『宝石の国』『クジラの子らは砂上に歌う』の原作からアニメへの翻案について。『Just Because!』の「LINE」を活かした表現について。

twitterにしばらく前に実装された「モーメント」機能の個人的な活かし方を考えてみる機会に、ということもあり。何件かまとめてみました。

 

 あと、ついでにこんなものも。


『宝石の国』スタッフトークイベント(2017/12/23渋谷HMV BOOKS)レポート

渋谷HMV BOOKSでの『宝石の国』スタッフトークイベントを聴いてきました。
出演者は以下の皆さん。

約2時間たっぷり、濃い内容の会でした。

・プロデュース 武井克弘(東宝株式会社)
・制作プロデューサー 和氣澄賢(有限会社オレンジ)
・OP楽曲プロデューサー 照井順政
・OP映像ディレクター 天野清之(面白法人カヤック
・ビデオグラムパッケージデザイナー 山田知子(合同会社チコルズ)

・歌手YURiKA(OP曲「鏡面の波」)

※写真二枚目。

前列左が山田知子さん、右がYURiKAさん。

後列左から和氣澄賢さん、天野清之さん、謎ポーズの照井順政さん、武井克弘さん。


まずは東宝の武井克弘プロデューサーと有限会社オレンジの制作プロデューサー和氣澄賢さんのお二人が登場。

 

アニメ企画は13年頃から原作に強く惹かれた武井プロデューサーが企画。
その後2年くらいほぼ1人で各方面と折衝(いろいろと大変だったらしい)。
15年に和氣さんが加わり、本格的に始動したといった流れとのことです。

 

宝石の国』は各所で度々発信されている通り、有限会社オレンジ初の元請け作品。
様々なアニメのCGパートを主に担当してきたオレンジには(中心になって作品制作を回すために必須の)「制作」に携わる人が一人も居なくて。
外部から和氣さんを初の制作兼プロデューサーとして迎え、なんとか企画をやっていくことに。
そして和氣さんはCG方面はこれといった経験がなく未知のことばかり。
この作品をやっていくにあたり、CGに強い他社にいろいろと教えを請うていったのだというエピソードも。

「(作品が最後まで)出来たことが奇跡」とのコメントもイベント内で出されてきたりしました。

※ここらへんの事情は以下の記事でも触れられています。


続いて現れ話に加わったのは、OP楽曲プロデューサーの照井順政さん。

参加は武井克弘プロデューサーの勧誘によるもの。
なんでも、武井さんが「sora tob sakana」というアイドルグループにハマっていて。
いわゆる「楽曲派」といわれるアーティスト色が濃い芸風、そしてそのプロデューサーである照井順政さんは気になる存在だったとのことです。


そして『宝石の国』原作の奥深く時に難解とも思えるテーマを扱いつつ、キャラクターの魅力(や少年漫画的な熱さなど)キャッチーな面も両立させている(と思える)作風と、ポップと前衛を往復するような照井さんの音楽の性質(ロックバンド「ハイスイノナサ」の一員としての活動も参考にしたとのこと)に通じるものを感じたそうで。

 

初めての顔合わせで依頼が行われ、照井さんはその日の内に原作漫画を読み。
すぐに気に入り、快諾したのだそうで。
好きな作品でもあり、確かに自分の作風にも合い、「これならできるのでは」と。

 

その後、発注側には和氣さんも加わり、だいぶ抽象的なイメージ中心で行われ。
"(なにかが)形をなしていないところから始まり、バラバラから形をなしていくイメージ"といった感じだったそうです。

※こちらのYURiKAさんのインタビューで語られているような話だったのかなと。

位置づけとしては、極めて抑制された描写で「余白」が大きく読者に行間を読ませるタイプの原作に対し、アニメ本編は「わかりやすい」方向に翻案を行う一方で。
OP・EDはキャッチーというよりアーティスティックに……原作のイメージにより近い形で行きたかったとのこと。
発注の方向も「やっちゃっていい」「かなり前衛に振っていい」とのものだったそうで。
ただ、請けた照井さんの方は「そうはいっても間口も広く」しないとと大いに悩み。

結果、「ややキャッチーさが強すぎるかな」とは思いつつ第一稿を提出したところ好評で、以後、概ねその線で話が進んだとのこと。

 


このあたりで、そのOP曲を歌ったYURiKAさんも登場、話題に参加。
第一稿から最終的の形になるまでの間の変更が諸々話題に。

 

当初、チェロは入れられてなかったり。YURiKAさんに渡されたデモの時点の指示では歌のキーが半音高かったとのこと。
プリプロの時点でキーの高低を三種類試し、真ん中の半音下げに落ち着いたのだとか。

歌い方もどれくらい"声を張る"かいわゆる"ウィスパー"にするかも悩みどころだったそうで。
YURiKAさんとしては"感情を殺す""自分を殺す"覚悟で無機質にやるイメージで最終版よりずっとウィスパー寄りでまずやってみたとのことです。

歌手として「鏡面の波」は三作目にあたり、これまで元気で明るいイメージがあったかと自分でも思えていたところ(イベント内では他アニメ作品関連ということもあってか触れられませんでしたが過去二曲は『リトルウィッチアカデミア』一クール目ニクール目の各OP曲(『Shiny Ray』『MIND CONDUCTOR』)で。確かにどちらも「元気なイメージ」です)。
あえてそれを崩してでも、という決意があったのだとか。
ただ、そこら辺は織り込んだ上での依頼でもあり、うまいこと調整して現行の形に落ち着いたのだとも。

 

YURiKAさん「ああ、そういうの思ってたより配慮して貰えているものなんですね」
武井さん「当たり前でしょう。(そういうのが)プロデューサー(の仕事)ですよ?」

 

照井さん「かなり時間をかけリテイクも多めに調整させて貰えたのが助かった」
武井さん「ああ、そちら方面から「大変なんですよ」と声も出ていました(笑)」「この作品はそれぞれの方面で「こだわる」人が集まった、集めた観もありますね」

 

和氣さん(出来上がってきての印象は)「(従来のいわゆる)アニメっぽくないな、と。依頼としては(さきほども言ったように)「なにもないところから音楽構築されていくイメージ」とか出していて。でも「言うは簡単」だけど!作るのは大変なわけで。イメージ通りに仕上げて頂いてありがたいな、と」

 


ここで、五人目の登場はOP映像ディレクター 天野清之(面白法人カヤック)さん。


参加の経緯は和氣さんの提案から。
アニメ関連はだいぶ畑違い、経験も少ない方ということで話を持ち込まれた武井さんはすこし戸惑いもしたそうで。
和氣さんは以前携わった『バケモノの子』イベントでカヤックにイベント展示関連で仕事を投げてみたところ。
普通は提供した素材を元に編集や加工を施して対応するものであるところ、提供素材を「資料」にしてプログラムを組んだりあれやこれやでインタラクティブな展示を行う案が返って来て、そして実施されたそうで。

「この相手となら、ゼロベースから。アニメでよくあるものでない全く違う全然異なるものが作れるのでは」

と思えたのだとか。
そして『宝石の国』では正にそれを求めたかった、と。

 

和氣さんの発注としては当初、原作表紙のビジュアルのイメージを出したかったのだということでした。

バウハウス(イベント中この後何度も重ねてイメージ参照先としてこの名前が出ました)

バウハウス - Wikipedia
あたりの、絵画を3D的に加工してみせた映像作品あたりを参考に???という話だっとか。

※ここらへん。
例えば、名画が動くこちらの動画ですとか。

 
「全編が動く油絵で構成された」映画『ゴッホ 最期の手紙』あたりが最近話題にもなりました。例えばこういう?


請けた天野さんの方ではというと。
表紙を幾何学的に捉え色彩を強調しつつ、数学的(思考)やプログラムを活用して表現しようと考えたのこと。
従来のアニメ映像のアプローチだと自分はただあまりに経験(も技術も)欠き、やれることが少なくもあり。
幾何学、数学、プログラムといった強みを活かしたかったとのこと。

 

ただ、天野さんには他分野の映像の仕事での「コンテを切る」経験はあっても、「アニメの絵コンテ」というのはだいぶ特殊なものであったらしく。
「アニメーションの設計図である」ともしばしば解説されるアニメの絵コンテは構図からタイミングから意図から動きから、およそその場面が描くべき全てが指示されているべきもので、ラフにイメージを記した他方面の「コンテ」とはあまりに趣が異なるそうで。
そこのギャップでは発注した和氣さんも請けた天野さんも大いに苦労し、互いに「意図が伝わっていない!」と悩んだのだとか。

「これだと誤解を招く可能性が……!」と和氣さんも思い悩み、提出された「コンテ」をなかなか武井さんにも見せようとしなかった、といったエピソードも。

 

ともあれ。
その天野さんが、最終版よりはだいぶ前のバージョンのVコンテを披露。

 

※少し、余談。
肝心の映像を出せないのが苦しいんですが……。
個人的な雑感を書くと。基本構成は現OPにそのまま繋がりはしつつ。
とことん「フォスとシンシャを軸」にしたVコンテのように見えました。

かぶフォス。砕ける。青緑に輝く破片が「宝石の国」のロゴを形作る。
破片が吹き流れていく。その先に赤く輝く水たまりのようなもの。現れるシンシャ。
シンシャも砕け、青緑と赤のきらめく破片が絡まり合うように流れていき……。
その二人の欠片を鏡面として次々と他の宝石たちが映り込む。

なお、実際に放映されたOPはこちら。

 両手両足を広げて笑顔のフォスは京極監督が足したとかなんとか話が出ていたかも?
鏡面に映り込む宝石キャラたちは「どの宝石にどの宝石キャラが映り込んでいるか」もたぶんとても面白いものになっているはず。

以上、余談終わり。

 

 

天野さん「フォントは何を使っているの、と質問されたりもするんですが。クレジットにも名前を出してもらっているdotMPの堀内秀さんに適時作って頂いてます。明朝体ベースでところどころくるくるっと巻くような装飾を入れてみたり」
武井さん「そのフォントはOPでしか使われてないので声優さんたちが「ずるい」と(笑)「私たちのキャスト表記もあんな風にして欲しかった」って(笑)」

 


続いて、今度はOPの最終版に極めて近い、しかし、ほぼ最後がちょっとだけ違うバージョンが披露されて。


その版ではほぼ最後のフォスの体の各所にノイズのような揺らぎが入って。
なんでも、それはフォスが作中で喪い、入れ替えて変貌していく箇所に対応していたのだとか。
気づく人は気づく、そんな演出を意図しようともしていたそうで。
(没になったけれども)面白い試みだったのだけれど、とのこと。

 

また、天野さんは実はOP以外にもこの作品で幾つか面白い仕事を手がけていて。

まず「鏡面の波」のアニメ版ジャケットの一部を担当。

そして、ブルーレイ/DVDの各宝石バージョンのCMも天野さんによるもの。


面白いのは「実はこれはCGではない」こと。
宝石を模したオブジェを実際につくり、そこにプロジェクションマッピングでアニメ本編映像や絵コンテの一部や各種素材など……つまり制作過程が映し出されているそうで。
ユニークだった制作過程も込みでぜひ注目してください、観てください、という思いもあったのだとか。

 

そして、公式サイトの「アンタークカウントダウン」も天野さんのアイディア。


作品が好きになったあまり、頼まれた仕事の他にも何かしたくてたまらなくなり。
なんと1話放送の前々日になって「こんなのをやりませんか?」と提案していったのだとか。
提案する方もする方なら、受ける方も受ける方で。
武井さんは「やりましょう」ということで凄い速度で各方面に調整に動いて……。

 

武井さん「天野さんも数時間の間に(イベント会場のプロジェクターにカウントダウンページを映しつつ)これの制作をどんどん進めていて」
和氣さん「また凄い単位の時間感覚ですね」
武井さん「普通あり得ませんね(苦笑)」

