キャラメルボックス公演・北村薫原作『スキップ』。

12/11(土)14:00の公演(1階19列7番)で最初に見て、もう数回観たくなり、14日(火)19:00(1階23列23番)、16日(木)19:30(1階7列12番)と観ました。
 三回分の感想について、16日の観劇後に出した感想アンケートを一部修正したものを、ここにアップしています。




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はじめに----
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 まず、好きで好きで、6年にわたって追いかけている作家の二十回以上は読み返した作品が舞台となり、確かに「その作品」として立ち上がって来たのをみて、何よりまず、驚きました。
 その驚きの内容、一度観てまず「へえ!凄い!」となったのは、次の三つの点です。

(1)必要であるべき「間」を十分に取る余裕なんてない。それなのに、確かにその場面に見える。凄い!
(2)「広い劇場で、複雑な心理を扱う現代小説『スキップ』(以下、区別のため、原作を『スキップ』、劇を『SKIP』、真理子に起こったあの現象を《スキップ》と表記します)を演じる。特に、真理子の感情の微妙な動きをどう表現するのか?」その課題に二つの工夫で応えた。凄い!
(3)『スキップ』は「ファンタジー」ではなく、「誰にでもあること」を描いた話。それを劇でうまく表現した。凄い! 
  
 まず、これらだけでも、その後何度か観たい、いえ、観るんだと決めました。
 各日の見方を今振り返るなら、一度目は全体を、二度目は一階最後方(当日券)だったので、気になった部分はオペラグラスで、三度目は場面場面で気になる数人の係わり合いや、それまでの疑問点に注目して観ることになったと感じます。

 各回の印象の違いを言えば、坂口理恵さん、岡内美喜子さん演じる二人の真理子、實川貴美子さん演じる美也子は、三回目が断然良く思えました。
 特に、「スキップ」直後の真理子・美也子のやり取り、三年一組でのはじめの顔合わせで香川への「お帰りなさい」、「……そんなにひどいなんて、最初から思っちゃいないわよ。ねえ!」と、見つめ合う二人の真理子。
 ---16日の回、特に前半、客席の笑いの導火線は一部、ひどく変なところにありました。でも、それは決して、二人の真理子や美也子さんが、11日や14日に比べて悪かったせいなどではない、そう断言したくなります。客席の「笑い」の感覚というのが、何かおかしくなることもある---例えば、八月歌舞伎座勘九郎の「四谷怪談」の髪梳きの場面でさえも、観客席からは出るべきではない種類の笑いが出たりもしていました。そういうことなんだと思います。


 一方、ニコリと、岩村・尾白先生を演じた西川さんのギャグは、14日の演技が、ずば抜けて印象的でした。
 前田綾さんの演じたニコリは、まさにニコリに見えました。作中では笑顔からついた渾名でしたが、『SKIP』では、何よりその声。
 《わたしが残ります》というのは、作中でも劇でも、友人の口から語られる、まさにニコリ---島原百合香という、《純潔》というよく知られた花言葉を名前に持つ女の子---に相応しい台詞です。そして、前田綾さんのニコリは、自然と観る人の脳裏にその言葉を響かせ、その時の姿を思い浮かばせる名演技でした。そのニコリの見せ場となる場面の幾つかでは、パッと舞台に人型の光源がひとつ置かれたようで、忘れられない印象が残っています。
 西川浩幸さん演じる岩村(一部尾白先生)の、原作にないギャグの数々。その度、わずか一つの台詞と動きで、「場」の存在感、エネルギーが増す様に笑いながら、ほとんど感動させられました。
 それは、その場にリアリティーが生じる、というのとも違います。…はっきりいって、高校生姿が一番似合っていないのは西川さんの岩村で、普通に居るとそれだけで違和感がありますし。ただ、そのギャグから起きる「場」の流れが、そこに現実に抗して立つだけの力を生み出している、そんな風に思えました。 


 ---さて、この感想では、最初に観てまず感じた三つの「凄い!」---それらは即ち、舞台全体の感想でもあります---を書き、次に、三回見た後での感想として、特に好きになった場面・興味を惹かれたを、そして、それらの後で、「読者の数だけ作品の読みはある」ということで、幾つか感じた「あれ?」「自分の思っている『スキップ』と違う!」という勝手な疑問や違和感を書かせて頂きたいと思います。


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「三つの凄い!」
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(1)「間」と場面

