として構成として素晴らしく、これを称えるに足る言葉を探し出すのに困ります。


この作品について先だって感想を交換したある人は「スゴイのはおもしろくない文章が一文たりとも存在しない、というところですね」と言ってくれましたがその通りで。例えば誰かに任意の1頁を5,6個くらい指定してもらって、その頁から「これは」という文章表現抜き出す……というお題出されても、ほぼ間違いなく困らず悩まず応えられると思えます。


その方も含め多くの人が既に指摘している側面ですが、これはきっとマジックリアリズム小説でもあって。
ソリスの嘘見抜き、泥の能力バトル、ソングマスター、輪ゴムの予言、サムの「石」、カンの不正感知勃起……こういうのは各々相当の部分、理外のものとしても描いてたのも非常に面白かったわけです。

 

そして、「悪魔」の子として生まれ、養父母にソリス(太陽)と名づけられた女の子と。
生まれた時にソック(幸福)と名付けられ、すぐにムイタック(水浴び)という名を自他ともに得ることになった少年のラブストーリーでもあります。

 

ラディという、あえていえば魅力的な悪漢のピカレスクロマンとして読む筋すら見出すこともできるかもしれません。

 

今も昔も正にそういった調査と検証に欠けたイデオロギー先行の愚劣さを遺憾なく発揮している某新聞の書き立てた「アジア的な優しさ」云々でも知られる(?)カンボジアの歴史と今について基本的にフィクションという形式を採りつつも、見事に描いて見せた歴史、政治小説とも勿論見て取れるでしょう。

 


そして、その上でなお、何よりも。
ゲームと人生、それは一致するか異なるかを問い掛け。
ルールと、ルールを覆し自分のルールを押し付ける革命と。
ゲーム/人生を楽しむことと、楽しむなどというにはあまりにも不条理かつ惨烈過ぎる世界と。
それらを描かれる全てを貫く主なテーマとして据えた上で。

主人公として一人の少年と少女が描かれて。

 

一人の少年は「ゲームと人生は別物」だと信じ。
自分はただ勝つというそれだけを目標とするゲームの無垢な清冽さに惹かれ続けていると思っていたその少年=ムイタック(水浴び)が、正にファム・ファタルであるたった一人の女の子に恋い焦がれ。
彼女に勝ちたい、彼女が愛しく恋しい、彼女が憎く恨めしい……ゲームも人生も、自分と友とが理想のゲームの中に追い求めた「その他の」勝利、即ち「敗者も勝者も共にルールの中で得ることができる楽しみ」すらも、世界も何もかも……ただ彼女とのゲーム、その楽しみに比べれば……というある種、無垢でも清冽でもない、あまりにも多くが混じり合った情動の泥の中にこそ自分はずっと居たのだと、旅路の果てに自らの答えを得て。

 

一人の少女は現実に「ゲームの王国」を築くと誓って。
業深く生まれ業深く育ち、こびりついたそれを見据えつつ、だからこそあるべきことがあるべきように回る「ゲームの王国」を。その途上でどれだけ血と濁りとに汚れ、あるべきでない振る舞いを何千回何万回繰り返そうとも、この世界にこの国に実現して見せる、全てはそのために……という在り方を保ち続けて。


そんな存在こそが自分だと思い込んでいたソリス(太陽)は、本当は自らの中であの日楽しんだただ一人の男の子とのゲームが光り輝いていて、その男の子のために、そしてその男の子と再びゲームを楽しむためにこそそれを目指していた……そんな(あたかも「水浴び」で清め抜かれたかのような)純粋無垢な願いと共に自分はずっと居たのだと、やはりあまりにも長く苦しかった旅路の果てに自らの答えを得て。

 

その二人の思索や認識の在り方に、あまりにもどっぷりと近年の脳科学方面のあれこれを注ぎ込まれてるのがスペキュレイティブ・フィクションとして最高である訳ですね。
『ゲームの王国』はまず何より、そんなスペキュレイティブ・フィクションの大傑作だと個人的に確信します。


