『廬生夢魂其前日』『十四傾城腹之内』


二つセットで、『黄表紙廿五種』を事実上指定。

編者が巻末で「我が出版界空前のことであり、また到底マネの出来ぬ一種の組版芸術だと自信する」と誇る通り、「ともかく理屈抜きで面白かった」というためには、この本で読むことが必要。

例えば、同じ黄表紙作品を読むにしても(そちらには上記の二作品は収録されていないが)『日本古典文学大系59黄表紙洒落本集』で読むのとでは、面白さが全く違う。


なお、特に『廬生夢魂其前日』の名前が出されたことについては、それが滅法面白い作品だという他、作者・山東京伝の前文---江戸川乱歩の「現し世は夢 夜の夢こそまこと」を連想させる---を、《私》の物語の始まりに置きたかったのではないかと思う。


なお、特に愉しかったのは、次のくだり。

「庭には金銀の砂(いさご)を並べ、東には三十四丈に白金の山を築かせて黄金の日輪を出し、西には黄金の山を築かせて、白金の日輪を出し、天の濃漿(こんず)を(こうがい)の盃(はい)で飲ませ、女官のかしづき、四季の景色を一時に見せるなど、今時の廬生、そんな野暮な事では栄耀(えよう)とも栄華とも思ふまじと、夢魂道人これを新狂言に書換へ、楚国の使を北國(ほっこく)の使にして、吉原の栄華を見せるつもりなり」


当時の生き馬の目を抜くような活気と、その中で先頭を切って走る作者の心意気がひしひしと伝わってくる。
そして、そんな当時の「流行の最先端」をいき、様々な当時の文化や流行りものを取り込み戯れた作品が、ろくに当時の文化や気風に馴染みを持たない自分にとっても「理屈抜きで面白かった」と感じられることの不思議、それらの作品の持つ強烈な引力を思う。


一方、実際に歌舞伎などを観始めてみると、少し観るだけで黄表紙の作品たちとの世界の繋がりを感じさせられる。
例えば、今年六月の海老蔵襲名披露公演。夜の目玉は、『助六縁江戸桜』。


『廬生夢魂其前日』で廬生に扮した夢魂道人が

おれがなりは、助六の紛失した意休といふもんであろう。

という場面の雰囲気が、どういったことなのかわかった。
続く月の『三社祭』では、『心学早染草』を元にした善心・悪心の善尽くし、悪尽くしの踊りを観る事もできた。
それは、歌舞伎などでいう《世界》という概念の一端が、僅かに僅かに覗けたということなのかもしれない。


なお、余談として、玉三郎の揚巻の裾に隠れる新海老蔵助六の姿には、『天守物語』の名場面が思い浮かんだ。
また、歌舞伎界の御曹司中の御曹司たる海老蔵の襲名の相手役を一代の実力者・玉三郎が勤めるという趣向は、ろくにそうした事情を知らない者にとっても大変面白いものに思えた。


更に、続く月には、名家の内からの伝統の破壊的創造者である市川猿之助の病気療養で空いた穴を、再び玉三郎が、かっての自らの大出世作『桜姫東文章』を19年振りに演じて埋めたのを観た。
ごくごく最近になって歌舞伎を観始めたばかりの新参者にとってさえわからないなりに伝わってくるそうした因縁や、それに培われた想いは、10年、20年と歌舞伎を観続けている人にとっては、どれだけ感慨深いものだろうと思う。


……しかし、坂東玉三郎という人は、なんて凄いんだろう!!
助六縁江戸桜』『桜姫東文章』と続けてその技芸神に入る姿を観ることができたことを幸せに思う一方、今までそんなに凄いものを見逃してきたことを悔しく思う。