【講演レポート】北村薫講演『私と芥川龍之介』

【講演レポート】

北村薫講演『私と芥川龍之介

2004年5月1日
神奈川近代文学館

なお、途中、色々と勝手な感想や解釈、脱線、大脱線&大暴走を挟んでいますので、鬱陶しければそこは飛ばして読んでください。
また、念のため書いておきますが、北村薫『六の宮の姫君』を未読の方は、色々と楽しみを損ないますので、このレポートを読まないことをお勧めします。


■■■講演の概略■■■

講演は概ね、『六の宮の姫君』で描かれた芥川論を、未読の方にもわかるように、北村先生の芥川との出会いから大学で卒論として扱うまでを順を追って語る、というものでした。


冒頭、北村先生も断られていましたが、今回は「芥川龍之介展」に伴う講演、つまり、来場者には北村先生の読者でない方もいるので、そうした形式になったそうです。

そういうわけで、北村薫の読者にとっては「そんなに新しい話はなかった・・・?」なんて思う人も多かったかもしれません。
ただ、講演の中で『六の宮の姫君』の一部分を何度か朗読されるところがあり、この会場に来ていた人が今後その部分を読むときは、北村先生の朗読を頭の中で再生しながら読むことも出来るわけですね。
それはいわば、この講演会に行った人の特権といえるでしょう。

■■■近代文学館の芥川展■■■

講演は、まず、北村先生が講演前に文学館の特設展示をみてまわった時の話で始まりました。
あの『義仲論』の冒頭の原稿や、菊池寛の弔辞の展示が、やはり感慨深かったとのこと。

ちなみに、菊池寛から芥川への結婚祝いの手紙は、展示されていませんでした。

そして、グレン・ショーが『羅生門』を初出の形で訳した本も展示されていたことが、意外な出会いだった、と。
そこから『六の宮の姫君』でのその英訳に解説を書いた英文学者の先生による誤解の話をされ、「専門外のことについて語るのは、怖いものですね」と語られました。

これは私の個人的な憶測なんですが、おそらく、『六の宮の姫君』の冒頭で、芥川『文放古』の一節を引いたのと同じ気持ちからでしょう。あえて説明の言葉になおすなら、《---私はこうとしか思えないのですが、ひょっとすると、とんでもない間違いなのかもしれませんよ》、と。

■■■初めての出会は紙芝居----小学生時代■■■

その後、芥川について、「芥川は昔も今も、とても多くの読者に人気があると共に、非常に多くの人に数知れぬ角度から論じられた作家でもある。なぜかと言えば、人によって様々な角度から見ることが出来、様々な形で好きになったり興味を持つことができる作家だからです」と前置きされた後、芥川との始めての出会い---小学二年生の時、先生が紙芝居としてみせてくれた『白』という作品---について語られました。

 ⇒芥川龍之介『白』(「青空文庫」へのリンク)
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/149_15204.html

白が愛する飼い主一家に自分を自分だとわかってもらえない場面が、「とても嫌だった」、と。
「勿論、幼い頃にそんな言葉は思い浮かばなかったけれど、「自分の存在を否定される恐ろしさ」を感じていたんでしょうね」とのことでした。


作品のコピーを手に、作品の概略を語られる際、「それでも白と云うのだよ。」という場面を特に、印象深く読み上げられました。

その場で「ああ、あれか」と思い、今改めて確認してみたのですが、この場面は「夜の蝉」で「『わんわん物語』が嫌いだった」という話に形を変えて描かれているんですね。
更に蛇足の駄目押しをすると、《私》の「特に他の野犬達がどうなったかも分からないのに(恐らくは殺されたろう)、最後に首輪をつけてしたり顔をしているトランプが我慢できなかった」という感想と、白の独白、特に「けれどもしまいには黒いのがいやさに、――この黒いわたしを殺したさに、あるいは火の中へ飛びこんだり、あるいはまた狼と戦ったりしました」の部分とを比べて考えると、少し興味深いものがあります。

そして、これは「私の北村薫論」というものになってしまうのですが、北村薫という作家は、《それでも》の作家だと思うのです。
《きっと》ではなく、《それでも》。だからこそ、誰よりも惹かれるのだろう、と。
《きっと》は、《必ず》や《絶対》に比べ誠実な言葉であり、《それでも》は、《きっと》に比べ哀しい言葉です。

■■■芥川作品の二つの顔----中学時代■■■

話は、北村先生の中学時代へと、進みます。


中学生になると、様々な本を文庫で読むようになったこと。
子供時代、通学路でも本を広げてその世界に入り込みながら歩いていたこと。
その時読む本の中でも一番数も多く、気になっていたのが芥川の作品だったこと。