明示に名前を出されるのは例えばアントニオ・ダマシオで、確かにそのとても独特な定義がなされた「情動」とそれを中心にした立論(とそれへの激しい批判や擁護)がたいへんに本筋に絡みに絡んでいるというか、そこらへんちゃんと知らないと本当にはろくに理解できないだろこれ、とも思えるわけですが。

 

もっといえばリベットの実験あたりからの諸々……あえて一冊でざっと観るなら『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』、そうでなければリベット御大の『マインド・タイム』あたりは勿論、ラマチャンドラン他の定番中の定番の十数冊、できれば数十冊(自分だとこのあたり)、もっといえばその辺りの入門書や部外者も視野に入れた概説書でない、専門書や論文にも手を出していたり、当該分野の研究者だったりビジネスに携わっている人なら『ゲームの王国』はもっとより読み込め楽しめるだろうな、と。


例えばそこら辺ある程度押さえてる人同士で読書会でもやれば絶対面白いですよ、『ゲームの王国』。


近年の(特に国内)SF小説は「ちょっとさすがにどうか」というくらいこの方面(脳科学、脳神経科学)の知見を取り入れたり疑問を呈したりそこをジャンプ台に飛躍というか与太話したりが目立ちに目立ったわけかと思えるわけですが、その意味でも『ゲームの王国』はいよいよ現れた一種の決定版なのかな、とすら思えてしまうところがあります。
詳しい人なら「『ゲームの王国』をより楽しむための(脳科学/脳神経科学方面の)定番10冊」とか選べそうだな、そこら辺と改めて併せ読むときっとずっと面白く読めそうだな、とも。

 

伊藤計劃以後云々と帯にあったりもするので(正直、一切気にする必要もないのでは?とも思いますが、ともあれ)一応そこらへん踏まえると。
例えば『ハーモニー』の双曲割引(の罠の排除)から意識消失という理路(そもそも作中人物の説明が作中に起きた実際を真実ちゃんと説明し得ているという保証などもなく。その他の面でも色々と雑に過ぎる観方であり論外なのかもしれませんが)なんかは「いや、それは意識を必要とするあるいはその発生をもたらしたそれなりに重要な一要素一側面ではあっても、それに留まるものでもあって。双曲割引の罠を抜けば意識消失!なんてのはさすがに無茶もいいところでは?」と少し思えたりもした所。

『ゲームの王国』の「P120」云々を仮定してのあれやこれや、ムイタック教授に世界でこれを主張しているのは自分ひとりとか結構誠実に断りを入れさせてのだいぶ飛躍に満ちた話ではあるんですが。
知る限りの脳科学方面のあれやこれやと一応(読み進めつつ自分の脳内でざっとできる範囲に)照らし合わせてみてもめちゃくちゃ楽しかったですし、(知的)興奮にも満ち満ちていて、もう最高だったなと。

 

また、ここで再度感想を交換したお相手の表現を借用すると「後半に至って「ほんとうにおもしろい、完全無欠におもしろいゲームとは何か」という問いかけへの究極のアンサーも含めて、ゲーム論、脳科学的な側面、より抽象的なゲーム/政治論として、あまりにもたくさん軸のある作品」とのことなのですが。

「問いかけへの究極のアンサー」というのはある種野崎まど的?でもありつつ、あの軽妙さと切れ味ともまた違った持ち味なんですよね。長谷敏司流の執拗な問い直しともまた違う。
まさに小川哲さんの個性なのかなというべきところで。なんともすごい。ただただ、すごい。

 

その上で、上巻においてこれだけ魅力的な人物を描き、各々の魅力的な喪失と気づき、その未来に拓かれるべき道の豊かさ味わい深さを匂わせた上で。
あまりにも不条理にその命と前途とを奪うことを繰り返す。凄まじいし作品としてもものすごく魅力的な描き方だけど、でもその後どうするんだ……と思ったら下巻で時間大ジャンプ!という構成の凄味も素晴らしい上にも素晴らしいものでした。

 