 『スキップ』は劇の原作としては極めて長い小説。その台詞を地の文まで含めてできるだけ活かす。そして、持ち前のスピード感のある舞台を実現する。そのために、劇では台詞、台詞、台詞とほとんど途切れなく言葉が続きます。
 でも、『スキップ』の中では、のべつまくなしに言葉が続いてくるわけではない。言葉と言葉の合間に、ちょっと考える、じっと考え込む、もっと大きいのになると美也子さんが間を取るために紅茶を淹れる、真理子がカレーをゆっくりと食べ終える…。
 そして当然、それを削ってしまえば場面が場面として成り立たない----その筈なんですが、それらの多くが、どうしても、確かに「その場面」に見え、感じられる。不思議です。信じられない魔法をみせられたようです。

 これを実現させたのは、もう、何より、作品への愛情であり、こだわりだと思えました。これだけの分量のテキストを、劇として立ち上げつつ、それを損なわないように削って削って削り抜く。一度覚えた台詞を入れ直し、演出も付け直していく…。
 それは、ただ間尺にあわせるだけでも気の遠くなるような作業を、熱意と敬意を込めて繰り返し繰り返し、公演中の今もやり続けている結果でしかありえません。

 細かい個々の場面がどうこうというより、まず、眼前で演じられている『SKIP』は、確かにあの『スキップ』だ、と思わされる。そのことに何より、驚かされ、引き込まれました。
 
(2)広い劇場での、主人公の複雑な心理の表現

 広い劇場でも客席に届くよう、どうしてもある種の誇張が入る演技・声で、複雑な現代小説を描き切る。真理子を舞台で描く。そこで、「二人の真理子」と「地の文の語り」という手法でそれを補うのは、見事な工夫だと思いました。

 まず、「二人の真理子」。大きくわけて、三つの効果を備えた手法だと思います。

 その第一のの効果は、主に真理子42が内面を抑えて語るときの、真理子17による心理の活写です。
 真理子は特に辛いとき、普通だったら他人に当たったり、投げ出して自棄になりたいような時には畏いくらいに抑え、「わたしの指揮官はわたし」と見事に行動します。
 それは、あまりに抑えられ、うまくその内面の嵐が伝わらなければ、不気味ですらあるかもしれません。特に、原作に触れておらず、真理子という人物に劇場で初めて会う人にとってはなおさらです。それを、傍らの真理子17が内なる想いをはっきり表情と仕草で示し、観客に伝える。特に新田の告白の場面、そして終幕の場面では、その効果は見応えがあったと思います。

 第二の効果は、負担の分散。
 一人の役者の長台詞が続くのは、まず、演じる人がつらい。また、見る側も辛い…ことがあります。
 それを、二人に分けるだけでなく、「この場面はどちらの真理子が喋るのか」という興味も持たせる。
 役者・観客、双方にとって、休憩なしの二時間通しの劇のため、優れた工夫に思えました。

 最後に、第三の効果は、スピーディーな展開の実現。
 場面が切り替わるとき、一人の真理子が前の場面を演じ終えようとするとき、もう一人の真理子が次の場面にスムーズにつなぐ態勢に入っている場面が幾つかあり、スピード感のある舞台を実現に大きな貢献をしていると思います。

 「二人の真理子」に並ぶ大きな工夫は、地の文も役者がナレーションとして口にすること。
 主に真理子の心理や分析・洞察を劇の上でもそうして出してくることで、心理描写の大きな部分をそれに任せていたと思います。
 これについては、「そうした手法は、演劇的手法としてレベルが低いのではないか。微妙な感情をも、言葉に頼りすぎることなく表現して見せてこそ、舞台にする意味があるのではないか」という考え方もあるでしょうし、実際、今回の公演ではそうした批判も多いと聞きます。しかし、少なくともこの公演では、次の項で書く通り、このナレーションには、明確な別の目的もあるのであり、それを考えれば、これは実に納得のいく手法なのではないか、と思うのです。
 また、北村先生の文章、北村先生の作品世界をできるだけ忠実に舞台に再現したい、そのためにはその描写を体の演技や演出でなく、その言葉をもって為したいという思いも、強くあるに違いなく、それに強く共感します。


(3)『スキップ』は「ファンタジー」ではなく、「誰にでもあること」を描いた話。それをどう示すか。

 北村先生が事あるごとに何度も言明されている通り、『スキップ』は「ファンタジー」ではなく、「誰にでもあること」を描いた作品。
 これほど何度も語られるのは、それがこの物語の核心であるから。そして、残念ながら、しばしば『スキップ』が「そういう物語」としては受け取られないのだ、ということの証左でもあります。だからこそ、その作品を劇として表現するとき、それをなんとか示したいと思うのは、とてもよくわかる想いです。
 そして、『SKIP』におけるナレーションは、何より、その手段として活きているのではないかと思いました。