「まあ、"二宮金次郎"というわけです」と笑って語られていました。
が、確か萩原朔太郎について書いていた文章で触れていたことだと思うのですが、そうして物語に入り込みつつ、時にそこに描かれた人物達と対話するように何事か呟きつつ歩くこともあった幼き日の北村先生は、級友からひどい言葉を投げつけられたこともあったと聞きます。
そんな北村少年(ここは「宮本少年」であるべきなのかもしれませんが、あえて、「北村少年」とします)の姿をイメージしつつ、講演の続きを聴いていました。

中学生の北村先生にとって、芥川は二つの異なる面で、気になる作家であったようです。


まずは、切れ味鋭い技巧を誇る作家として。


その例として挙げられたのが、『カルメン』という作品です。
「短い作品ですので」ということで、全文を朗読されました。

 ⇒芥川龍之介カルメン
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/29_15178.html

グラスの中の黄金虫。割った皿を手に踊るカルメン。運ばれてくる、鮭の皿。
亡命してきた劇団を評する、盲目の詩人の洒落(過激と歌劇)。
北村少年はそうしたあたりを「カッコいい」「うまいなぁ」と感じたのだそうです。

『謎のギャラリー』で芥川の『カルメン』について少し触れた文章の、ちょっと詳しい説明だったわけです。

続けてもう一つ、技巧的な作品の例として挙げられたのが、『三右衛門の罪』。

 ⇒芥川龍之介『三右衛門の罪』
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/138_15156.html

最近、ある新聞(※読売新聞)で様々な作品を紹介するコラムを連載している際、「ちょっと、ある出版社(※東京創元社)の作品に偏るなぁ。個人的に関係が深い出版社でもあるし、エコヒイキと言われてしまわないかなぁ。でも、本当にいい作品が多いんだけど・・・」と悩まれた際、思い出したのがこの作品、という紹介でした。


概略を説明された後、「なんだか芥川というよりは、菊池寛の作品に似ている感じもしますよね。そして、作品としての出来を言えば、低い。近代的に心を分析している、というだけなのだけれど」と語られました。
とはいえ、まずは北村少年は「こうした芥川の前期の作品に多く見られる、人生経験を積んでいない子供にもわかり易い技巧の冴えた作品を楽しんだのだ」と。


 ---しかし、ここで北村少年は、その心の核を強く捉える作品と出会います。『奉教人の死』です。

 ⇒芥川龍之介奉教人の死
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/49_15269.html

北村少年は、冒頭を少し作品とは違った形で覚えこんだそうです(正確に覚えている方がいましたら、フォローお願いします・・・)。
物語のテーマと共に、「未読の方のため、詳しくは言えませんが、やはりああしたラストは、中学生には大変印象的でしたね」と語られました。


その後間もなく、北村少年は『往生絵巻』とも出会います。

 ⇒芥川龍之介『往生絵巻』
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/117_14836.html

作品の概略を語った後、北村先生は言います。
北村少年が強く惹かれたのは、ひたすらに何かを追い求める、その"一途さ"だったのだ、と。


 ---そして、北村少年は、『六の宮の姫君』と出会ったのでした。

 ⇒芥川龍之介『六の宮の姫君』
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/130_15275.html

■■■『六の宮の姫君』と、"知"の哀しみについて----高校時代■■■

初めて読んだときにもう、「ピンときた」のだといいます。
「---ああ、これだ」と。


「一途に何かをひたすら思う----それは一つの"理想"です。あるいは、"義"とも言えるかもしれない。
でも、そう一途に何かを追い求められない"現実"がある。
あるいは、昔だったら"義"は多少は見い出し易かったのかもしれない。でも、現代では----いえ、それより何より、私自身が"弱い"ということなのですが。」


 ---その後は、"知"についての話が続きました。
例えば、『蜘蛛の糸』を読んだ北村少年は、「変だなぁ」と思ったといいます。

 ⇒芥川龍之介『蜘蛛の糸』
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14545.html

まず、「別に蜘蛛を助けていない他の人にもなんで蜘蛛の糸が見え、掴めるのか」。
次に、「お釈迦様は「悲しそうな御顔」で結末を見届けていたりするのだけれど、「お釈迦様、そうなるの、わからなかったんですか?」と」。

