船戸明里『アンダーザローズ 5―春の賛歌』次男ウィリアムの魅力

Under the Rose 5―春の賛歌 (バーズコミックスデラックス)

Under the Rose 5―春の賛歌 (バーズコミックスデラックス)


ビクトリア朝のイギリス。
アーサー・ロウランド伯爵という、周りを惹きつけずにはいられない、天使の如き悪魔的魅力を備えた人物がいる。


彼は妻を心から愛し、また彼を愛さずにはいられなかった多くの女性たちも同じく真摯に愛し、《彼女たちの産んだ子供ら》も、この上なく愛し続ける。
結果、ロウランド伯爵の《家族》たちは揃いも揃って、自分こそは彼から最も愛される存在でいたいと足掻き、もだえ苦しむことになる。特に《子供たち》はまず自分が愛されることを望み、次いで《自らを生んだ母こそは、伯爵の最愛の女性である》という信念を守ろうと必死になる。
しかし、アーサー・ロウランドは心から《皆》を愛する。そして、伯爵は愛することと赦すことにあまりにも身を捧げてしまう人物であり、相手を思い苛烈に厳しく叱りつけることはできても、どうしても誰をも断罪することが出来ない。
それ故に、伯爵の愛を巡る凄惨な《家族》たちの葛藤と対立は深く濁り、ロウランドの空気からは重苦しく陰鬱な靄が晴れない(『Under the Rose』全篇)。
アーサー・ロウランド伯爵の死後においてさえ、《家族》たちはその愛を巡って激しくすれ違い-------とても《すれ違い》などという言葉で言い表せるものではないが-------を続けざるを得ない(『Honney Rose』)。


一方で、伯爵を愛し、伯爵に愛された女性たちとその子供たちは皆、大きく違った個性を持ちつつも、極めて理知に優れ(特に子供たち)、人の心を察する想像力と洞察力を備え、誰もが誇り高く、魅力的過ぎるほどに魅力的な人物。
誰しもが本来、明るく笑いの絶えない素晴らしい世界を築き上げることの出来るような存在だと言える。
従って、時にロウランドでは、この上なく幸せで濃密な心と知恵の交流が行われる。


特に伯爵家に一人の美しく若い女家庭教師(ガヴァネス)、レイチェルが現れてからは、多くの葛藤と対立を経つつも、あるいはロウランドを覆う愛の荒涼は、その《冬》の中から芽吹くべき《春》の賛歌の土壌でしかないのかもしれないと錯覚させられるほどの《明》が、ロウランドにもたらされることとなった(『Under the Rose 春の賛歌』五巻)-------。


船戸明里Under the Rose』という複雑な物語を《アーサー・ロウランド伯爵》という人物を中心にまとめると、以上のようにも言えると思います。
ただし、魅力溢れる主要キャラクターたちの誰を中心にしても、物語をまた別の軸で見ていくことも出来そうです。丁度、現実の私たちの人間関係が、心理の葛藤が、そうそう簡単に一つや二つの軸では割り切れないように。
こうした、一つの切り口では語りきれない凝った人間関係の在り方こそは、『Under the Rose』の魅力であると思えます。



しかしながら。
数多思い浮かべることが可能な軸の中で、私は上記の《アーサー・ロウランド伯爵を中心にした視点》にこそ、特に惹き付けられるものを感じます。
そして、その場所に立って物語を捉えるとき。
どうしたって、次男・ウィリアムこそは最も愛すべき人物だと感じずにはいられません。


彼の冷酷さ、峻烈さと見えるものは、理知に優れた家族の中ですら群を抜いて優れた、彼の賢さが着けさせている《仮面(ペルソナ)》であると思えます(ただし、そのどこまでが本能的なもので、どこまでが自覚によるものなのかという判断は、私には手に余る課題と言えそうです……)。


また、後述するように、《人に真に自分自身の問題と向き合い、対決させるよう導き、助けるためには時には酷薄な対応こそが必要である。そして、伯爵に最も欠けたものこそはそれである------(父さんは何も要求しない)。それは断じて間違っている!》というのは、ウィリアムの抱く信念であれば優れた知恵でもあり、激しく愛憎の入り混じる父への一種の反抗とも言えると思えます。


