「さん喬を聴く会」〜さん喬「うどん屋」「お神酒徳利」

深川江戸資料館の「さん喬を聴く会」に行く。三回連続三回目。
この二年間、小三治とさん喬の寄席定席・主任興行や独演会などによく行く。
一年あたり、小三治20席、さん喬30席程度か??

さん喬「うどん屋」「御神酒徳利」。
ごく普通の出来。ただ、両方一時間以上(?)とやたらと長い。
前回、「柳田格之進」の神業的な出来栄えと比べると寂しいが、毎回あんな高座が出来たら大名人だ。

世界が一対一になるさん喬、土間口からやり取りを眺める小三治、自在の円生

聴くたびに思うが、さん喬の高座は、世界が一対一の空間になる。例えば、酔っ払いがうどん屋に絡むとき、見る側はうどん屋と一体化してくだを巻く酔漢に対することになる。世界が緊密で濃く、距離が近い。他の噺家だと、例えば小三治は、八五郎と大家が家の中で繰り広げるやり取りを、土間口から眺めているような構図の世界になる。若手(?)でいえば三太楼は、大画面のテレビの中でのコミカルな掛け合いを観ていたら、突然画面の人物と眼があったり、ぬっと顔や手が画面の外に突き出てくることがある、といった具合。録音やビデオで聴く円生は時に応じ、場に応じ自在で、その芸の幅も名人か、と思う。

さん喬の話題に戻る。
その特長は、"今"とかけ離れた落語的空想の"江戸時代"を、小利口な近代的解釈を凝らさず真正面から描き出し、緊密な空間の迫力で問答無用に観客を取り込んでしまうときに強烈に発揮される。「柳田格之進」「井戸の茶碗」がその好例。背筋がすっと伸びたかたちの良さと、隅々まで響く張りのある声が、それを実現する強力な武器になる。その特質上、武士の意地とか名奉行のお裁きといった、"今"の世間と噺で描かれる世界に相当距離が離れていた方が、その個性が活きると思う。「鰍沢」のような極限状況もいい。
その点、「うどん屋」「御神酒徳利」という噺で描かれる心情は、結構普通に引っかかりなく現代人の心に届いてしまう。そこにイマイチ印象が薄い要因の一つがあるのかとも思う。

紙切りの正楽、大サービスの"紙芝居"!

また、ゲストの紙切りの正楽が大奮発。いつも通りにリクエストに答えた後、一大紙芝居を見せてくれた。「川の流れのように」のBGMに乗って、町娘や侍が乗る小船がそれぞれ行過ぎたと思ったら、トルネード投法の姿の野茂、右手を左肩に、左手のバットはスタンドを指す独特の予備動作をするイチロー、バットを握った怪獣GOZZIRAが行き過ぎ大爆笑を誘う。その後に正座し扇子を持ったさん喬師匠の影が現れ拍手喝采、その醒めやらない中、広げた両手に鋏と紙を掴んではしゃぐ正楽で締め。馬鹿馬鹿しくも見事な芸にただただ愉しく笑う。
また、いつでもどこでも、紙切りの合間の小咄はほとんど一言一句同じものがあるが、膝替わりでの出演が多い正楽は、その反応で客層をトリの噺家へと伝えているのではないかと考えたりする。比較的、普段から落語に親しむ機会が多そうな客層のこの会でも、1,2割程度は初めて正楽の小咄を聴いたという感じの反応。そういうものなのだろうか。