 

なお四分割の結晶部分はそれぞれ放送局を示していたそうで(放送時間が異なるため)。
それぞれの放送時刻が訪れると、その部分が解放されて。

「アンタークチサイト」という名前。
キャスト名(伊瀬茉莉也さん)。
スペシャル壁紙ダウンロード」のリンク。

が段々と明らかになっていくという。

カウントダウンの直接の対象は登場した7話だけども。
非常に力を入れた、作品のターニングポイントともなる8話に向かって、少しでも盛り上げて行きたかったのだということだったそうで。

OP楽曲を手掛けた照井さんと天野さんの初顔合わせは、正にその放送前々日あたりだったそうですが(折角なので互いに会ってみては、ということだったそうで)。
そんな時期なのにまだ新たにそんな試みをしている様子には、照井さんもだいぶ驚かされたのだとか。

 


そして、このあたりから最後に加わったのが、ビデオグラムパッケージデザイナー 山田知子(合同会社チコルズ)さん。


起用は武井さんによるものだそうで。

なんでも、原作漫画の装丁はデザイナーでもある作者の市川春子先生自身が手がけている美麗なもの。
ブルーレイ/DVDのデザインもそれと比べても恥ずかしくないものにしなければ、絶対に失敗できないししたくない……と人選に悩みに悩み、TV放送が始まった数か月前に至ってもまだ発注先を決めかねていたのだとか。

そんな時に時講談社に行った際。
ものすごく美しい見事な印刷の『宝石の国』のダイヤが大写しになったポスターを見掛け、「これはなんですか」と。

※こちらに画像が掲載されています。

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二年前に印刷会社とデザイナーによる、印刷技術のプレゼンテーション企画(上記リンク先で紹介されている「INK DE JET!JET!JET!」)があり。
それに参加することになった、エディトリアルデザイナーの山田さん。
「できるなら、大好きな『宝石の国』の大好きなダイヤでやりたい!」と思ったのだそうで。
講談社だかアフタヌーン編集部とはなにかしら過去に縁もあったということで、企画書を市川先生の担当編集者に持ち込んでみたところ……「(私には)なんだか(企画の)意味がわからない」との反応だったとか。
ただ「(私には分からないけど)デザイナー出身の市川先生なら意図が分かるなり何か感じることがあるかもしれませんので、お伝えします」となって。
そして、市川先生の手に届くと、その日に内にすぐ快諾の返事が届いたのだとか。

 

そんな経緯で講談社某所に貼られていたポスターを見掛けた武井プロデューサー、その時点で(大事なこの仕事を頼む相手をずっと探しあぐねていたけれど)この人だ!と思えたそうです。

ただ、武井さんはパッケージデザイン等をコンペ形式で募集していたこともあり。
山田さんにもその参加という形で企画案提出を求めることになったのだそうです。

 

で、山田さん。
「まさか、私が『宝石の国』にそんな形で関われるなんてある筈がない」
とこの期に及んでも思い込んでしまっていたそうで。
コンペに参加できる機会をもらったのを幸い、「せめて爪痕を残そう」と。
三案出した内、二案は「こんなものコスト的にできるわけがない!」と自身わかっている「やれたらいいな!」という夢想みたいな案を叩き込んでしまったのだとか。

実際にイベント会場のプロジェクターに企画案を映し出しつつの解説も。

 

例えばA案。
キャラクターたちは異なる硬度で、触れあえば硬度が落ちる側が割れてしまったりする。
それが象徴するように彼らの間には断絶がある。それを示したい。
出来る限り透明な素材でパッケージ。
蛇腹状に折りたたまれ、四分割された中にキャラクターを一人ずつ配置。
開封していない(折りたたまれた)状態でみるとピックアップされた4人(4体?)の宝石たちはごく近くに集い触れ合えているように見える。
しかしそれは透明なそれぞれの場に分かたれた四人四枚が重ね合わせられてそのように見えるのであり、本当は彼らは互いに隔てられている。

撮影・録画不可とのことで正確な引用とは程遠いけど、大体そんな感じだったかと。

 

やはり同様に大胆?なB案も解説され。

 

その上で、採用され商品の基本となったのがC案の「ジュエリーボックス案」。

シンプルに……そしてプリミティブさや、シンメトリーといったものを大事にしたかったとのこと。

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各巻でピックアップされる宝石たちは、まず山田さんがデザインラフを提示(※コンセプトとして「抽象と具象の中間」「光と線で描く」といったものがあるそうです)。
キャラクターデザインの西田亜沙子さんがそれを元にイラストとし。
仕上げとして更に各種のエフェクトが載せられていく。

※現在出来上がっている数巻分、その過程の各段階の画をこのイベントでは目にすることが出来、眼福でした。

 

武井さん一押しのパッケージ四隅の箔押し……中央の宝石たちを狙う月人の矢束も、
「ああ、これ、シンメトリーを強化もしているんですね(武井さん)」
とのこと。

そしてエディトリアルデザイナーである山田さんはパッケージデザインに加え、ブックレットの構成も手がけていて。
むしろ、主に本の構成を手がけている山田さんにとってはこちらこそは更に本領発揮というところなのだそうで。
非常に多くの情報を(例えば1巻付属なら32ページという)限られたスペースにコンパクトかつ美しく、そして諸々意図を持って配置し構成してみせた手際は山田さんの自信作でもあり、武井さんも「ぜひ注目してみて欲しい」とのことでした。


※余談。
山田さん「パッケージデザインで、四隅をカットするデザインは強度も問題になり印刷会社さんと相談もして。あと、この形状だとブックレットの収納も問題になるんですがこの段階だとそもそもブックレットがあるのか無いのかも分からなくて」
武井さん「それはこちらの問題でしたね。すみません」
といったやり取りも。


そして、最後に和氣さん、武井さんの締めに近いところでのコメントから一部抜粋。

和氣「(CGと縁遠かった自分を始め)「はじめてだけどやりたい、挑戦したい」という人が集まった作品です」
武井「原作が好き、広めたいという初期衝動から始まった企画でした。結果として、(原作を大いにリスペクトして、そうであるからこそ)原作とは大きく異なる良さを持った作品になったかと」

イベントの総括及び作品のプレゼンテーションとしても見事なコメントかと思えました。


■幾つか個人的な感想。


◯気になる話が二つ

質疑応答の時間はなかったので聴くことはできなかったのですが、もしあれば聞いてたかったことが、二点ほど。

 

1:OPのコンセプト

天野清之さんが示した初期の?Vコンテは先述の通り「フォスとシンシャが軸」と現行より更に強調されていた観が。
それは発注元の指示だったのか、天野さんによる方針だったのか。
また、その部分が現行に移り変わっていった事情について、いろいろ伺えるなら伺ってみたいな、と。

 

2:ブルーレイ/DVDのパッケージデザイン

「ジュエルボックス案」とされ、実際その通りのイメージですが。
黒光りする色といい形状といい、同時に「墓石/墓碑のようでもある」と個人的に思えもします。
宝石たちの衣装が「喪服である」という市川春子先生のコメントからの連想でもありますが。
そこら辺、どうなんでしょうか。

 

◯8話「アンタークチサイト」の素晴らしさ

イベント中にも何度かその話題が出ましたが。
8話「アンタークチサイト」は素晴らしい傑作回でした。

ちょうど自分もこんな記事の中で取り上げてもいます。

こちらのまとめともども、ぜひ。


◯今後への期待

武井さんが半分冗談のように。

武井さん「まだまだ話したいことはたくさんあって。そう、ロフトプラスワンで「オレンジナイト!」とかやりましょうよ和氣さん」
和氣さん「一人だと場が持ちませんからそのときは一緒に出てください」

と口にした一幕がありましたが。
普通に本当に実現させて欲しいです。

勿論、それは一例で、別の形でもまったく構わないんですが。
例えば以前行われた「第30回 『CGWORLD CHANNEL』 TVアニメ『宝石の国』メイキングSP!!」の続編ですとか。


とりあえず、以上です。

話数単位で選ぶ、2017年TVアニメ10選

こちらの「新米小僧」さんが主宰だというTVアニメ話数別10選に参加してみます。


話数単位で選ぶ、2017年TVアニメ10選

ルール
・2017年1月1日~12月31日までに放送されたTVアニメから選定
・再放送は除く
・1作品につき上限1話
・順位は付けない

Fate/Apocrypha(フェイト/アポクリファ)』22話「再会と別離」
脚本:三輪清宗
絵コンテ:伍柏輸
演出:伍柏輸
作画監督:伍柏輸、浜友里恵、りお
総作画監督:(※シリーズ中、この話数のみクレジット無し)

 圧倒的作画回。
制作関係者及び業界関係者からのコメント/称賛も数多く見受けられ、そして熱を帯びてもいました。
奈須きのこからの、竹箒日記で異例の言及も。

 

関わった主たるアニメーター陣の出自や技法の特徴(WEB系)、担当パートの特定。
地面ごと破壊されゆく描写の際ブロック/キューブ状に壊れる演出の歴史。
いわゆる「作画回」によくある影なし作画の効果、有効性、理論、等々。
この挿話に関しての話題は幅広く、かつ、掘り下げて各所で語られています。

 

なお、個人的には、22話は原作小説からの筋やキャラクターの心情を大きく変更してみせた翻案としても見事で。
その映像は画は、端々に至るまでキャラクターの心情や起きている事態が作品に対して持つ意味と不即不離のものとして在ることも大きな魅力と思えます。

 

例えば、ジークがカルナに勝利し得た理由も。
敗北したカルナの感慨も。
アキレウスとアタランテの末期のやりとりも。
原作と対照させて観ていくことで一層興趣を増す挿話と思えます。

 

以上の諸々について、詳しくはこちらで。



プリンセス・プリンシパル』8話「case20 Ripper Dipper」
脚本:大河内一楼
絵コンテ:入江泰浩
演出:高田淳
作画監督:田中克憲、逵村六、小倉典子、実原登、内原茂、桜井木の実、澤木巳登理、小笠原理恵

 

ブルーレイ2巻特典のスタッフインタビュー集で速水螺旋人さんが「本当に"集団作業オブ集団作業"という感じのアニメでしたね」とコメントされている通り、とにかく総合力の高さが際立った名作でした。

 

全体の構成も美しい。

 

1話で主役五人=チーム白鳩が息づく世界はこんな全体像で、主たる舞台たる壁とロンドンはこんな場所。
こんなことを見せていきます(カーチェイス、Cボールのアクション、銃撃、剣戟、会話劇、探り合い、欺き、命の取り合い等々)と示し。
2話で「アンジェとプリンセスの物語です」と見せる。本当は1-2話セットで全体導入ですね、と。
そして、3話アバンも2話終盤に入れ込む当初予定だった、というのもその線上で理解は出来ます。
そこまで込みで「アンジェとプリンセスの物語としての開幕」という構成だったのでしょう
ここで、2話終盤の印象から3話アバンでガラリとキャラクターの印象が変わり(例えばアンジェの「カサブランカに白い家を用意したの」発言は(一部で)大いに話題になり盛り上がりました)驚きと衝撃を与えた展開は余りに見事で。

ゆえに、決定的なやりとりを2話終わりでなく3話アバンに入れた現行で正解だろうと思えます。

 

プリンセス・プリンシパルは上述した「こんなこと」の例示を見ても、あるいは1話本編を観ればわかる通り、諸々の要素を過積載した上に。
シリーズ構成大河原一楼さんも明言されているように、説明的な台詞や描写をあえて抑えてある作品です。
しかし、同時に「アンジェとプリンセスの物語」であるという中心軸が常に非常にはっきりとビシっと通っていて。
そこさえしっかり捉えられるなら、きっと十分に楽しんでいける作品かと思えます。