※3月28日夜追記
上記部分について、《ウィリアムは確かに作中で(父さんは何も要求しない)と独白はしているけれど、「断じて間違っている!!」などとは決して言っていないし、そういうキャラクターでもないのでは》という趣旨のご指摘を頂きました。
……言われて見て、改めて読み返してみれば、確かにそう思えます。
ただ、作品を読んでまず自分なりに思い描いた印象として、上記の感想は感想として、そのまま残しておくことにします。
《(しばしば明らかな誤りや行き過ぎも含む)思い込みも含めて、当時の感想・印象として書き残しておいてみよう》というのが個人的にこだわっている、日記を書く上でのコンセプトであるからです。

ここで、もしも彼が《生き写し》とされる父の如くその魅力を抑えることなく振りまいてしまったなら------ロウランドにまた一つ、強烈にして逃れ難い磁力を持つ愛の地獄が再生産されてしまうことは、余りにも明らかです。


ウィリアムの人間的魅力-------その優しさ、その洞察力、その茶目っ気、その一本気、その真摯さ、etc.etc------はそれでも隠し切れず、しばしば洩れ出てくるのは止められません。
その強すぎる人間的引力が過度にも思える自己抑制の下におかれていなければ、凄惨極まる未来がその次の日からでも訪れてしまいます。
例えば、伯爵位を継ぐべき長男・アルバートとの苛烈極まる対立は避け得ないでしょう。本人に伯爵位を求める心がまるで無くとも、未来の伯爵にとって、あまりにも魅力的に過ぎる弟は耐え難い存在にならざるを得ませんから。
ウィリアムの一貫した強烈な自己抑制を崩さない態度ゆえになかなか表面化はしませんが、アルバートとウィリアムの間の潜在的な緊張は、この物語におけるもっともシビアな関係の一つであると思えます。


そして、そうした立場故にこそ、他の誰にも増して、《ロウランドを覆う悲劇の根源は父である伯爵が心から《愛する人皆に盛大に振りまいて回る》愛である》ということを認識せざるを得ないのが、このウィリアムというキャラクターであると思います。


勿論、そこにはウィリアム自身の《僕は僕だ。僕は父の複製でも代わりでもない》という大トラウマが絡んでもいて、その分事態はより複雑です。
そして、その複雑さこそは、《春の賛歌》の最大の魅力であると思えます。


……そして、この五巻にまで来て。
はじめてウィリアムは、そのトラウマを乗り越えるべき一つの光を見出します。
それゆえにこそ、この巻こそは、ここまでの物語における最高の一冊になっていると思えます。



この物語については他にも書きたいことはあり過ぎるほどありますが-------多分、今、最も書きたかったのはここまでに書いた話です。
詰め込みすぎては逆に、伝わるべきものも伝わらないかもしれません。
自重して、今回はここまでにしておこうと思います。


ただ、蛇足になるかもしれませんが、


[1]これまで「春の賛歌」(二〜四巻)で描かれてきた話と五巻での各場面との関わりが濃密にうかがえるところ
[2]五巻の中で特に気になる場面
について、ページを明示して少し説明していってみます(最初キャプチャー画像を過剰に掲載していたところを、著作権上の事情から月曜頃、テキストによる説明とページ内の数コマに絞った引用に編集し直して掲載しました)。
もしも、それが少しでも、この素晴らしい物語に興味を持って頂いたり、既にその存在を知っている方がより楽しんでいく助けになれば幸いです。



二巻。p146-147。
《僕は僕だ。僕は父の複製でも代わりでもない》という、抑制されているが故に、一層煮えたぎる怒りを裡に抱えたウィリアム。
レイチェルと彼との出会いの初期においてのこのやり取りは、彼にとって激しく心に突き刺さらずにはいられなかったでしょう。
《あなたは〜〜みたい》という言葉こそは、投げかけた次の瞬間には一直線に彼の激しい怒りへと疾走していかざるを得ない、快速特急であるわけですから。
《母が父に寄せる思いへの配慮》という、これも妄執じみた思いと同じくらい-------いえ、その思いともまさに一体となって、ミス・ブレナンの不用意なひと言は、ウィリアムの心にその黒髪よりも更に濃い影を落としたに違いありません。


また、その後の年齢を巡るやりとりもマズいです。非常にマズい。
レイチェルは二人の関係がのっぴきならないところまで進んだ後の四巻のp161で、更に同じ-----しかし、遥かにマズいミスを犯します。
ウィリアムにとって、《母が愛してくれている》ことには二つ問題があります。
一つ目は、愛されているのは彼自身なのか。愛されているのは、彼に映った父の影であるのかという果てぬ疑惑。
二つ目は、こんなにも愛され、こんなにも愛しているのに。彼には母を救うだけの力が無いと言うこと。自分がまだ十六歳の少年でしかないということ。
その苦しみを深く深く抱える少年に投げかける言葉として、彼女はまさに最悪のものを選んでしまったわけですね。