そして、上巻でとんでもない熱量と筆力で描かれた悲惨と不条理に満ち満ちたポル・ポトの台頭とその圧政下のカンボジアの中での諸々が下巻に来て。
かつての少女が50年に渡り勝ち続けついに決定的な勝利を迎えつつあった「政治/現実」のゲームの上での二人の無残なすれ違いとその周囲での諸々が描かれていき。
その高まり続けた哀しさが終盤、50年に渡る旅路の果てに少年が創ったゲームの上での二人の「再戦」という形であまりにも輝き(と闇。リフレインされる「闇の中からは、光がよく見える」)をもって描かれて。
そして美と理に満ちたあのラストに繋がっていく。
あまりにも見事でした。

 

どうにも雑然としてすみませんが、以上、暫定的な感想です。

いずれ、もう少しまとまった形でブログの感想日記にでも出来ると良いのですが。

(実写版)映画『氷菓』ネタバレ感想

映画(実写版)『氷菓』。

一点を除き関谷純を演じた本郷奏多さんの姿と演技が非常に良かったかと思います。

その一点も決して俳優のせいではありません。
残念ながら他は、あまりにも問題だらけかと思えます。

原作者が丁寧な称賛を送っていようが関係なく、一読者として不満は尽きません。

 
批判したいことは無数にありますが、何よりまず第一に。 
"あんな形でしか叫べなかった"というのが動かし難い、動かしてはいけないことでしょう
実際に画面で叫ばせることなど断じてあってはなりません。

目を、耳を疑うしか無い場面でした

全体として原作に比しても「関谷純の物語」という側面をとても強調したいのだという意図は伝わってくるように思えました。

その上でこれ、というのがどうにも理解し難く思えてなりません。

 

また、高校生・関谷純の生きた時代の空気やその様子は作品の限られた言及に加えて。原作や映画の読者・観客がもし望むならばいろいろ調べもして、それも含めて脳裏に描き想像を深めていくべきものでしょう。

作中においてそこまで鮮明なイメージは描けていなかったでしょうし、描き得なかっただろう古典部の四人のキャラクターの脳裏にも映画のようにあたかも当時の学校の模様が描かれてしまっていたかのような表現は、その点でもおかしかったと強く思わずにはいられません。

 制作側が観客にそこを強くイメージして欲しいから……という理由で(なのかどうかは定かではありませんが、一つの憶測として)作中人物が脳裏に描き得ないイメージを映像として彼らが思い浮かべ感じているかのように描いてしまうのは、端的に誤った手法かと思えます。

 

次にキャラクターを幾人も変質……あえていえば愚かであったり軽薄にしていたのは極めて不快でした。

 

福部里志のキャラ造形があまりにも解釈違いで耐え難く感じられました。
(自分の中では)彼がいつも浮かべているのは「微笑み」であって、にやけ笑いではありません。
「似非粋人」(角川文庫版p24)であって軽薄の権化のような風情ではありません。

 

映画版の糸魚川養子も、『氷菓』という題名の意味に気づいていたと受け取ることも出来るのかもしれません。ただ、そう断定するのは難しいというか、むしろ「気づいていなかったのでは」とも思える描写でした。 
しかし、あれはあまりにも当然に"勿論分かっていた"と読み手/観客には知らされなければなりません(ちなみに "なぜ糸魚川養子が分かっていながら、高校生である彼らにあえて語ろうとしないのか"が原作において奉太郎が訝しみつつ分からないのはまた別の問題であり、それは彼の人生経験の不足からのものです)。
そうでなければ原作で奉太郎が怒り、声を上げたように関谷純が浮かばれません! 
新たに火災の被害者と救出のエピソードまで加えるなどしつつ、あれは一体なんだったのでしょうか。自分にはうまく理解できません。 

 

また、事件の際、学校側にも相応の識見と意図と覚悟があったことが原作ではやはり糸魚川教諭によって示唆もされています(p197-198)。 
映画版からそれは伺い得たでしょうか?

 

千反田えるのキャラクター改変も(これは個人的趣味も大きいかと思えますが)到底納得できません。 
あるいは記憶違いかも知れませんが。

「わたしは、折木さん。過去を吹聴して回る趣味はありません」(p81)

前後のやりとりはあったでしょうか? 