そして「アンジェとプリンセスの物語」であるとはどういうことなのか。
その過去であり原点であり、キャラクター及び作品の中心にある構図を示し抜いているのが8話となります。

 

 鏡写しの二人。

 

互いにとって互いが太陽のようで尊く価値に溢れた存在で。
互いを誰よりも深く愛し理解していながら、同時に<相手が自分なんか/自分が与えた<約束>を喪っては生きてはいけない>だなどと想像するなど出来るわけがなく。
経緯を知ったなら(例えば視聴者目線なら)誰もが気づくだろうことに互いだけが気づけない、そこだけが死角になってしまう二人。
そんな在り方が遺憾なく提示され。

二人の間にあるのがロンドンの壁が築かれる前から既にこうしてどこにでも人と人との間に存在する、望むなら「抜け穴」を通じて繋がれるのに皆そうしようとはしない「壁」であること。
何より心の中にこそある「見えない壁」である事も、出会いの時点から見事に示されています。


プリンセス・プリンシパル一期(もちろん、二期もあります。ある筈です)は「アンジェとプリンセスの物語」であり。
プリンセスがプリンセスとなり、そしてアンジェの「心の中の見えない壁」を崩そうと願い努め走り続け、分厚く固い壁に見事に大穴を穿ってみせたお話でした。
その明確な核となっている挿話が「case20 Ripper Dipper」、更に言えば先ほど動画を提示した二人の出会いの場面となります。

 


なお、冒頭で「総合力の高さ」と書いた通り、他の話数も勿論、素晴らしい傑作ぞろいです。

例えば絵コンテ&作画監督江畑諒真さんがあまりにも張り切りに張り切って当初540カット、後に削っても477カットというシロモノを上げてきて、死力を振り絞って制作されたという5話「case7 Bullet & Blade's Ballad」をシリーズ最高の挿話として推す人は少なくないかと思います。
個人的には、二両の列車を巡る諸々の動きがシリーズ全体の在り方を最終話に至るまで、その相似として暗喩をもって示していたことも注目すべきポイントかと思えます。

他にも「委員長」の10話。
欄干でのプリンセスの宣言等名場面を散りばめた4話。
ラストの落差と悲哀が見事な6話。
作中最大の「嘘」がプリンセスにより放たれる11話。
衝撃のアバンから見事な"叫び"を経て穏やかで美しいラストに至る3話等々……全話が傑作回という作品でした。

また、細部の面白さにも満ちた作品だというのも例を挙げればキリがありませんが。
例えば設定考証=白土晴一さんによるこんなお仕事ですね。
ホント、とんでもないです。


全体の構成について最後に一言付け加えると。
大筋は結構読めるというか早くから予想できる作りになっていたと思えはしたところ。
アンジェの性格について3話8話で、プリンセスについて3話8話12話で、8話で二人の互いへの負い目が解消などされていなかったと12話で……と強烈な(それまでそのキャラクターに抱いていた印象、言動や心理についての推測が大きく揺るがされるという)驚きが個人的にも用意されていて、実に凄まじかったなとも思えます。


宝石の国8話』「アンタークチサイト」
脚本:井上美緒
絵コンテ:京極尚彦
演出:京極尚彦
CGディレクター:茂木邦夫
プリビジュアライゼーション:松本憲生


2017年に観たTVアニメ作品で、作品として最もエポックメイキングな傑作であると思わされたのは『宝石の国』です。
数々の作品で魅力的なCGを提供してきた制作会社オレンジさん(※)による初の元請け作品は、1話冒頭から驚きに満ちていました。

 

※有限会社オレンジさんについて。

orange-cg.com

ナイツ&マジック』でも素晴らしいCG映像を見せつけていたのも。
異常にぬるぬる動くメカアクションが驚異的だった『コードギアス 亡国のアキト』も。
ロボアクション初め映像が爽快だった『IS 〈インフィニット・ストラトス〉』も。
坂道のアポロン』や『ウィッチクラフトワークス』や『ローリングガールズ』や『終末のイゼッタ』や『コメット・ルシファー』や『ディメンションW』のCGも。
ノリの良いアクションがウリだった『バディ・コンプレックス』も『マジェスティックプリンス』も。
そこは確かに見どころが幾つもあった『艦隊これくしょん』のCGも。
みな、有限会社オレンジのお仕事だったのことです。

それに。

 

そして毎話毎にその驚きが更新されていったのがこの作品。
本当にとんでもない……。
各種雑誌(特にCG WORLD)の特集やインタビュー等で明かされる、斬新で面白さに満ちた映像を生み出している合理的で新鮮な制作体制、過程、環境などの情報も興味深い作品でもあります。

※諸々詳しくはこちらにまとめています。


ここで、まさに作中で描かれたアンタークチサイトという宝石の性質のように。
第一話から驚きを更新し続けてきた流れの精華、結晶とでもいうべき傑作回中の傑作回が8話「アンタークチサイト」でした。

 

 

「変わらないと」「間に合わないよ」流氷の誘惑。
救出に飛び込んだアンタークチサイトの奮闘と記憶喪失への怖れ。
報告を受けた金剛先生の衝撃、アンタークの慕情、フォスの超絶愛らしさ。

 

緒の浜での成り損ないの出現と落下、見据えるフォス。
金と白金の新たな腕接合、驚くアンタークと背後に出現する月人。
暴走する腕に呑まれゆくフォス。

 

金剛先生への足止め、蜘蛛の糸に伸ばされる罪人たちの手のような月人たちの……。
アンタークの奮戦、月人たちの"釣り上げ"とアンタークの激昂。
「お仕置きされてしまうかも、どうしよう」。
フォスin黄金ブロック。

 

アンタークの散華、沈黙を要求するアンターク、その遺言。

 

月人たちによる回収、輝くアンタークの破片断片。
フォスの激昂と覚醒と疾走。金剛先生の抱き留め、見上げる視線。特殊ED。

……改めて流れを振り返っても全てが素晴らしい。


そしていずれも動画で動きとして流れとして観てこそたまらなく素晴らしいので。
静止画は勿論、一部動画として切り出してキャプチャなんてのも、ここまで挿話丸ごと凄味を見せつけられてしまう中ではあまりに虚しい。
もう、ただただ、すごいね、すさまじいね、としか。

 

そして松本憲生さんのプレビジュアライゼーションを贅沢に用いCGと融合させた手法も話題に。

そこ及び8話、それに作品全体について、他の方のですがこちらの記事も、ぜひどうぞ。

 

なお、フォスフォフィライト役黒沢ともよさんの圧倒的な名演はこの作品への感想において外せないものですが。

あまりにスゴイので何度も何度も触れている話となり、詳しくは先ほども触れた、togetterまとめを随時ご参照頂ければと。


それと、単に映像としての凄みというだけでなく。
大傑作である原作漫画とおよそ異なるコンセプトでアニメーションとしてどうあるべきかを考え抜いて全編に渡り表現している、翻案の妙としてもこの作品は飛び抜けていると思えます。
その良さはまさしく全編に渡るのですが。例示として幾つか出してもおこうかと思います。

 


メイドインアビス』13話「挑む者たち」
脚本:倉田英之
絵コンテ:小島正幸
演出:森賢
作画監督:ぎふとアニメーション、森賢、多田靖子

「劇場アニメかな?」という錚々たるスタッフ陣が結集。
1話冒頭から「劇場アニメだ……」というTVシリーズとは思えない映像を繰り出して来た作品。
しかも全話に渡ってクオリティが(もちろんその中での上下はあるだろうしあったかとは思いますが)高く保たれ続けたシリーズでした。

OPもあまりにも好き過ぎて。

その中からどの挿話を?というのは難問ではあるのですが。
悩んだ末、1時間スペシャルと枠の取り方からして気合が入りまくっていた最終話を。

 

では、この場面を観て下さい。

凄かったですね、凄すぎますね。はい。
(もちろんその前の火葬砲描写も凄まじいわけですが、あえてその後のこちらを)。

 

めでたく、二期決定。万歳。
ブルーレイBOX?もちろん、上下巻予約注文で買いました。

 
また、二期を待つ間?こちらもどうぞ。

 ところでレグ役の伊瀬茉莉也さんは、宝石の国ではアンターク役でしたね。


ボールルームへようこそ』10話「ボルテージ」
脚本:末満健一
絵コンテ:黄瀬和哉
演出:黄瀬和哉
作画監督黄瀬和哉
アクション作画監督:梁博雅

放送前から「黄瀬和哉回だ」と一部で話題となり期待が高まっていた回ですが。
このシリーズの中ですら隔絶した傑作回と思えます。
だって、線が、構図が、表情というか顔の造形の奔放さが、動きがというレベルで「違う」ようにも。

赤城兄妹の幼少期のとてもソリッドな主線、なのに柔らかい子どもたちの描写ですとか。
時は今に移り、成長した少年から青年へ移ろうとしている彼の見せる、静止のポーズの美しさ、動の激しさ……

場面に応じ感情に応じ意思に応じ、顔全体の輪郭とか中のパーツの比率もまずもって確信犯的に好き放題変わりゆく。
魅力に満ちた奔放さ。


正直、いわゆる作画方面で深くつっこんでしっかり観る眼も、観たものをうまく表現するためのあれこれも自分は持ち合わせていないのですが。
それでも、これはちょっと隔絶してすごいというのくらいはなんとか分かるなあ、とはぼんやり思えた回でした。

 

なお。

 

 

 


3月のライオン』19話「Chapter.39 夜を往く/Chapter.40 京都(1)」
脚本:木澤行人
絵コンテ:大谷肇
演出:大谷肇
作画監督:よこたたくみ、清水勝祐、藤本真由、野道佳代、たかおかきいち
総作画監督杉山延寛、潮月一也

なぜこの挿話、この作品を選ぶかというと明確で。
この場面の為です。

島田開八段。

※2018/1/7追記。何やら実写映画と配役間違える酷い話載せてたの消しました。本当にすみません。
キャラクターといい映像描写といい声と言い、構成上の位置づけと言い。
魅力、重みともにしばらくの間、主演を喰うというか物語の主役の位置に居たのが島田開八段で。
「夜を往く」はその凄味が凝縮された挿話、前掲の場面はその核心たる場面でした。

 

しかし、名人との決戦の最後の最後に島田開は彼が彼である在り方から外れてしまう致命的な誤りを犯して。
それを宗谷冬司が名勝負を差し切れなかった無念さ(!)を滲ませ指摘し、将棋の鬼、天才たちばかりが集った面々の内でその他にただ一人。
桐山零だけがそれに気づき、溜まりかねて対局の場へと走り込もうとしていた。
それをもって、桐山零は主人公たる位置を島田八段から奪回もしていて。

 

原作からの、素晴らしく見事な構成だと思えます。

 


18if』10話「α夢次元」

監督:森本晃司
脚本:森本晃司
絵コンテ:森本晃司
演出:森本晃司
作画監督森本晃司

年間の話数別ベストを選ぶなら、企画の趣旨からして外せない挿話と思えました。

率直に言って、シリーズ作品として、総監修としてのお仕事についてはどうなのだろう?というところも。

各話を異なる監督が担当し。
「夢の世界」ということで自由に、大胆に。

作品の明確な趣旨からいって。
ようするにこの10話のような作品こそが求められていたのであって。
どんな方向性にせよ、とことんまで行き着いた逸脱や挑戦が要請されていたシリーズなのでは?と思えてなりません。

この作品についてはとにかくもう、この10話「α夢次元」本編をぜひ、観て欲しいと思えます。
自由奔放で美しく愉しい幻想が、イマジネーションがそこに広がっています。

 