 冒頭で示された通り、劇全体を、未来のどこかの高校における国語の授業、そこでの朗読によって生徒たちの脳裏に描かれる『スキップ』の世界として、ある種の入れ子構造の劇中劇として演じるという構成。
 その設定の下、地の文の語りはしばしば、17歳と42歳の二人の真理子役以外の幾人もの人間によって読まれることになる。
 そうして、真理子の想いは、様々な人によって、心を込めて読み語られます。まるで、自分自身のことのように。まるで、自分自身が真理子になったように。

 やや飛躍しますが、それはこの物語が一ノ瀬(桜木)真理子という、「特別に強い心をもった女性の現代のお伽ばなし」ではないということを示しているのだと思いました。
 無常な時の流れの中で《地団駄を踏みたいような思い》をしつつ、《失って二度と還らぬもの》や、遂に《求めて得られぬもの》があることを知り、受け止めつつ、《余儀ない》ことを経験しつつ、《それでも》「だが、私には今がある」と前を向くとき。少なくとも《その時》には、その人は真理子と同じ《スキップ》の足取りをしている。
 『SKIP』をそういう劇として、真理子をそういう主人公として舞台の上に描きたい。願わくば、原作よりも更に、真理子の物語が、観る人それぞれの物語でもあると感じられるように---そういう思いが、この手法には込められてはいないだろうか、と思います。


 以上、まず、「三つの凄い!」についてでした。


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好きな場面、興味を惹かれた場面
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(1)<スキップ>後の真理子と美也子のやり取り

 まず、2時間にわたる舞台を支えたのは、何よりもまず、二人の真理子の熱演であったと思います。
 特に面白く観た場面は、<スキップ>後の真理子と美也子のやりとりです。
 ここでは、それぞれの心が何段階にも複雑に目まぐるしく動きます。そこがどう表現されるのか、実際に人が熱演するのは、自分の頭で想像するだけとは大きく違う刺激もありました。
  ---かなり長くなりますが、こんな風に観ていた、というのを書きます。


 第一章一節。
 真理子の、どこともわからない場所に迷い込んだ不安。それが、「ふざけてるの---お母さん」という言葉で混乱に変わります。
 美也子の一言には、二年以上の「口を利かない」くらいの親娘のすれ違いから、やや冷たく厳しい響きもあるのだろうか。おそらく、それが一層真理子の心を乱す。

 第一章二節。
 ここでは、美也子の心の動きが興味深い。混乱しながらの、(落ち着かなきゃ)(落ち着かせなきゃ)という焦りと努力。そしておそらく、(ひょっとして、親娘のヨリを戻すための狂言…じゃないよね?)という疑惑と、(本当におかしくなっちゃったのなら…ひょっとしてわたしのせい?)という思いも。

 紅茶を淹れて時間稼ぎ。変わらぬ状況。紅茶の銘柄を聞かれたことをきっかけに、「堰を切ったように」、《私のお母さん》である間接証拠---私はこんなにあなたを知っている---を突きつける。その心情もたぶん大きくわけて三つの気持ちの混合。(しっかりしてよ!)という心配、(わたしのせいで変にならないで!)という罪の意識、(嘘だったら、これで言い逃れできないでしょう!?)という怒りに近い気持ち。

 それでも事態は進まず、ここで混乱は苛立ちの色が濃くなる。しかし、それでも投げ出して、相手に下駄を預けるようなことはしない。「ねえ、本当にふざけてるんじゃないの?」と口をついた後、再び新たな糸口を探し、より核心に近い証拠をつきつける---こうした意志の持ち方は、まさしく親譲り。
 ---この混乱は、そしてそれ以上に、この意志がどう演技として表現されるのか?

 第一章三節。
 双方にほぼ時を同じくして、当初の混乱から、(…これは、本当に記憶喪失だ)(…本当に、私はこの娘のお母さん…らしい。ということは)という認識が訪れる。

 遂に、証拠は言葉ではなく、自らの眼で観るものになる。そこで、真理子があり得ないと頭も心も逃げつつ、恐怖と一抹の希望をこめて、おずおずと自分の体を触る。
 ---ここで、初めて強い真理子の意志が顔を出す。真理子は、逃げない。ここで、それを支えるものとして、真理子は意地を選ぶ。前に人がいる。誰にも、みっともないところは見せはしない。

 そして、逃れがたい事実と、その度合いがはっきりする。
 そこで生まれたのは、「やり場のない憤り」「理不尽」への怒り。そして、怒りの暴走を意地と理性が抑え、残った理性と心はそれをぶつけるべき対象を探す。
 その間、美也子は(…これは、記憶喪失で決まりだな)とはっきり思うようになる。
 ---真理子の意志の発現と、それを支える要素の変化。それは、どう表現されるだろう?
 