個人的には「この話については"知"の面からも理屈付けはできるんじゃないかな」とも思うのですが、そういうことを論じるところでもないので、とばします。

そこから話が飛び、北村先生が最近、お菓子のおまけ(チョコエッグなど)にはまっていた、という話になります。


おまけのミニチュアフィギュアがかわいいのが気に入って買ったのだが、そこで、「なぜ、こんなに小さいものはかわいいんだろう」ということを考える。そういう風に、自然に頭が働いてしまう。
「そういえば、『枕草子』の「うつくしきもの」では「うつくしきもの、瓜にかきたるちごの顔。すずめの子の、ねず鳴きするにをどり来る。」「なにもなにも、小さきものは、みなうつくし。」なんてことを言っていたな、と。」
「子猫が「ニャー」と擦り寄ってきて、嫌だと思う人はあまりいないでしょう。…まあ、猫嫌いの人もいるかとは思いますが。それが、こんな大きな(パッと大きく身振り)猫が「ン"ニャァ〜」(ややダミ声で)と寄ってきたのなら、また違うわけですが」


「それでまあ、「なぜ、小さなものが人は好きなのか」とずっと考えていくと、「ああ、人が赤ん坊をかわいく、守りたく思うための本能なんだろうな」ということに辿り付く。」
「---こんな風に、考えようと思って考えるのではなく、自然に思っていってしまうのですね。」


 ---そんなことを話された後、話は大学時代のことへと移っていきました。

 ⇒『枕草子』該当箇所
http://www.osk.3web.ne.jp/~t819kwbt/Contents/Kobunn/JapaneseClassiciLiterature/Makuranosousitext.html

チョコエッグの話から「枕草子」が出てくるのは、正に北村先生の面目躍如ですが、「小さいものを好むことの根本は赤ん坊を守るためにプログラムされた本能」という結論は生物学の常識で---誠に失礼ながら---その面ではつまらない話です。

でも、そんなことはどうでもいいことです。
重要なのは、語られざる結論。
「---だから、自分はなかなか"一途"になれない」ということ。
そして、後に『義仲論』ではっきりと北村青年が確信したように、「---だから、自分にとって芥川は特別なのだ」ということなのです。

なお、この話はすぐに、「赤頭巾」の「知は永遠に情に嫉妬せざるを得ない」という名場面を連想させます。

ただ、これはもう、再び「私から見た北村薫、私から見た《私》の物語」というものになってしまうのですが、この話はその場面だけに留まるものではなく、その「知の哀しみ」というものこそ、《私》の物語全体を貫くテーマだと思うんですね。

正確に言えば、「「知の哀しみ」を越えて、「ただ一度の人生」を全肯定できるか」こそがこの物語の主題であり、《私》は”鉢かつぎ姫"なんだ、と。

・・・なんだか脱線しすぎました。先へ進みます。

■■■文学全集を読み、『義仲論』に出会う----大学時代(1)■■■

大学に入った北村青年は、文庫だけでなく、様々な文学全集を読むようになります。
そこで古本屋で買ったのが、文藝春秋編・小林秀雄責任編集『現代日本文学館』。


講談社の全集もいい」と思ったとのことですが、巻数が少なかったことと、比較的安かったこと、作品、解説、単行本の表紙写真と並ぶすっきりとした構成の美しさが気に入ったこと、作品選定の内幕話なども書かれた編者・解説者の熱の入れようを面白く思ったことなどから選んだ、とのことでした。

ちなみに、『現代日本文学館』は"全ての巻、小林秀雄責任編集"(さすが、"評論の神様"はやっぱり人間じゃないのかもと思わされます)の"全四十二巻"。
そして、それは文学全集としては、確かに"巻数が少ない"んですね。
でも、さらっと「巻数が少なかったので」という北村先生は、やはり怖いですよね。


そう、声を大にして言いたいんですが、北村薫は、ものすごく怖い作家です。追えば追うほど、必ず、その怖さが見えてくるはずです。

勿論、それはただ単に、「北村薫は恐るべき読書量を誇る」というだけの話ではありません。


例えば、「織部の霊」の《私》と円紫さんの『夢の酒』と『樟脳玉』を巡るやり取り、あれは物凄く怖い場面です。


『夢の酒』と『樟脳玉』が「同じ」という《私》に、円紫さんは、「ちょっと黙っていたが、それから何だか寂しいような笑いを見せると、ゆっくり頷いた」。
その動作と、続く言葉の持つ意味を、「渇仰すべき境地」への思いにひたすら気が向いている《私》は、正確に観察しつつ、感じ取れていません(そう、この時、《私》はまだ、十九歳なのです)。
そんな《私》に対し、円紫さんが次のやりとりでかけた言葉、「玉三郎のを観ました。あの頃、あなたはいくつなのかな」は、心が大きく離れた、"ちょっと賢い子供への言葉"となってしまっている---背筋がゾッとする場面です。
そして、その言葉の残酷な優しさにも、《私》はやはり気付かず、「ちょっと記憶にない」などと考えている・・・。
勿論、その後、《私》はその誤解、すれ違いを解き、円紫さんに「こっちがどきりとするぐらい真面目な顔」をさせてみせ、物語はその本格的な始まりを告げます。