なお、一応書いておくと他話数についても。
脚本(と絵面)的には5話。
雰囲気やネタのえげつなさの7話。
作中で釘を刺せばいいってもんでも……というか「うへえ」とはなりつつ演出は確かに楽しめた8話。
諸々それくらい好き放題にやるというならそれはそれで、という9話(その意味では9話も作品の趣旨に相応に「忠実」だったかと思えます)。
各々、相応の魅力があったかとは思えます。


『JustBecause!』8話「High Dynamic Range」
脚本:鴨志田一
絵コンテ:下田正美 前園文夫 小林敦
演出:佐々木純人
作画監督:室山祥子 関口雅浩 日高真由美 小澤円 舘崎大 中村翠 坂本ひろみ 福井麻記
総作画監督:平山寛菜

この挿話の、それに作品全体の凝りに凝った構図と構造の良さはそれはもう色々あるんですが。

 
その中から8話を選んだ理由はなんと言っても、ここです。

"そこがなぜそんなにも素晴らしいか"という話。
やや長くなりますが「とりあえずはこれでいいかな?」という一連の話を並べてみると。

 特にここから。

 

以上、こういった話(?)になります。

ちなみに。

このtweetに対するような反応頂けるとすごく励みになる?というか、とても嬉しいもので。
勿論、どんな意図での反応かなんてわかるわけもないんですが。
例えば「変なこと言ってるけど、ちょっと面白かった」という意味合いかもしれませんし。
ただ、それでもやはり、(他作品での同様の事例でもいつも)とても嬉しいものです。


クジラの子らは砂上に歌う』9話「君の選択の、その先が見たい」
脚本:イシグロキョウヘイ
絵コンテ:橋本敏一、木本茂樹、酒井智史、イシグロキョウヘイ
演出:橋本敏一、イシグロキョウヘイ
作画監督:木本茂樹、松元美季、芝田千紗、坂本哲也、高橋みか、佐野はるか、古木舞、藤部生馬、山口杏奈、?彦軍、飯塚晴子
総作画監督飯塚晴子

この作品についてはほぼ毎話、

「原作漫画からアニメーションへの翻案としてどのような工夫が為され、どこが面白く、あるいはどのような問題が生じていると思えてしまうか」

と概ね翻案の模様に絞り、ピックアップして感想を書いていたりします。

togetter.com

その中でも9話は挿話全体がその点においても最も面白く。
そして、作中随一の翻案が見られた話数でもありました。

 

ただ、ここはニビの「声」の変貌も聴きどころですので。
動画はあえて音声抜きのGIFに落とし込んだもので投稿に添付している場合が大半なんですが。
ここでは改めて音声つきでも再アップしてみます。


こういう演出です。素晴らしいですね。


少女終末旅行』8話「技術/水槽/生命」
脚本:筆安一幸
絵コンテ:おざわかずひろ
演出:おざわかずひろ
作画監督:渡邉八恵子、本宮亮介

ちょっと趣旨とそれてしまうんですが。
このアニメ作品は「進行度合いがだいぶ異なる原作との変わった連動」というのがとても面白くて。
その中での8話、という話なんですね。
つまり。

 

あとこの作品には、あまりにも最高すぎた(もう5,60回は繰り返し観たかもしれない)OP(とED)があるわけですが。
OP曲「動く、動く」の歌詞、面白い表記というか空耳というか……なるほどなあ、と思わされました。

 

 

 

以上、2017年10選でした。


以下、余談として。
10選に入れるか最後まで迷った挿話について、幾つか手短に。

リトルウィッチアカデミア』8話「眠れる夢のスーシィ」

スーシィ回。映画をフィーチャーして諸々の名作傑作話題作(AKIRAとか君の名はとかエヴァンゲリオンとか諸々)へのオマージュやパロディを交えつつ、カートゥーン的な表現も駆使して賑やかにごった煮的で奔放な想像力をもって夢(と深層心理)の話を描いてみせた挿話でした。


けものフレンズ』12話「ゆうえんち」
綺麗な構成であり、締めくくりでしたね。

「群れとしての強さをみせるのです」の全員集合も素直に感動的でした。


神撃のバハムート VIRGIN SOUL』23話「Rise of the Nightmare」

作品全体について。
まず、映像面の贅沢さが全般的にぶっ飛んでるのはこのシリーズあまりにもはっきりした特徴として。
VIRGIN SOULはキャラクター造形とその描写も「ノリ」でなくきっちり「構築」してきた凄味がありました。

新たに登場したアレサンド、シャリオス、エル。
続投組、アザゼル、ファバロ、カイザル、リタ、ジャンヌ等々。
シリーズ前作から続投組も勿論性格は一貫していつつ、よりきっちり構築された筋の中で見せ場を演じていた印象でもありました。

シャリオス、アザゼル、カイザルの背負うもの/取り返しのつかなさを軸にした対比。
ファバロとニーナの決断の対比(ニーナは結構狂言回しの装置……装置としての印象、この面々の中でも正直かなり色濃かったのですが)。
シャリオスの決意と揺らぎと歩み。
悪魔の聖者としてのアザゼル
そして弱き者、アレサンドを描ききったこと。

特にアレサンドの最期の描写の見事さが23話を選びたくなった最大の理由です。


アイドルマスターSideM』8話「海・合宿・315の夏!」

315プロ全員が素晴らしく魅力的に描かれつつ、過去の「アイマス」アニメと同じ舞台での合宿、諸々のオマージュも描いてみせた傑作回。
とにかく愉しさとエネルギーに満ちた挿話でした。


魔法使いの嫁』6話「The Faerie Queene.」

 

 

NEW GAME!!』 6話「あぁ……すごいなあ……」

全体に、傑作回でした。特にラスト。

八神コウが涼風青葉に躊躇いつつ手を伸ばそうとして、あえてやめる描写が見事でした。

 

ゲーマーズ!』7話「雨野景太と天道花憐の最高の娯楽」

全体にあまりに愉しく好きでたまらない作品で後半のどの挿話でもいいかなとも思いつつ。

特に盛り沢山だった7話を。

 

幼女戦記』11話「抵抗者」

実に愉しい空戦描写でした。

 

終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?』1話「太陽の傾いたこの世界で」

スカボロー・フェアをBGMに物語の導入として、戻るべき場所を見失った世界にあまりに僅かとなった人間の青年と、為すべきこと望むべきことを見出しがたい妖精の少女が浮遊島を歩いていく。

美しい光景、描写でした。

 

とりあえず、以上です。

※過去記事。

skipturnreset.hatenablog.com

アニメ版『Fate/Apocrypha(フェイト/アポクリファ)』感想メモ

アポクリファ22話「再会と別離」があまりにも素晴らしすぎた結果(?)、過去話感想も含めまとめることに。

なお、凄かったのは作画だけでなく、ストーリーテリングも原作小説からの翻案としても……といったことも少し書いたりしています。

『ジャック・グラス伝 宇宙的殺人者』ネタバレ感想

題名に明示した通りネタバレも含みます。
未読の方はご注意ください。


『ジャック・グラス伝 宇宙的殺人者』。

ジャック・グラス伝: 宇宙的殺人者 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

ジャック・グラス伝: 宇宙的殺人者 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

 

 壮大で輝かしくも馬鹿馬鹿しいSF小説であり、本格ミステリかつバカミステリであり、いずれの面においても素晴らしく愉しい傑作かと思えます。

大体どんな作品であり、見所はどんなところか……大まかな紹介・解説は(他の作品も大体そうなんですが)冬木さんによるものが非常に参考になると思えるのでまずそれを観ていただくとして。

ここではちょっと局所的だったり小ネタ的だったりするあれこれについて少し書いてみたいと思います。
特に第二章の彼の名乗りと、第三章のホワイダニットについて等々。

 

まずは大まかな感想を。

開幕の読者への挑戦からめっぽう面白く。

一章である種「奇妙な味」のミステリかな、と思ったら二章の派手で鮮烈である種バカSFでもある?大仕掛け、全三章が有機的に連動した構成なのも楽しめました。

 

そして、二章での彼の名前が……作中でシェイクスピア云々なんて話も出つつ、忠実極まる従僕達、その中で"主人に一際近く使える忠実な「イアーゴー」"って!!

ある種のぬけぬけとしたジョークというか、その時点であまりにも「お前だろ!!!!!お前でしかありえないだろ!!!隠す気ゼロだろ!!!!!」と笑えもして好きでした。

 

原語版を読んだ方に確認してみた所、綴りはやはり「Iago」であるとのこと。

『オセロ』に登場する、仕えていたヴェネツィアの軍司令官オセロを陥れるその旗手、シェイクスピアが生み出した数多くの人物たちの中でも指折りの魅力的な悪の華として知られるキャラクターの名前であるわけです。

その上で、頑健な足腰云々とか……微苦笑で読んで欲しい、といった読者との共犯関係?が素晴らしく良い感じかともまずは、思えました。

「まずは」と書いたように、これについては後により突っ込んで書いていきます。

 

また、二章の超新星云々と事件の真相の密接な繋がりが一番痺れもしました。

あまりにも鮮やかでしたから。

三章は二章がああいったものであったことで、また「犯人はジャック・グラス」と作品冒頭の読者への挑戦で明示されてもいたこともあり、「見えない銃」の性質と所在等は諸々予想はつきはしたけれども(ただ予想がついても十二分に面白かったわけですが)。


謎解き大好き令嬢、"謎を解くため""問題を解決するため"に人工的に遺伝子操作の粋を尽くして生まれたヒロインのダイアナは登場当初は何やら『虚無への供物』の奈々村久生じみた風情も漂わせ。

二章で姉妹に課せられた「テスト」の性質を鑑みれば正に"謎"や"問題"に向き合う際の姿勢をもって資質を問うものであったとなれば、なにやらその線でも面白くもあったかな、と。

別に『ジャック・グラス伝』は別におよそアンチ・ミステリではありませんけれども。

それと、邦題の「宇宙的」殺人者って、なんだよwというのはすこし。

『Jack Glass The Story of A Murderer』の方がカッコイイんですよね、裏表紙の「ゴランツ版カバー」(ステンドグラスをイメージした図案)もそれによく似合っているし……とも思いつつ。

しかし、どちらもぱっと見あまりにも地味で、なんとか少しでも目を引くように?そういうアレンジ?をしたくなるのも分からないではないかな、とぼんやり思えたりも。


あと訳者あとがきで「どこかで聞いたようなフレーズではありますが、本書はロバーツにとって「一〇〇%趣味で書かれた小説」なのかもしれません」とあり、唐突な西尾維新が楽しかったのですが。

そこについてもこの作品を強く推す人との雑談の中で触れてみたところ、

「何気にジャックグラス伝、ミステリ的な側面も好きなんですが家が力を持っているとか、それぞれ特化した能力があるとかいう中二設定も西尾維新じみてて好きですね」

とも返って来て。
「確かに、なんというかある種のバカミスっぽさ、先行諸作への実はリスペクトにも満ちたパロディ精神なんかでも妙に通じるものがあるのかもしれませんね」

と。そんなやりとりに発展したりも。

 

ジャック・グラス~宇宙的殺人者とイアーゴー~文学的大悪人

さて、ジャック・グラスが「Iago」であり。

あまりにも有名な「『オセロ』のイアーゴー」の名を持つ、無数の名を持つ中でその名が作中で幾度も強調され続けているのだとすると。

「ジャック・グラス=イアーゴーはなぜそんなことをしたのか?」という話なり問いなりが『オセロ』とも重なり得るのかもしれません。

『オセロ』のイアーゴーと3章(及び2章あるいはその半ばから?)で描かれた/明かされたジャック・グラスの心のあり方を重ね合わせたりすると、少しばかり面白い風景も立ち上がり得るのかもしれません。

そして、ひょっとするとあるいはそれこそが作品を通じてのホワイダニット……「ジャック・グラスは何を思い何がためにこの三つの事件を起こし、窮地を斬り抜けていったのか。果たして彼はどのような男なのか……を解いていく鍵なのでは?とも思えます。

 

ここでまず、イアーゴーとはどのような人物であるでしょうか。

なぜ『オセロ』においてイアーゴーはオセロを、デスデモーナを、キャシオウを陥れたのか。

その動機は台本で明確に語られていないため、非常に多くの議論があるところかと思います。

 

ただ、ごく個人的に思えるのは。まず、オセロは本人がその最後にこう言い残したような人物であり。

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※引用は下記webサイトからさせて頂いています。

「Of one that loved not wisely but too well」(「愚かな、しかし深く愛した男です」)

は特に名高い一節かと思います。

 

そして、イアーゴーはオセロがそうであるがゆえに。

彼が愛を知らないが故に、愚かでも「深く愛した」オセロを、それに同じく深い愛で応えたデスデモーナを、彼らを一心に敬愛するキャシオウを嫉妬したのでは。

そんな風に思えもしますし、そのような解釈もそれなりに有力だったかと思えます。

 

一方、原語版を読んだ方に「アイアーゴーの綴りってやはり、『オセロ』と同じ「Iago」ですか?」と尋ねた際に「そのようです」と参照情報として送って頂いた、『ジャック・グラス伝』のクライマックス(と自分には思えるくだり)にはこうあります。

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ド直球ですね。

Iago said:"because I love you."