 第一章四節。
 怒りの矛先を探して見つけたのは、「二十五年」という、十七歳の少女には想像も捉えようもない時間。三節と四節の間に、真理子の心はその中に憤りをぶつけるべき何かを探そうとし、見失い、それだけでなく、茫漠と広がった《時》という掴み所のない空白に直面する。
 自失の中、怒りも去るが、人に対してなら張れた意地も崩れてしまう。突然、経験した覚えも無く、ただ始めから失われていた《時》などというものに対してどう意地を見せるというのか。ただ、そこにはもはや逃れがたい《認識》だけがある。

 一方、美也子は自分の立ち位置をはっきり見出したように思う。
(お母さんは記憶喪失。でも、「こんなに落ち着いているんだから、大丈夫」。私とお父さんでしばらく支えていってあげないと---そして、たぶん、原因のかなりの部分は私のせいかもしれない)。責任感が生まれ、早速行動に移る。
 しかし、それはいわば、唯一残った《認識》への無礼な挑戦。それは、恐怖にも願望にも怒りにも、真理子が決して引き渡そうとしなかったもの。(---わたしは、わたしだ!)。興奮する真理子を、「ものの譬えとしたら、確かに、そういう、いい方も出来るわ」といさめようとする美也子。
 ---ここで、真理子は「心で地団駄を踏んだ」。

 この「地団駄を踏む」という言葉こそ、北村作品の最も重要なキーワードの一つに他なりません。
 北村作品の中で、この言葉は他に少なくとも二作品に登場します。その一つは、『スキップ』と対になる作品、『冬のオペラ』・表題作。もう一つは、全ての始まり、デビュー作「織部の霊」。いわば、存在の叫びとでもいうべきその思いがたまらず出てきたとき、それをどう受け止めてくれる人がいたか。そして、それを自分自身がどう引き受けていけたか。それが、『スキップ』を含めた三作品で、地団駄を踏みたいような思いを持った三人のその後の足跡とそのまま繋がります。
 一ノ瀬真理子という人間を、どれだけ説得力を持って観客に訴えかけられるか。
 その、最初の大関門は、間違いなくこの「地団駄を踏んだ」という心を、どれだけ表現できるかということにあると思います。「あり得ない、は、ある、に勝てる?」の下りは、それだけで心を強く打つ名言ですが、それだけにその言葉を支える心が、それまでの経過も含めてどれだけ表現できるかが、勝負となるはずです。
 (みっともないところはみせない)という他者を意識して引き出した意地よりも、突然の理不尽に対する怒りよりも強い、自分の内から湧き出す、かくあるべし、という存在の意志。 
 ここまでの複雑な心理の動きは、まず、ここで一つの結実をみます。


 …正直に言えば、特に一度目、二度目は、観ているとき、そして、観劇の後振り返って「自分の中にある真理子の姿」と比べるとき、いろいろと「違う!」と思ったところもありました。
 例えば、意地、怒り、理性、認識、そして存在の意志---自らの中のありったけの力を掘り起こした真理子の思いは、こんな状況の中ですら、かなりの外面的な平静さを保たせたと思いたい。美也子と話すときの調子と、内面の声の調子は、もっともっと違っている、そんな真理子の像が浮かびました。そして、それでこそ、第一章四節からの、奔しる想いが際立つだろう、と。また、「二人の真理子」という仕掛けは、そういう表現でこそ、より活きるようにも思えました。
 また、美也子の「---私も、高校二年よ」という台詞は、受ける言葉の重さに対して、あまりに間をおかず、軽く出されているように思えてしまいました。その間は、美也子だけでなく、観る人がその言葉をぐっと受け止めるためにも欲しかった、とも。

 ---でも、その他いくつもの点に関わらず、驚くべきことに、『SKIP』のその場面は最初にみたそのときから、確かに『スキップ』のその場面に見えたのです。それは、頭で描いた物語や人物の像よりも、舞台の上で頭だけでなく、体で、心で、その人物になりきった存在の方が遥かに強い。そういうことなのだ、と思わされました。
 何より、二人の真理子を中心に放射されるその力が、『SKIP』の魅力であると思います。