でも、こう思わずにはいられません。
人と人との出会いでは、時には《私》と円紫さんのような組み合わせでさえ、そうした誤解、すれ違いを持ったままになってしまうこともある。
いや、むしろ、その場で《泣くな、泣くな、美しい人たち、泣くな》のところまで話が続く方が、極めて珍しい例外であるに違いない。


そもそも、機会が与えられないかもしれない。
機会はあっても、「文学少女めくけれど本当に思っていることなんだからいいだろう」などとは思い切れないかもしれない。
たとえ思い切ったとしても、こうまでふさわしい言葉は紡ぎ出せないかもしれない。


そんな、人と人の心がうまく繋がることの困難さを、この場面は見事に描き出しているように思えるわけです。


・・・ところで、こうなったらもう、とことん脱線してしまいますが、小林秀雄北村薫との関係というのはひょっとすると、実に面白いものなのかもしれません。


小林秀雄は、三浦雅士『青春の終焉』でも明確に指摘された通り、《青春》という文化、観念の権化です。
《青春》という文化、観念を無理やりまとめると、「少年、青年---つまり、"若さ"を持つ男が---恋愛という事件を通して、自分とは何かを苦悩に満ちた歩みで探る」とでもなるでしょう(詳しくは、『青春の終焉』を読んでください)。


そこで何を言いたいのかと言うと、"少年"ではなく"少女"の物語、しかも、《純真で世の中のことなど何もわからぬ少女が、激しい恋を経て大人になっていく》という昔ながらの構図を徹底的に拒否した《私》の物語とは、文学史的に考えれば(「大きく出たなぁ、おぃ…」と自分に半畳を入れてしまいますが…)、「女は俺の成熟する場所だった」(『Xへの手紙』)と語り、その評論と共に、その人生そのものをもって正に"青春"という文化を体現した小林秀雄と、真正面から相対するものだ、ということなんですね。
そして、北村先生はおそらく、そのことに極めて意識的なんではないか、と。


・・・更に脱線します。


文庫版『朝霧』の解説で、斎藤愼爾先生は『ドストエフスキーの生活』序文から、「歴史は決して二度と繰り返しはしない。だからこそ僕等は過去を惜しむのである。歴史とは、人類の巨大な恨みに似てゐる」という有名な一文を引いています。


確かに、「織部の霊」で《私》が《L'historie---歴史》と落書きしたその「歴史」とは、私も小林秀雄の言う「歴史」なのだと思うのです。
「歴史」は動かしがたい記録ではなく、人の想いの集合体である---表紙を描く高野文子が大傑作「奥村さんのお茄子」で描き出したように。
「歴史」という言葉にフランス語の「L'historie」を使ったのも、英語の「history」よりもよりその場に相応しい意味合いを、フランス語の「L'historie」が持っているためでしょう。


でも、作家・北村薫の核心中の核心の言葉---「小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思います」---にからめて、小林秀雄を引いてきてしまうこと、その言葉に「恨み」という負の色をつけてしまうことは、やってはいけないことのようにも思えます。


…これ、とんでもない身の程知らずの意見なんですけどね。
『永遠の文庫<解説>傑作選』『永遠の文庫<解説>名作選』の編集者でもある斎藤愼爾先生は、いわば、《文庫解説の神様》ですから。
でも、やはり、そう思ってしまう…。
ああ、でも、こんなの、単に表面だけみた変な思い込みのような気もしてきました…。
相手は"あの"斎藤愼爾で、こちらは専門違いどころか、文学部卒ですらない…役者が違う以前の問題では…。


…ともあれ、以上、底抜け脱線ゲームでした。講演会レポートに戻ります。

そして、北村青年は、臼井吉見の『芥川龍之介伝』に出会ったのです。
その内容は、『六の宮の姫君』の、文庫版なら92ページの《私》によって語られています。

ここらへん以降から、芥川と菊池のキャッチボールについて、北村先生は『六の宮の姫君』の該当箇所を朗読することで説明をしていきましたので、その部分の講演会の模様の説明は省略していきます。

 ⇒芥川龍之介『義仲論』
 http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/81_14934.html