この作品は『ジャック・グラス伝』で、彼はもちろん、ジャック・グラスであるわけですが。

この彼の全てを掛けた台詞はJack saidではなくIago saidと語られるわけです。

狩猟(彼女は狩るように謎を解く)と月(Lunatic。狂気!)と貞節を司る処女神・ディアナの名を持つダイアナにとって、彼はまず当然に忠誠心(loyalty)に溢れたIagoであるからかと思います。

 

ダイアナは遺伝子操作により産み落とされた、「謎を解く」ために生まれ、謎を解くために生きる少女です。世界は彼女にとって解くべき謎であり、解くべき謎がなければ彼女にとって生きる意味はなく、存在する価値もない。彼女自身も自身をそのように観て、そのように捉え、自己規定しています。

そしてジャック・グラスは原題『Jack Glass The Story of A Murderer』が示すように、またJackが切り裂きジャックを由来とするように「殺人者(A murderer)」です。

「なんて言えばいいのかな?」ジャクは作業をしながら語りかけた。「これは宇宙で居留地を建設する際の真理なんだ。エネルギーは高価で、原料も貴重だが、人間は活用すべき資源でしかない」p128

 

「わたしたちは下級の人々を資源として活用するしかないのです」二人のMOHミーが、ひとりとして言った。「権力者とはそういうものです。権力を永遠に放棄するか、それを受け入れて人びとを永遠に利用するか、どちらかを選ぶしかありません」p317

 これは単に第一章の脱出劇に留まらず。

ジャック・グラスは人に「死」をもたらすこと、そして人の「死」を資源やエネルギーや物事のきっかけとして「活用」することに宇宙的に観ても優れた圧倒的な才を誇る人物であるのだと思えます(死者は生者に一方的に利用されることをしばしば甘受しなくてはなりません。第一章で冷酷に示され抜いたように。「死」を与える力は強大極まる権力に他なりません)。

その才をもって太陽系世界全体を避け難い破滅から守る使命を持つ、宇宙的に重要な人間なのだという自負と自覚をジャック・グラスは幾度となく語りもします。

 

ここにおいて、ダイアナが人の死を前にしてさえ否応なく解くべき謎を見出し、興奮し夢中になってしまうように。

ジャック・グラスは人をどうしても活用すべき、それも「死」をもってそうすべき相手と、どこか深いところでそう観てしまう。そんな彼にまずもって、一人の生きた人間を愛することなど出来るわけもありません。

 

しかし、そんな彼、ジャック・グラスが"because I love you."愛故にたった一人の生命を「死」の運命から逃れさせ。

そのために使命であり誇りとし続けそのために多くの犠牲も時に受け入れ、それ以上に自らの手とglassをもってもたらし続けてきた「死」によって、その活用をもって避けるべく必死の努力を重ねていた宇宙の破滅の危険性をも、やむをえないものとして受け入れようとしてしまっていた。

愛を知らない筈のイアーゴー=ジャック・グラスが"because I love you."とこれまで進み続けてきた道から外れようと決意していた。その意味をこそ……。

 

三章において……あるいは全三章において読み解かれるべきホワイダニット

序文で読者に挑戦状を叩きつけた語り手がきっと"どうか分かって欲しい"とも思い願いつつ、同時に"この私以外にわかるものか"ともきっと思ってもいる……

 

"ジャック・グラスとは何者か。

彼は何を思い、何のために語られた三つの事件を起こしたのか。

何を切望し……そして何を無残にもその手に掴むことができなかったのか"

 

その謎は、例えばこのように「イアーゴー」という彼が名乗り、彼が唯一愛した少女がそう呼び続けた名前から読み解こうとしてみるのも、きっとなかなかに面白いのでは。

そんなことをこの『ジャック・グラス伝』について思えたりもします。

 

また、「嫉妬」は『オセロ』において非常に重要なモチーフで、特に以下の下りがよく知られていますが(「嫉妬は緑色の目をした怪物」)。

「O, beware, my lord, of jealousy;
It is the green-eyed monster which doth mock The meat it feeds on;」

(「嫉妬です!我が将軍よ。その緑色の目をした怪物は自らの獲物を弄ぶのです」)『オセロ』第三幕第三場

ジャック・ヴァンス伝』において ダイアナの姉・エヴァを突き動かしたのもきっと、<なぜ、私ではないのか>という、普遍的な逃れ難い嫉妬ではなかったかと思えます。

 

余談。幾つかのイアーゴー像と『オセロ』について

なお、余談ですが様々な人が語る様々なイアーゴー及び『オセロ』について、個人的に好きなものを少し。

 

まず、一つ引用を。

「あんたはあの人?------つまり、あんたは血を吐くイアーゴーなんだ」

(中略)

「------人には誰も、求めて得られぬものがあるさ。そうじゃないかい、お嬢さん」

「イアーゴーのこと?」

「そうだ、誰もがイアーゴーだよ」

北村薫覆面作家の愛の家」角川文庫版p224-225

 作中において、魅力的な独自の演出(そこにおいて無彩色の舞台でただ一度、イアーゴーが咳き込み吐いた血により、オセロがデスデモーナに贈った、イアーゴーの手に渡ったハンカチが「舞台においてただ一度現れる有彩色」として赤く染まる)で上演される『オセロ』を描いてみせてからの一節です。

 

続いてひとつ、映画の紹介。

オセロ(1995)(字幕版)

オセロ(1995)(字幕版)

 

オリヴァー・パーカー監督版『オセロ』。

オセロに偉丈夫ローレンス・フィッシュバーン 

デズデモーナに麗しのイレーヌ・ジャコブ

エミーリアに世間知に長けた小狡い印象のアンナ・パトリック。

そして、イアーゴに名優"現代のローレンス・オリビエ"ケネス・ブラナー

 

この映画版では、デズデモーナに「忠実な」(Loyaltyを持ち続ける)イアーゴーの妻・エミーリアはしかし、デズデモーナのどこまでも純粋な愛の価値を理解しません。

※なお。このあたりの話はどうか現代的なジェンダー観?云々とかから離れて、演劇的な?抽象的な話としてご理解ください。一応、念のため、書いておきます。

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このオリヴァー・パーカー監督版『オセロ』においてイレーヌ・ジャコブ演じるデスデモーナが上記引用のやりとりの最後にエミーリアに向ける、ある種の諦念(ああ、「忠実」なエミーリアは私を理解してはくれないのだ)の表情と声は非常に見事だと思えます。

そして、その真逆の話として。

「忠実」(loyality)を騙り、妻であるエミーリアも騙し、オセロとデスデモーナを陥れるケネス・ブラナー演じるイアーゴーは。

オセロの愛(「Of one that loved not wisely but too well」)、デスデモーナの愛を、その輝ける価値をあるいは当人たちよりもより深く理解し感じ取ってしまうからこそ、自らの手にし得ぬそれを嫉妬し、彼らを陥れずにはいられなかったのではないだろうか。

ごくごく個人的に、そのように捉えさせられる名演を見せてくれています。

 

 

池澤春菜&堺三保のSFなんでも箱#49 『ゲームの王国』小川哲さんゲスト回イベントメモ。

以下、Live Wire [562] 17.11.11(土) 池澤春菜堺三保のSFなんでも箱#49 『ゲームの王国』小川哲さんゲスト回の備忘録的な?メモです。

1:イベント本編のメモ
2:懇親会で他の参加者の方との間で出た話題
3:個人的な雑感
4:(イベント参加前時点での)自分の『ゲームの王国』感想

について書いていきます。

 

1:イベント本編のメモ


■『ゲームの王国』作品構想等について

・作品の構想を抱いた/固めた時期について。
少なくともカンボジアポル・ポトをやるというのは正確には覚えていないが『ユートロニカのこちら側』でハヤカワSFコンテストで大賞受賞した式の際に小川一水さんに次回作について尋ねられそう答えたので少なくともその頃には。

 

・特にカンボジアとの関わりはそれまで無く(渡航経験や家族絡みなども)、諸々の情報も書くと決めてから調べた。

 

・(池澤さんの感想「登場人物たちがこれから、というところで次々に死んでいくのがすごかった」「地位や善悪がガラリと入れ替わるのも」等に応える形で)登場人物の多くが死ぬのは作品の要請でもあった。
ポル・ポトが台頭した)数年でカンボジア国民の二割が死んだ。ならば、作中人物の多くも死ななくてはならない。(地位などの)逆転も「革命」を描くならば当然のこと。

 

・当初歴史改変ものも考慮したが、読者によく知られていない歴史の改変をやっても仕方がない。
それは早期にプランとして放棄した。

 

・第2次世界大戦ものだと近未来に時間を飛ばした場合、登場人物が世代交代というか入れ替わってしまう。
今回の題材だとギリギリ同じ人物を出すことが出来る。

 

・(東南)アジア方面で何か書きたい、という思いはあった。
(その中で)カンボジアを舞台とすることで抽象的、図式的な話として描ける。
これが日本だと政治の話をすればこれは例えばモデルが小池百合子だとかそういう風に勘ぐられてしまいもするしそういう色をどうしても帯びてしまう。
それは避けたかった。

 

■「民主主義への疑問」というテーマ

・中高生頃から民主主義への疑問(や反発)があった。
特に、政治家たちは選挙に勝つことを目的としすぎている(ゲームのルールとして選挙の勝利に最適化されてしまう)、それが良き政治を行うこととの乖離を(必然的に)生んでしまう。

 

・そして中高生や大学生の頃は言い難くもあった(なにやらフランシス・フクヤマが『歴史の終わり』なんて書き飛ばすなんてこともあった。今では嗤われがちではあるが当時は……)が、今ならば「民主主義は万能ではない」といったテーマも書きやすいというか受け入れられやすいとも思った。
だが今作では書き得なかった。執筆期間約二年のうち少なくとも三ヶ月ほどはそのテーマに挑もうとしてみたが結果として活かせなかった。

 

・例えば上巻では共産主義(の悪夢的側面)を描き。下巻では民主主義(のそれを)を描けたなら美しかったかと。

 

■「馬鹿を(巧みに)描く」ということについて

・(池澤さんからもそこを褒める感想が出たのを受け)「馬鹿を描く」というのは大きなテーマ、目標でもあった。
自分の分身ではない、自分とは異なる、離れたキャラクターを書けるかということでもあった。