「やれるだけのことはやったつもりです。当時の環境を再現できればと思って倉にも潜りましたし、疎遠になっている関谷家にもできる範囲で接触しました」(p79)

あたりは? 
そこらへんがなければよくわからない異常な引力?を勝手に感じて、奉太郎に話を不躾に無遠慮に持ち込むだけの人物に見えてしまいそうになるかと思えます 
率直に言って映画版の彼女は、個人的にはそう観えてしまいました。

 

原作の千反田えるなら題名に込められた意味が解き明かされれば

「……よかった、これでちゃんと伯父を送れます」(p206)

と言えたわけです。 
映画版ではベナレス云々を奉太郎から言われてようやくそれが出来ていました。 
ある意味で納得かもしれません。 
映画版の千反田えるは、そこにおいてもそういう人物なのかもしれませんね。

 

映画版では 千反田邸での謎解きを終えた帰り道、灰色薔薇色談義で奉太郎が伊原摩耶花から見透かされたように割と気軽に「本当は薔薇色も羨ましかったんじゃない?」云々と声を掛けられたりしていました。 
福部里志は終始口数も多く、不快なにやけ笑いを浮かべてもいました。 
……実に無遠慮で、荒っぽすぎる踏み込みだと感じられました。 

 

ここは、原作ではどうであったか。 

「里志は話し出せば立て板に水だが、なにも言わないこともできる男で、俺もやつのそういうところは気に入っている。だが、いまはなにか言って欲しかった。気まぐれに後づけで理由をつけただけで、黙られたくはなかった。 
「なにか言えよ」 
 笑ってそう促すと、それでも里志は微笑みを見せずにそういった。 
「ホータローは……」 
「ん?」 
「ホータローは、薔薇色が羨ましかったのかい?」 
俺はなにも考えずに答えていた。 
「かもな」」(p179) 

……あくまで一原作ファンとしての意見・感想ではありますが。 
映画版の福部里志千反田える伊原摩耶花もあまりに人の思い、人のあり様に踏み込むことに、粗雑に過ぎました。
そんな彼らもそれを良しとしてしまう折木奉太郎も、自分の知っている彼らとはあまりにも違いすぎます。
そして、それが全くもって好ましくありません。納得もできません。

 

 

また、ビジュアル的にも演技的にも。 

 

20代前半の主演たちが高校生……古典部員四人をやっているのはなんというかコスプレ感が酷く感じられてしまいました
そして、それをそう感じさせない演技力なりなんなりも持っていなかったのでは?と。 
ただ一人、主演クラスでは関谷純を演じた本郷奏多さんにはそれがあったと思えます。 
例えば歌舞伎の名優なら還暦を迎えた男性が十代の娘を演じることも叶います。叶ってしまいます。そこまでは勿論求めるわけもありませんが、ちょっと酷すぎはしなかったかとごく個人的には思えてなりません。

 

台詞を始め演技もきつく感じられてしまいました。 
例えば奉太郎役の山崎賢人さん、酷いことを言ってしまうと「クソ姉貴!」と吐き捨てた一言あたりを除けば、作中の人物が作中人物としてしっかり語っているようには聴こえませんでした。 


演出も奉太郎が推理に入るときの画面回転ぐーるぐるや、妙に仰々しい音楽なんかも「なにこれ?」と思えてしまって。 
エンディングの主題歌?も歌そのものはともかく、この作品に似合っている曲なのでしょうか??? 
率直に言って、諸々、あまりにもダサかったかと思えてなりません。

 

 

なお、映画版についての肯定的な意見として、これで関谷純の無念やそれを受けての千反田える折木奉太郎の思い、折木供恵からの手紙、折木供恵への手紙の意味が分かった、伝わった、感じられた云々というのが目につきもしますが 

これを言うと嫌われてしまうかもしれませんが……。 
あえて言えば原作の時点からその辺りは極めて……というか核心的に重要なところだったと思えます。
原作時点で感じ取ってもいいところだと思えます。 
「ここまでやられないと伝わらないものなのか」とも思ってしまいもします。 

ごく個人的な感覚では、映画版のようにしつこくそこら辺を描かれてしまうのは非常にダサい。野暮にも程があると思えてしまいます。 
それは解説や感想ならば時にむしろそうすべき仕事ではあっても、翻案のするべき仕事ではないでしょう。 
題名の謎解きの<これはこういう意味なんだ>の念押しもくどいどころではありませんでした。 

 