 そして、16日では、前の二回に比べ、ぐんと自然に、強弱の違い、吹き荒れる感情の種類の違いが伝わってくるように思えました。勿論、観る自分の中での変化や、座席の場所の良し悪しといった事情もあると思うのですが、それ以上に、その日の二人の真理子と美也子は、真理子であり、美也子であったように見えたのです。


(2)授業の風景

 例えば、二回目の授業、真理子が「どうしようかなあ」と板書していく場面。描かれていく文字と、それをガヤガヤと騒ぎつつ見守る生徒達。その活気は、その時だけでなく、後に『スキップ』を読み返した時にも賑やかに頁から立ち上ってくるようでした。
 …ただ、一つ文句を書くならば、「どうしようかなあ」は少し、「どうしようかなぁ」に近く書かれていることがあったように思えます。毎回少しずつ違って微妙ですが、ややそう見えました。「どうしようかなあ」と「どうしようかなぁ」は大きく違います。そこは、はっきりとして欲しいと感じました。

 また、分量の都合上、里見はやせ関連のエピソードは不遇な扱いを受けていますが、原作と違い、生徒達によって読み上げられる「好きな言葉」の中、「星」という言葉は一等輝いて響きました。
 

(3)場面と場面の間、原作の「あえて書かれていない」部分。

 北村作品では、特に節を分けられた部分の間に、あえて書かれず、読者の想像に任せられている部分があります。
 ---例えば、私が北村作品の数ある場面の中でも最も好きで、そうしてくれてありがたかった、それだからこそ、この作家が好きで好きでたまらない、という「書かれざる部分が、そのデビュー作「織部の霊」の中にあります。第一章、第八節と第九節の間。幼き日の加茂先生の「地団駄を踏みたいような思い」と、それがこの上ない形で受け止められたことが語られた場面。どんな言葉であっても、そこでは、その空白に優るものはありません。
 しかし、それを舞台の上で演ずる、となれば、そうした「書かれざる部分」をも演じてこそ、あるいはその「書かれざる」という重さを観客にぐっと受け止め、それぞれの想いを引き出してこそ、演出家であり、役者であるといえるのではないでしょうか。
 
 そういうわけで、『SKIP』では、「だから、わたしに期待しないで下さい。そのうちに今までの役が務められるようになるさ、と思わないで下さい」という台詞の後、桜木さんと美也子が真理子に一礼して離れていく場面などは、大変面白く思えました。

 また、「節操がなくなったら、人間おしまいよ」や、第三章第一節の終わりの「何でもない」という真理子への、美也子の反応なども、自然と興味を惹かれました(・・・ちなみに、16日は両場面ともはっきり感情の動きが演じられているのが見え、わかったのですが、14日には「何でもない」の後、何だか、さっさと次の場面へと歩き出してしまっていませんでしたか?)。

 
(4)ニコリ、岩村、尾白先生

 この感想の最初の方でも書きましたが(特に14日の演技)、大好きです。

 前田綾さんの演技からは、原作で今まで自分がイメージしていたよりも、ニコリ---島原百合香は実は、もっともっと、《若い》人間だったんだな、と思わされました。
 何よりも印象的だった、その真っ直ぐな《声》。多賀井の喧嘩の後での真理子との会話の中での、思わず苦笑してしまうような、でも、決して不愉快ではない青臭さ。原作にない、掃除のモップでふざけている場面・・・。
 いずれも、少しずつ、自分の想像の中のニコリより、もっと若々しいものでした。そして、《わたしが残ります》という言葉がよりよく似合うニコリでした。このニコリだけでも、この『SKIP』を観に来て良かったと思えます。

 なお、ニコリ絡みということで、もう一つ。
 ニコリに「先生の好きな言葉は何ですか」と問われ、「自尊心」と真理子が答える場面。最初に見たときに、ここでは違和感を覚えました。
 『SKIP』では、真理子は打てば響くように、すっと前をみて答えていました。
 ---ここでの真理子については、まずじっとわずかの間、その質問をしたニコリ一人を見た後で、すっと全員を相手に答える、というイメージが頭の中にあったのです。いい質問をした生徒に、優れた教師はそうして応えるはず、という。生徒にとって、そうして先生が自分を認めてくれるというのは、大きな喜びであるからです。
 ですが、16日に確認できたのですが、『SKIP』では、教室の全員に向かって答えた後---「島原さんはニコリと笑った」と原作にある場面で----二人は二人だけの視線の会話をしているんですね。勝手な取り越し苦労ですが、ああ、よかった、と思えました。