 

・馬鹿にもソフトウェアに問題がある場合とハードウェアのそれとがある。
前者を書くのは簡単。単に知識やロジックを知らないという話で、そう書けばいいだけ。
考え方そのものが致命的におかしいという後者を試みた。

 

・池澤「話の通じなさ……例えば村の中でただ一人いろいろ分かってしまう人がいて。なんとか話そうとするけど分かってもらえない。それで「もういいよ」と諦めてしまう。そういう描写がものすごく巧い。そして作中で幾人も、そういう壁を越えて分かってもらおうと試みてはうまくいかずに死んでいってしまう。そんな流れのようにも」

 

・「狭義のゲーム」について詰めて書いていくのは作品の要請でも合った。この話を書くならば、そうあらなければならない。

 

・堺「(馬鹿による断絶とか)ゲームの話を突き詰めていくと、ハリ・セルダン(の心理歴史学)になるのかもね、と思った」

 

■作風について

・自分の現状として「地に足がついていない」、おとぎ話的なものは(今は)書き得ない。
→堺「書きたいができないのか、書き得ないのか」
→(自分が満足するようには)書き得ない。(その方向性の中で)「書くことがいいか悪いか判断する「定規」が自分の中にない、自信がない。
ある描写や表現は(その方向性、方法論の中で)良いのか悪いのか、それは「正解」であるのか、そういうのが自分で判断し得ない。
だから今はそれが書き得ない。


■経歴、履歴について

東京大学院で表象文化論を研究中。一応在学中(休学中)。そろそろ学生辞めるかも。

 

・OBによく炎上する人たちが(堺「どこかで(東大で表象文化論って)聞いたと思えば(笑)」)。
※実名出ていましたが、一応伏せます。

 

twitterは(アカウントはエゴサーチやその他調査用に)持っているが自分でつぶやいてはいない。
炎上対策をしてマイルドに当り障りのないことだけつぶやくか炎上上等でいくかの二択であるような気がする(池澤「ですねー。(女性)声優だと食べ物や猫の話とかばっかりに……」)フェイスブックはやっていて友人たちとの連絡に使っている。

 

■読書遍歴及び学生時代について

・SFとの関わりはSFファンの父(現在65歳くらい)の本棚にあった星新一筒井康隆などから。中学生の頃、特にSFとは意識せずそこら辺を読んでいた。

 

・高校生の頃に自分の中でミステリブームが。母親がミステリファン。本格ではなく、宮部みゆきさんとか東野圭吾とか割合ライト(?)な感じのものを中心に読む方とのことでその影響を受けつつ。

 

・ちなみに父親の方はミステリもよく読む人だけどSFもミステリも古典偏重なきらいがあって新し目のそういうの(?)には批判的だったのだとか。

 

・高2頃からいわゆる高二病とでもいうべきかエンタメフィクションをあまり読まないように。
岩波文庫端から読んでいくとか。新潮クレスト・ブックス、それとハヤカワepi文庫あたりならオーケーとか。
オーウェルとかNever let me go……『わたしを離さないで』とかあたりからの流れで(ハヤカワの)青背もまあいいか、みたいな。

 

■研究と作家志望&賞への投稿に至った経緯やそれ周りの心情などについて。アラン・チューリングについて。

・そんなこんなで大学では松浦寿輝に師事。初めに仕上げた小説はいわゆる純文学。
それで文学賞に応募となり相談した所「自分が(選考委員などで)関わっていないところを」と言われたが(松浦さんは)なんかやたら幅広く関わっていて。新潮新人賞くらいしかなかった。
で、二次くらいまでは通ったけれど落選。勿論(?)、受賞する気満々だったので受賞作も読んで見つつ「ほお……」と思ったり。

 

・大学院ではアラン・チューリングを研究。
実は高校あたりまでは割と体育会系。サッカー、そしてラグビー。東大理Ⅰから文転した。
中上健次をテーマにするなどしていたけど、それだともうどうやっても将来うまく勝負できなさそう、食えなさそうだった。
そこで「自分はどこらへんなら勝ち目があるか」と考えてみて、チューリング研究なら自分にも強みを見いだせるかもしれない、と。

 

・文学も科学も分かるしチューリングもSF好きだったという。
チューリングSF小説を書いており、拙くそれ自体は面白くはないがチューリングの人物・人生を考える上では非常に面白くもあればなにやら染み入るものもあった。

 

・堺「『イミテーションゲーム』は観たの?どうだった?」
「あの時期のチューリングは記録が残されていない、エニグマ解読で秘密任務に従事していたから。
フィクションでチューリングを物語にして語るならそこしかない、というところ。
あり得ないけどもしも自分が「(チューリングで映画を撮るとしたら)どうすればいい?」と意見を求められていたら「そこしかないでしょう」とアドバイスしただろう。
面白い作品ではあった」

 

・堺「チューリングを題材に小説を書く予定は?」
まだそれは書けない。書き得ない。
また、イーガンが先に書いてしまってもいる。
『ひとりっ子』で未来から来たAIがチューリングをパパと呼ぶ。
(同性愛者だった)彼にとって子孫を残せないのは本質的。
チューリングSF小説に登場させるなら例えばそうだろうという形でもう書かれてしまってもいる。

 

・(純文学で投稿して受賞を逃した後)どうも自分が好んで読んでいるのはSFというジャンルに属するものらしいと気づく。
では、ということでSFを書いて応募してみた。それが『ユートロニカのこちら側』で実質人生二作目の小説でデビューとなった。

 

・今の作家生活はストレスがごく少なくていい。満員電車や目覚ましでやたら叩き起こされる生活は嫌で仕方がない。(当初はアカデミックな進路も考えていたが)大学教授とかはあからさまに面倒な事務仕事とか付き合いとか何やらたいへんそうでしがらみも盛り沢山でつらそうだった。ぜひとも作家になりたくて、なれてよかった。そんんわけで(『ユートロニカのこちら側』での)応募の際、かなりはっきり作家になりたかった。

 

・作家も作家でとうぜん人との付き合いの必要は生じるけどもなんというか「面」での付き合いでなく点と点という感じでいろいろ良い。助かる。やりやすい。

 

■今後の執筆予定について

※幾つか話に出ていましたが、一応ここでは配慮として伏せます。

 

2:懇親会で他の参加者の方との間で出た話題


とある、作品に詳しい方(作者ご本人ではなく)に伺った話題の幾つか。

 

・『ゲームの王国』はボーイミーツガールの物語としたことに大きな意味もあるかと思っているし、基本的にまずボーイミーツガールの物語と思っている。

 

・「ゲーム」とか民主主義や共産主義と言った政治的な話を書く上で、例えば中国の文化大革命とか、あるいは日本の話を直接書かなかったのはある意味で「逃げ」でもあったかとは思ってしまえてもいる。
特に海外(欧米)の読者が読めばそう思ってしまうのでは、とも。

 

文化大革命だとまだまだ利害関係者、何か書けば激しい反応を寄越してくる人々が存命だしそれなりに活発に動いている。ムズカシイ。


3:個人的な雑感

 

■「抽象的、図式的な話として書きたかった」、というのは個人的な作品の印象とも大いに重なる。

例えば、

マジックリアリズム「的」な描写の数々から。
→あるいは「馬鹿を描く」を試みつつ、ごく個人的には馬鹿は一般に内省、自己省察、自己規定(自分とはどんな人間か)をあまりやらないものでは?といった感覚や習性を欠きがちなものかと思える所(すごくひどい偏見かもしれませんが。また湊かなえ作品などは正にそこにおいて愚か者の描写が非常に巧みだとも)、『ゲームの王国』の人物たちは皆けっこうクリアに自己省察、自己規定を行ったりすることも。


→登場人物が時に「ネタバレ」とか「突っ込みは控えた」とか妙に現代日本の言語感覚に寄せた違和感のある言葉遣いを台詞や地の文でするのも。

いわゆる「リアル」に現実のカンボジアとか社会をそのままに活写する、といった志向ではなく。
特に上巻に顕著だったそれは下巻で抽象的、図式的な展開をしていくためのジャンプボードとでも言うべきものだったのでは、と。


■「革命」(ゲームのルール変更)を書くのに便利な場としてカンボジアを選択したという話。
■(懇親会で他の参加者の方の意見として聞いた)「「ゲーム」とか民主主義や共産主義と言った政治的な話を書く上で、例えば中国の文化大革命とか、あるいは日本の話を直接書かなかったのはある意味で「逃げ」でもあったかとは思ってしまえてもいる」という話。

これは例えば国内だと、ほぼ必然的に1960-70年代の学生運動とか安保反対運動とかそこらへんになるのだろうな、と。
長谷敏司さんが『円環少女』で学生運動を扱った理由も京フェス夜の部で直接伺った所、「そういう運動とか「熱」があるものはそこしかないから」との話でした。

 ※参考

 

米澤穂信さんがデビュー作『氷菓』でヒロイン、千反田えるの叔父関谷実に学生運動(の余波)に押し流される設定を与えたのも(直接伺ったことはないけど)きっとそういうこと だろう、とも。

 

アニメ方面でも学生運動周辺の諸々は例えば幾原邦彦押井守あたりの作品には非常に大きく影を落としてもいますし。
ジブリ方面でもいろいろあり、例えば映画『コクリコ坂から』でもそこら辺はいろいろあるかとは思えもしました。

小川哲さんもそこら辺に触れつつ、日本を舞台にした物語を描くこともあるのでしょうか。

 

また、連想に連想を重ねてなんか変な方向に行くようでもありますけれど。
幾原邦彦の代表作『少女革命ウテナ』では幾つかの回で月村了衛さんが脚本を担当しているところ。
今の日本のSF(あるいはミステリ)で、政治色も強めに「"今"と(逃げずに)真正面から切り結ぶ作家・作品」といえばまず思い浮かぶのが月村了衛であり『機龍警察』シリーズでは、とぼんやり思えもします。

小川哲さんがいつか日本を舞台にした物語を描くとき、"今"と切り結ぶという側面において『機龍警察』にも対抗し得るような作品になりもするのでしょうか。
そんなところにも期待や関心を抱いていきたいと個人的には思えます。

また作家が"今"や歴史や政治から逃げずに真正面から向き合った作品と言えば、古今東西を見渡してもその白眉と言えるのは例えばネヴィル・シュート『パイド・パイパー』ではないかとも思います。


以前、ブログ記事内で書いた話から感想を抜粋するとこんなところです。

 

「英国人の作者がこの作品を1942年に書けてしまうバランス感覚と矜持に感嘆。国同士が存続を賭けて戦う大戦の中、各々が「こんな時、人は自分の国にいなくてはいけません」と責務を果たさんとしつつ、争いそのものの悲惨さを痛感し、それらと関わりない幼い子供たちをその災いから遠ざけたいという思い。その責務と子供たちへの思いにおいて、英国民の老人や、瓦解した国際連盟の職員や、ドゴール派のフランス人漁師とも重なるものを、ゲシュタポの少佐にも認める眼。これが大人、これが紳士か。凄い。
そのバランス感覚は、子どもたちの描写にも(あるいはそこにこそ最も素晴らしく)反映されていて。大人たちの理想や悔恨や希望の、都合のいい投影ではない子どもたち。例えば、ドイツ兵に戦車に乗せてもらったり、イギリス軍へ空爆に向かいに飛び立つドイツ軍機を観て、それらが何を意味しているかわからずにはしゃぐロニー少年。何度念入りに言われても、興奮するとつい英語を口にしてしまう彼と妹のシーラ。
しかし、作者はそんな彼ら同士だからこそ、国境や言葉や上流下流といった壁などに全くこだわらず自然に打ち解けていけるのだとも描く。そして、それら全てをひっくるめて渇望していた責務として受け入れ、愛すべきものとして見守り、老紳士はこう答えるわけで。「「「子供ふたりは、ジュネーヴの両親がディジョンまで迎えにくるようにすれば、とっくにイギリスへお帰りになれたでしょうに」ハワードは微かに頬をほころばせた。「でしょうね」」(p185)
他にも気持ちのいい台詞が実に多い作品。例えばこれ。「ニコルは昂然と顔を上げて、低く言った。「何と言おうとそちらの勝手です。夕焼けを下品に言うことはできます。でも、夕焼けの美しさは変りません」(p295) しかし、更に気障でかっこいい台詞といえば、プロローグでのこのやりとりだと思うわけで。「「帰りは何かと大変だったでしょう」「いや、それほどでもありません」」(p15)
実にもう、呆れるほど見事に英国紳士だなぁ、と思わされる作品。当然、独特のユーモアもたっぷり。そして手に汗握りつつ次のページへ、その次へと読み進めずにはいられない、冒険小説としての愉しさに満ちた小説でもある。大傑作との評を聞くことが多く、つい先日新訳版が出た『渚にて』も読んでみようと思う。米澤穂信を作った「100冊の物語」」関連その14」