とりあえず、観てきて間もない感想はこんなところです。 
多分、以降あまり言及することもないかとは思いますけれども。

長谷敏司『ストライクフォール』1~最新巻感想まとめ

端的に言って最高です。

これに限らず長谷敏司作品はいつも大抵そうなのだけど。

(それを読むまで自分でも知らなかったのだけど

「これが今自分が読みたいし読むべきものだったんだ。こういうものを求めていたんだ」

と教えてくれます。

『劇場版 響け!ユーフォニアム 届けたいメロディー』ネタバレ感想。

『劇場版 響け!ユーフォニアム 届けたいメロディー』。

追加上映を新宿ピカデリーで観てきました。良かった、間に合って……。

 

とことん「黄前久美子田中あすかの物語」に再構築、高坂麗奈は人間関係ではとことん後景に退き(つつ演奏場面のトランペットで圧倒的な存在感を示し) 鎧塚さん周りも思い切って削り切り、あすかの抱えるものに久美子を届かせるために姉と父母とのエピソードはなぞりつつあるいは強化されていて。
時系列やイベント内容もいじられている。
実に大胆かつ面白い。そして、素晴らしかった。

 

大事なことはなにより音楽を、演奏をもって語られるのも見事だった。
だから河原であすかが(久美子が卒業式の日に初めてその曲名を知った)「響け!ユーフォニアム」を自分だけに吹き聴かせてくれたあの時の回想で作品が締めくくられるのも、まさにそうあるべくしてそうあったかと思う。
この作品においては彼女たちは言葉より表情その他の演技より何より、その音楽を、演奏をもって彼女たち自身を語る。
他にも例えば、京都駅吹き抜けでのコンサートで、晴香のソロをあすかは言われた通りにしっかりと聴き、見届け、そして支えてみせる。
全国大会の演奏が部員一同の人間関係や心情その他の集大成であったことも、改めて言うまでもないことかと思う。

 


ただ、それでも台詞と演技で語られた部分についても触れていくと。
例えば「そんな相手に本心を語ってくれると思う?」はあすかは久美子に語りつつ、もちろん、あまりにも当然に、自分のことについても語っていたわけで。

タイプこそ違え、他人に本心を見せず踏み込ませず、傷つくことを恐れていることで自分と久美子とはよく似ているとも思っていて。
だから、他の誰でもなく小笠原晴香部長でも互いに恋人のようでもある中世古香織でもなく、黄前久美子には他の誰にも見せないものの一端を見せた。
「黄前ちゃん、いつもと違うね」「あすか先輩が普段と違うんですよ」というやり取りが非常に示唆的。

 

そして、田中あすかはそれでもどうしても本音の本音をストレートにはぶつけることなどできなくて。
だからこそ、久美子が(偶然にもあすかと母との問題とも諸々重なる姉の問題に触れたことにも背中を押され)疑いようもなく真情を、激情をぶつけてきた、ぶつけてきてくれたことが涙を堪えられなくなるくらい嬉しかったのだろうと思う。

 

しかし、そんなことがあってすら。
あまりにも我儘に「私欲」で動いてきた自分、誰にも本心を見せず踏み込ませず、その本心では周りを色々冷たく観ている側面もあった田中あすかは。
そうであるからには本当は酷く嫌われていたのにも違いない、例えば同じユーフォニアムパートの久美子にも……卒業式の日になってすら、きっとそう思い込んでしまっていたのではとも思う。
卒業していく先輩たちとそれを惜しむ後輩たち(教師たちも)の環を避けた田中あすかは、実は「怖がって」もいたのではと思う。
表面より深い部分において、傷つくのが怖い臆病さにおいても田中あすか黄前久美子はきっと似ているから。

 

だから、自分が避けた「環」から離れてまで、こんな自分を探しに久美子が走ってきて、語り始めてくれても。
「本当は嫌っていたのかも」と言われ「知ってたよ」と寂しげに受けてしまう。