 次に、西川さんの岩村の演技。
 16日、他にそれほど強く注目したい人物がいないときはできるだけ観ていましたが、本当に、いろいろと細かくやっているんですね。授業の終わり寸前に必死に手を挙げているのに指してもらえないとか、「おいしい」のときのアドリブとか…。そうした一つ一つが、明らかに他の人より面白い。あらためて、いいなあ、と思わされました。
 あと、尾白先生は・・・・その、もう、完全に、完膚なきまでに別人にし倒してしまったんですね。この、原作への忠実さを基本とする『SKIP』で、創り手にも観客にもそれが許される---もう受け入れるしかない、楽しむしかない、としてしまうのは、ある意味岩村の演技以上に凄いと思います。


 以上、好きな場面、特に興味を惹かれた場面についてでした。




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ぐだぐだといちゃもん
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 …以下、すみませんがぐだぐだと疑問点と文句の羅列です。
 読む方は、勝手な『スキップ』のイメージを元にしたたわごととしてでも、聞き流してでも頂けると、幸いです---。
  
(1)桜木さんに関する重要場面二つでの反応の薄さ
(2)「好きな言葉」の授業と、ニコリのバレー出場の場面での柳井
(3)自称・新田からの電話の描写
(4)「ノラみたいに」
(5)「バレーの時のジョーク(14日)」


(1)桜木関連---二箇所

「坊主憎けりゃ---袈裟まで憎い」

 『SKIP』での、この一言とそれに続く場面----はっきりいって、嫌いです。「違う!」と思えました。

 まず、美也子の心の動き。
 美也子は、十七年の時を、桜木さんと過ごしています。だから、桜木さんが、自分の父親がどんな人間であるか、よく知っている。
 ならば、「視線の三すくみ」の時点で、もう、ある種の信頼と期待をもって、父を見ているのではないでしょうか。そして、見事にその想いに応える言葉を聞いて、「喉を撫でられた子猫のような穏やかな顔」になり、「うっすらと微笑みを浮かべ、「坊主憎けりゃ---袈裟まで憎い」と口にするのです。
 ---それが、これはもう偏見、いいがかり、まさにいちゃもんかもしれませんが、『SKIP』の美也子は、「視線の三すくみ」の時点では、父親に(ちゃんとこの人の気持ちわかってる?お父さん----)と疑問の方が強いように、そしてその後の父の言葉を聞いて(うわ---やるじゃん!)と思い、そこで(いい言葉、思いついちゃった!)と喜びを顔に漲らせて、「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い!」と言っているように感じました。
 
 次に、その言葉の後の反応。
 この言葉は、今まで、「敵は」と、とことん真理子の側についていた美也子が、桜木さんの方の気持ちも代弁したものです---「実にいい顔をして」、父親に対する愛情をいっぱいに湛えつつ。そして、それはやはり激しく混乱しているであろう、桜木さんの心をこれしかない、という上手さで説明している台詞でもあります。
 この言葉を軸に----すぐ後の「もう戻れない」という真理子の宣言があるように、一気に、とはいかないけれど----三人の関係は、ぐっと動いていく。それが、「三すくみがほどけ、視線が混じり合った。わたしも笑え、桜木さんも苦笑した」と描かれる。そして、第三章三節と四節の空白には、たとえ時間的にはそれほど長くなくとも、心の動きとしては決して小さくない大きさの動きがある。
 ---そこで、これまたいちゃもんですが、『SKIP』でのその場面は、そんな「場」の動きを表現し、また、それを観客が受け止めるには、どうしても薄すぎると思えたのです。この場面、桜木さんはまるで単なる照れ隠しをするように、さっさと次の台詞に移っていってしまったように思えました。なんというか、それは桜木真理子が、一ノ瀬真理子が選んだ男性としては、あまりにもあまりにも軽すぎはしないでしょうか?
 更に言えば、第三節のこの場面の前の桜木さんと美也子のやり取りの場面でも、彼にはあまりに余裕がないように思えました。桜木さんは、<娘に対しては俺、真理子に対しては僕>なんです。娘の言葉を決して軽くは扱わないのは勿論ですが、それに余裕をもって対処できない器ではない。そして、そういう父娘関係でもない。

 ---はっきりいえば、こう思います。『SKIP』の桜木さんは、『スキップ』の桜木さんに比べ、10年以上はケツが青い!!
 その感想は、第四章七節の次の台詞の場面で更に強まります。