さて。
そうして心に落ちた黒い影の故にこそ、ウィリアムはレイチェルに対し事あるごとに酷薄に対しようとします。
しかし、それにも関わらず、やはり事あるごとに彼女を手助けしてしまうというのは-------それこそは正しく、彼が伯爵の息子であるということなのでしょう。勿論、《それは弟たちへの愛情からの行動でもある》ということも含めて(これについても他でもまた触れます)。


まぁ、それと。激しい怒りと否定は、裏返しになれば、そのまま丁度同じだけ強い恋心と執着にも繋がるのでしょうね。
ウィリアムとレイチェルの今後------あるいはそれこそが『春の賛歌』なのか-------は実に楽しみです。
しかし、そうであるだけに-------『Honny Rose』は私にとって、《少しばかり》とはとても言えない衝撃であったのですが。


ちなみに。五巻51pから察するところ。
長男・アルバートは弟のこの心理を相当程度察していそうな感じがします……。
まぁ、まことにもって喰えない人物ですよね、この人も。
あと、五巻におけるアルバートの《笑顔》の数々は、あまりにも悲壮なものが多すぎます……。


五巻p82。

レイチェルの生涯を左右するであろう場面において。
彼女の力となったのは、アーサー・ロウランド伯爵の優しい配慮ではなく、ウィリアム・ロウランドの「 精々 無様に 振舞えば宜しい 」という酷薄にも思える突き放した一言でした。この流れはウィリアムにとって、決して予想外のことなどでは無かったと思います。


五巻、p46。
同じく五巻、p99。
この場面の意味を説明するには、五巻を手にとって、この後に続く場面を観て頂く必要があるのですが------結論から言えば、ウィリアムの行動は、レイチェルが自ら憎まれ役を買って出たのと実は極めて似通ったものでしょう。そう思います。
ようするにこの二人。実は似たもの同士と言えるところもあります。
だからこそ、いずれ惹かれ合う運命にもあるのでしょう。


ちなみに、五巻終盤において。
心のみでなく身体の繋がりの記憶からも、二人が互いに惹かれあう衝動を------互いの理性は強烈に否定しようとあがきつつ------感じる描写が、実に見事だと思えます。



五巻、p85。

五巻における(伯爵を除く)《男たち》の姿勢・態度はこの場面に集約される-----といっても過言ではないと思えます。
理解しても居れば、見守りもする------しかし、女性達の問題に自ら深入りはしません。
ダメなようであれば溜め息をひとつ。うまく彼女達がやりおおせたようであれば、笑顔で「お茶をどうぞ」。


五巻、p124-125。

ウィリアムにはなぜ、他の人間には到底見分けのつかない生き写しの双子、クレアとキティを見分けられるのか。
《なぜ》というよりも《当然》です。
《生き写し》と言われる人物と同一視されることこそは、彼が嫌い抜いてきていることなんですから。
双子がウィリアムに完全になついてしまうのも。ウィリアムがそれを温かく許すのも。
そのことを抜きにしては語れない出来事です。


……えーと、この場面についてはあと一つ、絶対に語られるべきことがありますね。
この五巻について何事か感想を書く場合。
《双子の超絶可愛らしさについて一言も触れないのは、もはや犯罪である》とすら断言できますね。
ご覧の通りです。クレアとキティの可愛らしさはもはや漫画の宝、日本の宝です。
この一点のみにおいても、このシリーズ五冊全てを読む価値がありますね。絶対に。


五巻、140-141p。

双子へのおしおきは、この物語において、最も微笑ましくも愉しいエピソードの一つです。
そして、アーサー伯爵、アルバートの心で大汗をかきつつ思い浮かべる幼いウィリアムの姿と現在の行動とをみるならば-------ウィリアムがどれだけ父を愛し、尊敬しているかも強烈に伝わってきますよね。



二巻。166p
五巻。136p
《チェスの人間関係における成長への効用》。
このレベルの伏線はあまりにも多すぎて-----といいますか、いわば《全コマこれ伏線》で------いちいち数え上げていくとキリが無さそうです。

また、野暮に羅列するのはあまりいいことだとは思えません。


えーと、ただ、一つだけ。五巻のこの1ページの半分は、ウィリアムの-------実に分かりづらい上に誤解を招きまくる------優しさで出来てますね。間違いなく。