「『パイド・パイパー』の描写は大人たちの愛国心と、国同士の争いの悲惨から幼い子どもたちは遠ざけようという思いの双方について、引退した元弁護士の老英国人にも瓦解した国際連盟の職員にも、ドゴール派のフランス人漁師にも、そしてゲシュタポの少佐にも軽重の無い共通のものとして認めている。
あのトンデモ兵器パンシャンドラムの命名者、自身もどっぷり戦争に浸かってた英国人作者ネヴィル・シュートがが1942年刊行の1940年を舞台にした小説で、ゲシュタポ少佐をもそう描いてみせている。

バトル・オブ・ブリテンは1940年。
チャーチルが「もしヒトラーが地獄に侵攻することになれば、私は下院において悪魔に多少なりとも好意的な発言をするようになるだろう」と演説したのは1941年。
その中での42年『パイド・パイパー』刊行、作中の1940年。

その状況下で"我々も彼らも、各々の事情と責務を抱え、それを果たし、子どもを思う同じ人間なのだ"と明確に書いてみせたのは、単に人の善意の賛歌なんてものじゃない、もっとものすごいものだと思う」

 


■「例えば上巻では共産主義(の悪夢的側面)を描き。下巻では民主主義(のそれを)を描けたなら美しかったかと」について。

先程触れた『円環少女』において、非常に大雑把に言うとラスボス勢力(?)たる再演大系には共産主義の影がちらついたりもしているのも面白いかな、とぼんやり思えます。

 
東野圭吾作品と"ゲームのルール"的な話?と『ゲームの王国』と。

小川哲さんの母親のミステリ好き話絡みで東野圭吾の名前も出ましたけれど。
名探偵の掟』『名探偵の呪縛』はある意味"ゲーム的に"「名探偵」や「(本格)ミステリ」という概念をパロディとして扱ったもので。
国書刊行会本格ミステリの現在』では「本格原理主義者」としても知られる北村薫先生が「東野圭吾論 : 愛があるから鞭打つのか」と題して論じるほどのものでもありました。


ここで東野圭吾の名前が出たのもすこし、面白く思えました。


4:(イベント参加前時点での)自分の『ゲームの王国』感想

 

以下、全文です。


小川哲『ゲームの王国』、自分の暫定的な感想をまとめました(リンク先ネタバレ有)


きっと国内SFオールタイムベスト上位確定かとすら思う傑作で。それにも留まらない、多面的かついずれの面においても輝かしい魅力に溢れた化物作品かと思えます。


まず、唐突ですが。
かつて日本推理作家協会賞に『華竜の宮』が(数年後『深紅の碑文』も)ノミネートされるという「事件」がありました。

その選考で小説全般の読み巧者の中の読み巧者。
とりわけミステリにおいては疑いなく日本一の人物である北村薫先生がこうおっしゃったわけです。

「『華竜の宮』と『折れた竜骨』を推した」

という冒頭に続き。まずSF読者ではない自分は

「その枠の中での評価はできない」

と断られた上で。

「五作を並べた時、小説としての魅力は『華竜------』が飛び抜けていた」

と始め。青澄とチェンの姿勢を

「《汚れた街を行く探偵》という、ハードボイルドの典型でもある。また『鷲は舞い降りた』などの主人公にも通じるものを感じた」

とハードボイルドの文脈に引きこんだ視点から賞賛。そして、

海上民と魚舟の繋がりなど、描かれる世界に小説の喜びを感じつつページをめくった。一方、陸地が水没を迎える物語を《今、読む》ということに、特別な思いもあった」「どうしても《この一作をとり、他のミステリ四作からもうひとつを選ぶ》という形の選考にならざるを得なかった。『華竜------』と他の作では、比べようがなかったのだ」

と、あの最高の小説読みでそして「本格ミステリ原理主義者」がこう褒め称えた。
例えば同じ推協賞長編賞の2010年度の選評を参照してみると面白くて。

「一般の読者に、どちらを面白いと言って渡すかといえば、普通は『身の上話』」

と断った上で。

「『乱反射』に与えないようなら、推理作家協会賞の存在意義はない」 

「なぜなら『乱反射』は「小説という衣の下に、本格の鎧を隠した作品」」

との論で場を圧し受賞を決めさせたのが北村薫先生でした。その先生に推協賞選考という場においてここまで言わしめたのが『華竜の宮』という圧倒的傑作海洋SF小説でした。

 

で、ここまで脱線してまで何が言いたいかというと。


「『ユートロニカのこちら側』が第3回ハヤカワSFコンテストで〈大賞〉を受賞し作家デビュー」したSF作家小川哲の第二作品『ゲームの王国』もまた、実に多様な側面を持ち、そのいずれにおいても光り輝く大傑作であり。
同様にジャンルの壁など飛び越え、あるいは様々なジャンルでそのジャンルの傑作を取り上げる場においても各々注目され讃えられ称されるべき作品なのでは?と。

 

『ゲームの王国』はまず何よりスペキュレイティブ・フィクションの大傑作でありつつ。
大衆文学なり、例えばハードボイルド枠で(?)ミステリなり、恋愛小説なり、歴史もの、政治ものなりの各ジャンルにおいても大注目作として勝負し得るし、ある意味それは作品にとって作者にとってどうなのかという面があってさえもそこら辺の賞にも殴りこませたい……「SFにしておくのがもったいない」云々という帯の文言も、そのように理解できなくもない話かなとも思えます。

 

この作品には例えば、大河ドラマそこのけのエンタメ性、大衆性も見出し得ますし。

序盤から毎ページ毎ページ、単語、言い回し、比喩、軽く差し挟まれる挿話を個別にみても「こういうの幾つか読めるなら、それだけでもその作品は傑作認定したい」という表現のオンパレード、百鬼夜行です。
最初の最初の書き出し「闇の中からは、光がよく見える」があの二人の掛け替えのない再戦の中で何度も現れる様など、あまりに文章として構成として素晴らしく、これを称えるに足る言葉を探し出すのに困ります。


この作品について先だって感想を交換したある人は「スゴイのはおもしろくない文章が一文たりとも存在しない、というところですね」と言ってくれましたがその通りで。例えば誰かに任意の1頁を5,6個くらい指定してもらって、その頁から「これは」という文章表現抜き出す……というお題出されても、ほぼ間違いなく困らず悩まず応えられると思えます。


その方も含め多くの人が既に指摘している側面ですが、これはきっとマジックリアリズム小説でもあって。
ソリスの嘘見抜き、泥の能力バトル、ソングマスター、輪ゴムの予言、サムの「石」、カンの不正感知勃起……こういうのは各々相当の部分、理外のものとしても描いてたのも非常に面白かったわけです。

 

そして、「悪魔」の子として生まれ、養父母にソリス(太陽)と名づけられた女の子と。
生まれた時にソック(幸福)と名付けられ、すぐにムイタック(水浴び)という名を自他ともに得ることになった少年のラブストーリーでもあります。

 

ラディという、あえていえば魅力的な悪漢のピカレスクロマンとして読む筋すら見出すこともできるかもしれません。

 

今も昔も正にそういった調査と検証に欠けたイデオロギー先行の愚劣さを遺憾なく発揮している某新聞の書き立てた「アジア的な優しさ」云々でも知られる(?)カンボジアの歴史と今について基本的にフィクションという形式を採りつつも、見事に描いて見せた歴史、政治小説とも勿論見て取れるでしょう。

 


そして、その上でなお、何よりも。
ゲームと人生、それは一致するか異なるかを問い掛け。
ルールと、ルールを覆し自分のルールを押し付ける革命と。
ゲーム/人生を楽しむことと、楽しむなどというにはあまりにも不条理かつ惨烈過ぎる世界と。
それらを描かれる全てを貫く主なテーマとして据えた上で。

主人公として一人の少年と少女が描かれて。

 

一人の少年は「ゲームと人生は別物」だと信じ。
自分はただ勝つというそれだけを目標とするゲームの無垢な清冽さに惹かれ続けていると思っていたその少年=ムイタック(水浴び)が、正にファム・ファタルであるたった一人の女の子に恋い焦がれ。
彼女に勝ちたい、彼女が愛しく恋しい、彼女が憎く恨めしい……ゲームも人生も、自分と友とが理想のゲームの中に追い求めた「その他の」勝利、即ち「敗者も勝者も共にルールの中で得ることができる楽しみ」すらも、世界も何もかも……ただ彼女とのゲーム、その楽しみに比べれば……というある種、無垢でも清冽でもない、あまりにも多くが混じり合った情動の泥の中にこそ自分はずっと居たのだと、旅路の果てに自らの答えを得て。

 

一人の少女は現実に「ゲームの王国」を築くと誓って。
業深く生まれ業深く育ち、こびりついたそれを見据えつつ、だからこそあるべきことがあるべきように回る「ゲームの王国」を。その途上でどれだけ血と濁りとに汚れ、あるべきでない振る舞いを何千回何万回繰り返そうとも、この世界にこの国に実現して見せる、全てはそのために……という在り方を保ち続けて。


そんな存在こそが自分だと思い込んでいたソリス(太陽)は、本当は自らの中であの日楽しんだただ一人の男の子とのゲームが光り輝いていて、その男の子のために、そしてその男の子と再びゲームを楽しむためにこそそれを目指していた……そんな(あたかも「水浴び」で清め抜かれたかのような)純粋無垢な願いと共に自分はずっと居たのだと、やはりあまりにも長く苦しかった旅路の果てに自らの答えを得て。

 

その二人の思索や認識の在り方に、あまりにもどっぷりと近年の脳科学方面のあれこれを注ぎ込まれてるのがスペキュレイティブ・フィクションとして最高である訳ですね。
『ゲームの王国』はまず何より、そんなスペキュレイティブ・フィクションの大傑作だと個人的に確信します。


明示に名前を出されるのは例えばアントニオ・ダマシオで、確かにそのとても独特な定義がなされた「情動」とそれを中心にした立論(とそれへの激しい批判や擁護)がたいへんに本筋に絡みに絡んでいるというか、そこらへんちゃんと知らないと本当にはろくに理解できないだろこれ、とも思えるわけですが。

 

もっといえばリベットの実験あたりからの諸々……あえて一冊でざっと観るなら『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』、そうでなければリベット御大の『マインド・タイム』あたりは勿論、ラマチャンドラン他の定番中の定番の十数冊、できれば数十冊(自分だとこのあたり)、もっといえばその辺りの入門書や部外者も視野に入れた概説書でない、専門書や論文にも手を出していたり、当該分野の研究者だったりビジネスに携わっている人なら『ゲームの王国』はもっとより読み込め楽しめるだろうな、と。