「そうだよね、自分が《好き》だったら、そういえる筈だよね」

 ここも、驚くほどさらっと口に出されたように思えました。
 この前の真理子の発言は、凄いものです。普通の人は、そうは思わない---思えない。だからこそ、数多くのタイムトラベルの話が描かれてきた。だからこそ、『スキップ』は数多くの読者にとって、特別な作品となっている。その凄さを、まず、観ている側としてひと時じっと受け止める時間が欲しい。
 桜木さんの心の動きとしても、この場面は大きい。「坊主憎けりゃ---」で「受け入れたい」と思った相手。ただ、彼としても、《どう受け入れていくか》ということには、迷いがあったはずです。<わたしはわたし>と宣言する「一ノ瀬真理子」は、その意志で、彼が馴染んでいる「桜木真理子」を段々と否定し、消していってしまうようにも思えたかもしれません
 しかし、ここで、その「一ノ瀬真理子」は、「桜木真理子」を愛している、といってくれた。正に、かって彼が知っていた「一ノ瀬真理子」「桜木真理子」しか持ち得ないまっすぐさで。
 ---ここで、彼の気持ちは事実上、決まったと思います。「一ノ瀬真理子」の力になる。自分の力の限り。それは、「桜木真理子」にとっても、決して悪いことになど、なりはしない。
 だからこそ、続く「参謀になってくれませんか」という頼みに、「悩めるかつての桜木真理子、一ノ瀬真理子の「体」の夫」ではなく、いたずらっぽい「少年のような光」を眼に宿らせることが出来た。

 ここの場面の演技は、どうしても納得できない箇所です。
 もう、これでは、『SKIP』の桜木さんは、『スキップ』の桜木さんとは、およそ別人でしかありえません。
 「二人の真理子」の場合と違い、ここは、舞台が発する力があっても、三回観て、全ての回でどうしてもそう思えてしまったところでした。
 ---それと、今となってはやや曖昧なのですが、14日の回、真理子の重要な台詞「参謀になってください」とその周辺の幾つかのやり取りが飛ばされていませんでしたか?(「違う!」と思うあまりの記憶の書き換えかもしれません・・・。)


(2)「好きな言葉」の授業と、ニコリのバレー出場の場面での柳井

 第6章12節。
 柳井が「細い目をこちらに向けて」、「「……そこで言葉ができてなかったら」」と言う場面。
 ここも違和感があった場面です。 『SKIP』では、柳井はピッと手を挙げて、やや勢いよくその台詞を言います。

 ---ここもまた、いちゃもんですが、その言葉は、<先生、こんなこと考えたんですけど、どうですか!>というイメージに近い感じに聞こえました。
 もし、そうならば、それは「違う!」と言いたくなります。二年間、病院に出たり入ったりの母親を持つ彼女は、その言葉を口にするとき、手を挙げなどしなかったと思えます。そして、言葉の前の「……」からも、自ずとそこに込められた思いがにじみ出てくる筈です。仮に、そういう彼女だからこそ、それにめげないように普通よりも明るく振舞う子になっているのだ、とキャラクターを捉えるとしても、その明るさはこの場面では出てくるべきものではないでしょう。
 

 次に、ニコリがバレーに出場する、と宣言する場面、そして、バレーに負けたときの場面。
 あまり、柳井のニコリに向ける思いが伝わってこないように思えました。

 柳井はバレーの時、ただ、勝負に負けたくないだけではありません。ニコリは自分を弁護したのがきっかけで、部の先輩からいじめにあい、退部した。ならば、彼女は自分よりもまず、ニコリのために、勝ちたい筈です。
 そして、それだけではないかもしれません。当時、ずば抜けた力を持ったニコリ。そして、バレーを心から愛していて、そのまっすぐな気性でその思いは誰にでも明らかだったであろうニコリ。その彼女が、「まともにバレーをやらせてもらえなかった」。そして、二年という月日がたった。やりたくてもやりたくても、できない。それは、病に苦しむ母の姿と重なったかもしれないのです。
 ----柳井の母も、自分を苛む病よりもなお苦しいのは、自分のことで娘がつらい思いをすることではないでしょうか。娘にそんな思いをさせたくない、この体さえ丈夫なら----その苦悶は、幾ら隠しても、柳井に伝わらなかったわけがない。種類こそ違え、血を吐くような思いで望むことが、叶えることができない。その苦しみへの共感は、ニコリへの申し訳なさと同じくらい強く、二年前の彼女の心にあったのではないでしょうか。
 更にいえば、そんな中でも、島原百合香は二年後、彼女に接した真理子が「ニコリ」と渾名したくなるほど、その凛冽さを保ち続けた。どんなに雨に打たれても、萎れることのない百合。その姿はそれからの二年間、柳井さんをどんなに救い、勇気づけたことか、想像に難くありません。
 そして、その島原百合香が今、再びコートに立つという。しかも、その姿は、決して悲壮などというものではありません。「やってやろうじゃないの」という凛然たる、気合に満ちたニコリ。それをみて、柳井が奮い立たないわけがありません。
 柳井というキャラクターは、本文には直接には書かれない思いが詰った存在だと思うのです。