そして、その上でこそ。
「大好きだから」「あすか先輩の演奏をもっとずっと聴いていたかった」と涙ながらに再び真情をぶつけられた時の心情たるや……。

そんな掛け替えのない贈り物に対して返すべきもの、渡すべきものがあったのはむしろ、田中あすかにとって幸いだったかもしれない。
自分が相手にとってどれほどのことをしてのけたのか、きっと本当には理解なんてできていない黄前久美子は渡されたノートを、身に余る贈り物、これからせめてそれに少しでもふさわしい自分であるべく精一杯を尽くさないといけないものとして受け取りもしたのだろうけれど。

 


なお、他のキャラクターたちについても。

たとえばTVアニメよりだいぶ登場頻度が控え目になったことで、中世古香織さんの穏やかな優しさ、様々なものを受け入れる度量、それでもできることをしっかりやり続ける強さといった美質はむしろ更に強調されていたようにも思う。個人的にはこのキャラクターについても、より好きになれた。

 

中川夏紀も(たとえば吉川優子とのじゃれ合いなどはほぼ削られつつも)短い描写の中でも、当人もより魅力的にも映りもすれば。
「私欲」のために動く自分が周囲から嫌われていること、本当は自分の存在は望まれてなんて歓迎されてなんていないんじゃないかという「怖さ」「臆病さ」を抱え続けていたのではと思える田中あすかにとって、きっと。
事情を理解して代役を引き受け準備を続け、自分が出たいとも勿論望みつつ……それでも本当に復帰を心から喜んでくれた夏紀の存在はたまらなく嬉しいものだったのではとも思える。

 

小笠原晴香部長も、あえて何がなんでもあすかを復帰させようとしなかったことが素晴らしく立派だったと、劇場版を観ながら改めて。
あすかが居なくても部を導き支え続けてみせることで親友の助けになろう、今まで「特別扱い」してきてしまったことの償い(本当は特別なんかじゃないのに。これは久美子が叫んだ「ただの高校生じゃないですか!」とも繋がる)をしよう……悲壮な決意を抱き、貫き通したのがあまりに見事だった。
そうした諸々が例えば、先述のように京都駅吹き抜けコンサートでのソロ演奏に凝縮されていたのも。

 

吹き抜けコンサートと言えば、川島緑輝が他の部員から思いっきり離れた場所で演奏し、楽器の性質もそこから出る音もあんな感じで。
<この子はこの物語においてはちょっと浮いていることで、それでもって役割を果たしている子です>
とものの見事に示して見せたいたことも、とても面白かった。

 

あと、いわゆる(?)モブ部員(作画とか諸々みていると「この作品に「モブ」部員というのはいないんだ」という制作陣の強いメッセージを感じもするけど)の中でも。
TVアニメ版の頃から(アニメや映画では作中で名前すらたぶん出てきていない)岸部海松さんが好きで、劇場版でも本当に僅かな出番でもやっぱり好きで。

 

あと「私欲」といえば、黄前久美子田中あすかは勿論(それに高坂麗奈も)、滝昇のそれも個人的に大好きで。

ここで、滝先生については、TVアニメシリーズ一期放映の各話放映時にも例えばこんな感想出してもいて。

※2話放映時点

 
※3話放映時点


滝先生、音楽にも部員にも真面目で誠実な人ではあるけれど。

顧問に着任した最初の最初からこの人はこの人で、何が何でも部を(遠くない将来に)全国金賞に導きたい事情(亡き奥さんの夢)があり、部員の皆さんの自由意思を尊重する……みたいな建前はありつつ、思いっきり心理を誘導して人心掌握にも手練手管を大いに用いてもいたりもしたわけで。

心底音楽に真摯で、部員たちも皆、きっと心から愛しつつ。

それはそれとして自分の私欲、望み、願いのために全力で誘導を掛けることも躊躇わない。

そういう手段を用いて両立させてもいく。

 

ごくごく個人的にはそういう在り方、まったく問題ないというか、むしろそれが素晴らしいと強く思えてならない。

そういうキャラクターへの共感や愛着といった面においても『響け!ユーフォニアムj』という作品、TVシリーズも劇場版もとてもとても好ましい。


そんなこんなで。
ともかく、あまりにも素晴らしい作品だったなと思う。

『米澤穂信と古典部』より古典部四人の本棚についてあれこれ。

ムック本『米澤穂信古典部』収録。

米澤穂信と古典部

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