『プロデューサーズ』〜あの愉しさが、再び。

豪華で楽しい!「あの黄金時代のブロードウェイミュージカルの愉しさが再び帰ってきた!」という評判もなるほど、と思う。

黄金時代のミュージカル映画と『プロデューサーズ』〜あえていえば、作詞が弱い???

ただ、全ナンバーの作詞・作曲も製作・脚本も務め、1968年のオリジナル映画の監督・脚本も担当していたメル・ブルックスの手になるものだけど、歌詞の響き、韻の踏み方のうまさにちょっと物足りなさがあるかもしれない。「ゲイ!ゲイ!ゲイ!」の連呼が愉しい「Keep It Gay」が『雨に唄えば』の名曲「Make' Em Laugh」を思わせたりするのでなおさら寂しい感じもする(後に同じく『雨に唄えば』の「Broadway Ballet」の"Got a dance!Got a dance! Got a dance!!"の下りを思わせる部分も出てきたりしたので、その他にも過去の名作へのオマージュも多々含まれているのかも。"カバーガール"へのオマージュだろうと思われる曲もあったし、一種の内幕ものとしては『バンド・ワゴン』の系譜にも連なるのかもしれない。後は群舞でハーケンクロイツを見せるバークリーショットのところとか。もっとミュージカルに詳しい人なら自明のことなのだろうけど…。『プロデューサーズ』だって、舞台も過去の映画化も観たことないからなぁ…)。

ネオナチもどきとゲイのおっさんが笑いの電撃作戦でスクリーンを制圧

作中でも特に面白いのは、順に、ウィル・フェレル演じるユーモラスな"なんちゃってネオナチ"おじさんの初登場場面、続いてひたすら愉快な「Keep It Gay」、そして劇中劇「Springtime for Hitler」---歌と踊りの純粋な愉しさだと、ゲイリー・ビーチのこのナンバーが他を圧する面白さ。
……ちなみに、こう並べてもわかるように、主役二人にもブロードウェイのオリジナル・プロダクションと同じ最高の実力派キャストが配されたというのだけれど、脇役のウィル・フェレルとゲイリー・ビーチがそれぞれ躁病的な勢いと見事な技術という対称的なやり方で、見事に映画を乗っ取ってしまっていた。ネオナチもどきとゲイが手を組んでのクーデターか…。ちなみにスウェーデンから来た"セクシー・ダイナマイト"---要するにマリリン・モンロー---を演じたユマ・サーマンも、何とも素敵な衣装と、叶姉妹も裸足で逃げ出す、圧倒的な物量で勝負な重爆級の肢体が際立ったけれど、彼女のナンバー"When You Got It, Flaunt It"の場面ではちょっと客席の笑いが止まってしまったので(特に我々男共はその場面では口より眼の方を働かせたかったんだということはあるにせよ)、そこでも笑いが起きるような演技だと更にいい役になったんだろうなと思う。
ともあれ、全篇に亘って様々なもの(まずユダヤ人を中心にした多少ブラックな民族ジョーク、あとフェミニズムとかかな?)をからかうようなポーズを取りつつも、そんなものはどうでもよくなる愉しさに溢れ、客席から笑いの絶えなかった良作だ。

小道具としての英米文学な常識

ただ、英米圏ではともかく、日本での一般受けだとどうかな。よくあることだが、日本人にとっての夏目漱石芥川竜之介の如く、教科書なんかでもおなじみで「たとえまともに読んだことはなくても当然どんなものかは知っているよね」という固有名詞が多くコメディの小道具になっているので。
野暮と鬱陶しさと嫌味と「その程度のことごちゃごちゃ書くなよ」ということを承知で幾つか挙げると、例えば冒頭の場面、コメディミュージカル『ハムレット』の大失敗にしょげかえるネイサン・レイン演じるプロデューサー、マックス。そのオフィスの壁に貼られたのは、百面相みたいな顔をした中年役者の顔が大映しになった『King Lear』というポスターだ。つまり、同じく喜劇仕立ての『リア王』が直前の悲惨な失敗作なのに違いない。正にこれ以上ない最高レベルに到達したマックスの駄目っぷりを示して余りある小道具だ。
続いて登場する、マシュー・ブレデリック演じる弱気な会計士。ヒステリー症状を連発する彼にマックスがいったのが「そこのムイシュキン公爵、しっかりしてくれ」(字幕もちゃんと固有名詞で、「そこのデクノボウ」とか「間抜け野郎」とかにされていないのがありがたい)。実にブロードウェーの業界人らしい台詞。
「Keep It Gay」も「Gay」の語源を知っていないと多少わかりにくそうだし、『オセロ』だろうとハッピーエンド、イプセンストリンドベリーなんざ蹴っ飛ばせ、という歌詞のニュアンスも出てくる固有名詞を知っていると知っていないとでは随分違うだろう。


質の高い笑いというのはつくづく、背景の文化を共有していることを要求するものなんだなあ、と当たり前のことを改めて思う。そしてそれは何故かというと、こうして共通の背景を元に「皆が知っている名作」とかをダシにする分には誰も深刻に嘲笑うことになどならず(その対象が揺ぎ無い価値を持つことは自明のことだから)、笑いが濁らないからだろう。今の日本の使い捨て芸人連中の"お笑い"と称する代物がなぜ濁り切っているかも、その辺りに理由があるんだろうな。

笑いのためのコスト

結論。いい笑いを楽しむには、必要なコストがある。そのコストを支払わずに文句ばかりいう連中には呪いあれ。
……散々脱線した割には実につまらない結論だ。まったく愉しくない。大体、自分はなんでわざわざ勝手に怒ってるんだ。『キング・コング』みたいにまた優れた作品が不入りになる予感がして先回りして嫌になったからだろうか?……まあ、どうでもいいか。