 ---そもそも、北村作品の中で、また、北村薫という作家の中で、「介護」ということは、余人が表現しようのない重さを持った話題です。そして、ある程度以上の北村ファンなら、それを多かれ少なかれ、知っている筈でもあります。
 「地団駄を踏みたいような思い」と同じく、『スキップ』と対になる作品『冬のオペラ』にも、その話題は----『スキップ』以上に重く---顔を出し、『盤上の敵』でも(夫婦の間の介護と形を変えてですが)、描かれる。教師・宮本和男が作家・北村薫となっていく過程を思うとき、決してはずして考えることができない問題。

 ---簡単にはまとめられませんし、まとめたくない話題ですので、これ以上は触れませんが、とにかく、その問題に関わる存在である以上、柳井というのは、特にただ単に一つの作品を演じるのみならず、作者・北村薫の思いをも汲もうとするならば、途轍もなく重い役柄だと思います。その演技としては、どうしても不満が残りました。


(3)自称・新田からの電話

 ここで、声だけでなく電話の向こう側の相手も舞台にいて、また、その相手が一人(周りに囃し立てるような仲間がいない)だったことには、ちょっと首を傾げました。
 この場面で、観客にもう、これが悪戯だと一目でわかってしまわせるのは、何故か---続いて登場する新田との兼ね合いでしょうか?
 
 それと、もう一つ気になったのは、真理子42が電話をしている間の、真理子17の表情です。
 舞台中央に両肘をついて座って、ムッとしたような顔をしている。それは、電話に慌てる真理子の気持ちから離れ、次の場面での美也子への詰問の場面の心情をあまりにも早く先取りしてしまっているようにも見えました。
 幾つか、特に真理子17の演技では、そうしたフライングが見られたように思えます。それは、スピーディな展開という要請への過剰適応に思えました。


(4)「ノラみたいに」
 
 これは当然、『人形の家』のノラを指すわけです。
 これが、『スキップ』だと「ノラ」はカタカナで、また、「ただし、自立のためじゃあない」と文章が続く(『SKIP』ではカット)ので、それがはっきりしているわけですが、『SKIP』ではことによると(特に原作を知らない人には、「野良」のようにも聞こえないでしょうか。
 なんといっても演劇公演なので、あまり心配ないかといえば、そうもいえるんですが、真理子がこんな場面で、自然にそうした連想が出て来る人間だ、というのは結構目立つ人物描写だということもあり、後の不良の車のシーンで「車が汚れるだろう!」とか「血がつくじゃねぇか!」と説明を足したように、「『人形の家』のノラみたいに」とあってもよかったのではないか、とも思いました。

(5)バレー時のジョー

 これは、14日、16日でそれぞれ少し違った言い方であったように思います。
 バレー決勝でニコリだけが狙われ、クラスのチームワークに亀裂が走ってきた場面でのことです。

 桂枝雀が「笑いは緊張と緩和」と繰り返したとおり、緊張が痛いほど張り詰めるこの場面は、笑いを取るには実に都合のいい場面だとは思います。でも、ここは断じて、緊張を緩和させる場所ではないように思えます。
 ニコリの思い。柳井の思い。それが観客をぐっと捉える中、チームに入れられた亀裂が、じわじわと広がってくるスリル。
 ここになぜ、一体どうして、笑いが必要なのか?

 塩が時に甘みを引き立てるように、シリアスな話にうまく組み合わされた笑いは、物語を更に優れたものにします。
 しかし、こんなところに糞面白くもない笑いを無理に押し込まれる意味は、どうしても理解できまんでした。
 
 ・・・以上、ぐだぐだと文句でした。


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最後に---
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 最後に---。
 いろいろと書いてきましたが、『スキップ』がここまで原作の心を生かして、しかも二時間という制約をつけた上で舞台にできるなんて、想像もできませんでした。
 ここまで、あえてその一言を書きませんでしたが、それを創り上げた人達を、何より、妬ましいくらいに羨ましく思います。
 この後も、25日にもう一度、公演を観に行く予定です。