北村青年はそれを読んだ瞬間、「芥川はその時点(※十八歳)で、「自分がそうはあれない」ことの認識があった筈」と感じ、「それが『六の宮の姫君』につながっていった、という図式が直感として浮かんだ」のだといいます。

そして、文学全集を読み進める北村青年は、菊池寛と出会います。

なぜ、北村青年にそんな直感が訪れたのか。
言うまでもないですね。"似ている"からです。
 
■■■菊池寛と出会い、卒論が生まれる。----大学時代(2)■■■

菊池寛『首縊り上人』を読んだとき、北村青年にはもう、直感的にそれが『六の宮の姫君』と対になるものだとわかったそうです。
そして、直感を裏付けるべく年譜をみて、「やはり、そうだ」と。

ここに、卒論のテーマは定まりました。
早速、二人の担当教官の方に論の骨格を話し、「『六の宮の姫君』の成り立ちについては、確かにその通りなんじゃないか」との答えを得て、勇気づけられたそうです。


 ---やがて、大変ユニークな卒論が出来上がりました。

どうユニークか。
その論文の冒頭は、「他に誰一人いない野球場の中、ただ二人、キャッチボールをする人影」を描いて始まり、締めくくりもまた、その光景に戻ったというのです!

それを読んだ教官の方は、「おぃおぃ、それ、小説だよ」と苦笑されたそうです。

臼井吉見の芥川論を読んで直感を得たからこそ、必然的に北村青年にはわかったわけですね。
なお、『首縊り上人』について文庫231-232ページを朗読した北村先生は、「見物どよめきて笑ひぬ」の部分を、特に強く、印象的に口にされました。


それと、またまだ大脱線ですが---この講演会でも北村先生は菊池寛を「否定を否定する」作家、と語られました。どこまでも弱い"人間”を否定する観念---武士道や信仰---に"殉ずる"ことを否定し、弱い"人間"こそを肯定"したいとする"(芥川の《羨望》と《嫉妬》と同様、菊池寛もまた、それを肯定しきれない、死す時にも紫の雲のたなびくのを見ることはできなかった)作家だ、と。


そうなると一人、連想される作家がいます。
常にある価値観に"殉ずる"人々を描き、それらの価値観が少し視点をずらせば、あまりにも脆く崩れ去るのだということを示す。
そうして"殉ずる"ことを一度徹底的に否定しつつ、それでいながら、"殉ずる"ことを嘲笑うことを再度強烈に否定し、"殉ずる"人間がそうでない人間には辿り付けない境地にまで達することを示す。
そんなことを繰り返した作家---その名を、山田風太郎といいます。


・・・以上、脱線でした。講演会レポートに戻ります。

■■■作家・北村薫が『六の宮の姫君』を描く■■■

 ---その後、話は数十年の時を越え、作家・北村薫が『六の宮の姫君』を描いたときの話に移りました。


「芥川が菊池のどんな作品を「いい」と言っているか、調べました」
「なぜなら、全集の話でも触れましたが、「どんな作品を選ぶか」ということも、強くその人を語ることだからです」
「『順番』の話は学生の頃ではなく、作家として『六の宮の姫君』を書こうとした過程で見つけた話です」


「自分の体験をそのまま反映させても、小説にはならない。そこで、田崎信という文壇の老大家を生み出し、彼に謎を出させる、という形にしました。」


「菊池について、大学生だった自分は全集で読んだわけですが、現代の大学生である《私》があまりに菊池を読み過ぎていてもおかしい」
「そこで、手に入り易いものから読んでいった、というようにしました」
「《私》の考えも、それに沿って進んでいっているように書いています」

この部分の発言は、『六の宮の姫君』では、巻末付記にある「《私》が《その時》に読んだ本の引用であり」という記述で示されています。

「読者の方からお手紙を頂きまして、『朝霧』という続編では、追加した部分があります」
(その後、その部分----「寂真」と「寂心」---について説明)
「石川哲也さんという方からの指摘だったのですが、そのお手紙には、他にも随分と難しいことが色々と書かれていたんですよ」


 ---そんなことを語られた後、『藪の中』を思わせるようなちょっとした話で----つまりは、いかにも北村先生らしいやり方で----「こんな風に私の眼に映った芥川論を聴いてしまうと、どうしてもそういう見方で芥川を見ることになるかもしれませんが、勿論、他の見方で見れば、他の芥川が見えてくるはずですよ。評論に、”正しい答え"なんてないんですから」という意味のメッセージを伝えて、講演会は終わったのでした。

では、長く長く、ひたすら長くなってしまいましたが、こんなところでレポートを終わります。

以上。

(2004/5/2)