例えばそこら辺ある程度押さえてる人同士で読書会でもやれば絶対面白いですよ、『ゲームの王国』。


近年の(特に国内)SF小説は「ちょっとさすがにどうか」というくらいこの方面(脳科学、脳神経科学)の知見を取り入れたり疑問を呈したりそこをジャンプ台に飛躍というか与太話したりが目立ちに目立ったわけかと思えるわけですが、その意味でも『ゲームの王国』はいよいよ現れた一種の決定版なのかな、とすら思えてしまうところがあります。
詳しい人なら「『ゲームの王国』をより楽しむための(脳科学/脳神経科学方面の)定番10冊」とか選べそうだな、そこら辺と改めて併せ読むときっとずっと面白く読めそうだな、とも。

 

伊藤計劃以後云々と帯にあったりもするので(正直、一切気にする必要もないのでは?とも思いますが、ともあれ)一応そこらへん踏まえると。
例えば『ハーモニー』の双曲割引(の罠の排除)から意識消失という理路(そもそも作中人物の説明が作中に起きた実際を真実ちゃんと説明し得ているという保証などもなく。その他の面でも色々と雑に過ぎる観方であり論外なのかもしれませんが)なんかは「いや、それは意識を必要とするあるいはその発生をもたらしたそれなりに重要な一要素一側面ではあっても、それに留まるものでもあって。双曲割引の罠を抜けば意識消失!なんてのはさすがに無茶もいいところでは?」と少し思えたりもした所。

『ゲームの王国』の「P120」云々を仮定してのあれやこれや、ムイタック教授に世界でこれを主張しているのは自分ひとりとか結構誠実に断りを入れさせてのだいぶ飛躍に満ちた話ではあるんですが。
知る限りの脳科学方面のあれやこれやと一応(読み進めつつ自分の脳内でざっとできる範囲に)照らし合わせてみてもめちゃくちゃ楽しかったですし、(知的)興奮にも満ち満ちていて、もう最高だったなと。

 

また、ここで再度感想を交換したお相手の表現を借用すると「後半に至って「ほんとうにおもしろい、完全無欠におもしろいゲームとは何か」という問いかけへの究極のアンサーも含めて、ゲーム論、脳科学的な側面、より抽象的なゲーム/政治論として、あまりにもたくさん軸のある作品」とのことなのですが。

「問いかけへの究極のアンサー」というのはある種野崎まど的?でもありつつ、あの軽妙さと切れ味ともまた違った持ち味なんですよね。長谷敏司流の執拗な問い直しともまた違う。
まさに小川哲さんの個性なのかなというべきところで。なんともすごい。ただただ、すごい。

 

その上で、上巻においてこれだけ魅力的な人物を描き、各々の魅力的な喪失と気づき、その未来に拓かれるべき道の豊かさ味わい深さを匂わせた上で。
あまりにも不条理にその命と前途とを奪うことを繰り返す。凄まじいし作品としてもものすごく魅力的な描き方だけど、でもその後どうするんだ……と思ったら下巻で時間大ジャンプ!という構成の凄味も素晴らしい上にも素晴らしいものでした。

 

そして、上巻でとんでもない熱量と筆力で描かれた悲惨と不条理に満ち満ちたポル・ポトの台頭とその圧政下のカンボジアの中での諸々が下巻に来て。
かつての少女が50年に渡り勝ち続けついに決定的な勝利を迎えつつあった「政治/現実」のゲームの上での二人の無残なすれ違いとその周囲での諸々が描かれていき。
その高まり続けた哀しさが終盤、50年に渡る旅路の果てに少年が創ったゲームの上での二人の「再戦」という形であまりにも輝き(と闇。リフレインされる「闇の中からは、光がよく見える」)をもって描かれて。
そして美と理に満ちたあのラストに繋がっていく。
あまりにも見事でした。

 

どうにも雑然としてすみませんが、以上、暫定的な感想です。

いずれ、もう少しまとまった形でブログの感想日記にでも出来ると良いのですが。

(実写版)映画『氷菓』ネタバレ感想

映画(実写版)『氷菓』。

一点を除き関谷純を演じた本郷奏多さんの姿と演技が非常に良かったかと思います。

その一点も決して俳優のせいではありません。
残念ながら他は、あまりにも問題だらけかと思えます。

原作者が丁寧な称賛を送っていようが関係なく、一読者として不満は尽きません。

 
批判したいことは無数にありますが、何よりまず第一に。 
"あんな形でしか叫べなかった"というのが動かし難い、動かしてはいけないことでしょう
実際に画面で叫ばせることなど断じてあってはなりません。

目を、耳を疑うしか無い場面でした

全体として原作に比しても「関谷純の物語」という側面をとても強調したいのだという意図は伝わってくるように思えました。

その上でこれ、というのがどうにも理解し難く思えてなりません。

 

また、高校生・関谷純の生きた時代の空気やその様子は作品の限られた言及に加えて。原作や映画の読者・観客がもし望むならばいろいろ調べもして、それも含めて脳裏に描き想像を深めていくべきものでしょう。

作中においてそこまで鮮明なイメージは描けていなかったでしょうし、描き得なかっただろう古典部の四人のキャラクターの脳裏にも映画のようにあたかも当時の学校の模様が描かれてしまっていたかのような表現は、その点でもおかしかったと強く思わずにはいられません。

 制作側が観客にそこを強くイメージして欲しいから……という理由で(なのかどうかは定かではありませんが、一つの憶測として)作中人物が脳裏に描き得ないイメージを映像として彼らが思い浮かべ感じているかのように描いてしまうのは、端的に誤った手法かと思えます。

 

次にキャラクターを幾人も変質……あえていえば愚かであったり軽薄にしていたのは極めて不快でした。

 

福部里志のキャラ造形があまりにも解釈違いで耐え難く感じられました。
(自分の中では)彼がいつも浮かべているのは「微笑み」であって、にやけ笑いではありません。
「似非粋人」(角川文庫版p24)であって軽薄の権化のような風情ではありません。

 

映画版の糸魚川養子も、『氷菓』という題名の意味に気づいていたと受け取ることも出来るのかもしれません。ただ、そう断定するのは難しいというか、むしろ「気づいていなかったのでは」とも思える描写でした。 
しかし、あれはあまりにも当然に"勿論分かっていた"と読み手/観客には知らされなければなりません(ちなみに "なぜ糸魚川養子が分かっていながら、高校生である彼らにあえて語ろうとしないのか"が原作において奉太郎が訝しみつつ分からないのはまた別の問題であり、それは彼の人生経験の不足からのものです)。
そうでなければ原作で奉太郎が怒り、声を上げたように関谷純が浮かばれません! 
新たに火災の被害者と救出のエピソードまで加えるなどしつつ、あれは一体なんだったのでしょうか。自分にはうまく理解できません。 

 

また、事件の際、学校側にも相応の識見と意図と覚悟があったことが原作ではやはり糸魚川教諭によって示唆もされています(p197-198)。 
映画版からそれは伺い得たでしょうか?

 

千反田えるのキャラクター改変も(これは個人的趣味も大きいかと思えますが)到底納得できません。 
あるいは記憶違いかも知れませんが。

「わたしは、折木さん。過去を吹聴して回る趣味はありません」(p81)

前後のやりとりはあったでしょうか? 

「やれるだけのことはやったつもりです。当時の環境を再現できればと思って倉にも潜りましたし、疎遠になっている関谷家にもできる範囲で接触しました」(p79)

あたりは? 
そこらへんがなければよくわからない異常な引力?を勝手に感じて、奉太郎に話を不躾に無遠慮に持ち込むだけの人物に見えてしまいそうになるかと思えます 
率直に言って映画版の彼女は、個人的にはそう観えてしまいました。

 

原作の千反田えるなら題名に込められた意味が解き明かされれば

「……よかった、これでちゃんと伯父を送れます」(p206)

と言えたわけです。 
映画版ではベナレス云々を奉太郎から言われてようやくそれが出来ていました。 
ある意味で納得かもしれません。 
映画版の千反田えるは、そこにおいてもそういう人物なのかもしれませんね。

 

映画版では 千反田邸での謎解きを終えた帰り道、灰色薔薇色談義で奉太郎が伊原摩耶花から見透かされたように割と気軽に「本当は薔薇色も羨ましかったんじゃない?」云々と声を掛けられたりしていました。 
福部里志は終始口数も多く、不快なにやけ笑いを浮かべてもいました。 
……実に無遠慮で、荒っぽすぎる踏み込みだと感じられました。 

 

ここは、原作ではどうであったか。 

「里志は話し出せば立て板に水だが、なにも言わないこともできる男で、俺もやつのそういうところは気に入っている。だが、いまはなにか言って欲しかった。気まぐれに後づけで理由をつけただけで、黙られたくはなかった。 
「なにか言えよ」 
 笑ってそう促すと、それでも里志は微笑みを見せずにそういった。 
「ホータローは……」 
「ん?」 
「ホータローは、薔薇色が羨ましかったのかい?」 
俺はなにも考えずに答えていた。 
「かもな」」(p179) 

……あくまで一原作ファンとしての意見・感想ではありますが。 
映画版の福部里志千反田える伊原摩耶花もあまりに人の思い、人のあり様に踏み込むことに、粗雑に過ぎました。
そんな彼らもそれを良しとしてしまう折木奉太郎も、自分の知っている彼らとはあまりにも違いすぎます。
そして、それが全くもって好ましくありません。納得もできません。

 

 

また、ビジュアル的にも演技的にも。 

 

20代前半の主演たちが高校生……古典部員四人をやっているのはなんというかコスプレ感が酷く感じられてしまいました
そして、それをそう感じさせない演技力なりなんなりも持っていなかったのでは?と。 
ただ一人、主演クラスでは関谷純を演じた本郷奏多さんにはそれがあったと思えます。 
例えば歌舞伎の名優なら還暦を迎えた男性が十代の娘を演じることも叶います。叶ってしまいます。そこまでは勿論求めるわけもありませんが、ちょっと酷すぎはしなかったかとごく個人的には思えてなりません。

 

台詞を始め演技もきつく感じられてしまいました。 
例えば奉太郎役の山崎賢人さん、酷いことを言ってしまうと「クソ姉貴!」と吐き捨てた一言あたりを除けば、作中の人物が作中人物としてしっかり語っているようには聴こえませんでした。 


演出も奉太郎が推理に入るときの画面回転ぐーるぐるや、妙に仰々しい音楽なんかも「なにこれ?」と思えてしまって。 
エンディングの主題歌?も歌そのものはともかく、この作品に似合っている曲なのでしょうか??? 
率直に言って、諸々、あまりにもダサかったかと思えてなりません。

 

 

なお、映画版についての肯定的な意見として、これで関谷純の無念やそれを受けての千反田える折木奉太郎の思い、折木供恵からの手紙、折木供恵への手紙の意味が分かった、伝わった、感じられた云々というのが目につきもしますが 

これを言うと嫌われてしまうかもしれませんが……。 
あえて言えば原作の時点からその辺りは極めて……というか核心的に重要なところだったと思えます。
原作時点で感じ取ってもいいところだと思えます。 
「ここまでやられないと伝わらないものなのか」とも思ってしまいもします。 

ごく個人的な感覚では、映画版のようにしつこくそこら辺を描かれてしまうのは非常にダサい。野暮にも程があると思えてしまいます。 
それは解説や感想ならば時にむしろそうすべき仕事ではあっても、翻案のするべき仕事ではないでしょう。 
題名の謎解きの<これはこういう意味なんだ>の念押しもくどいどころではありませんでした。 

 

とりあえず、観てきて間もない感想はこんなところです。 
多分、以降あまり言及することもないかとは思いますけれども。