亀戸・蕎麦『東庵』そばきり寄席〜柳家三太楼師匠に厚かましく色々なお話を伺う…。


亀戸・蕎麦『東庵』そばきり寄席に行く。
江戸賀あい子というミュージシャンの方の演奏を挟んで、柳家三太楼二席。『初天神』と『紺屋高尾』。


終演後、蕎麦を頂く打ち上げの席で、三太楼師匠にいろいろとお話を伺う機会を得る。
……プロの、しかも相当好きな落語家に直接話をするなど初めての経験だったので、舞い上がって、今振り返ると余りにしつこくいろいろなことを聞きすぎたり、ド素人のアホな感想や意見をぐだぐだ喋りすぎてしまったと思う…。大体、こんな貴重な機会なんだから、相手9:自分1くらいでともかく相手の話を聴くべきだろう。相手6:自分4くらいの割合で愚にもつかないことを言い散らしてどうする。馬鹿か、自分……。今更ながら、余りの社交スキルの低さに自己嫌悪。また、そんな性質の悪い客に根気良く付き合って色々答えてくれた三太楼師匠にひたすら感謝したい。


記念に、伺った話の幾つかを書いてみる。
会場や客層、客の数に応じた噺の選択や、同じ噺でも語り方の工夫を必ずするという話------特に円歌師匠の『中沢家の人々』の語り口の変化が自在ですばらしい、とのこと。鈴本などでやる場合と大会場での独演会で数千人を相手にする場合、客席の盛り上がりがいい場合と悪い場合、釣り師の如く見事に客を手玉に取るという(ちなみに、私はまだ鈴本の主任興行とCDでしか聞いたことが無い。また、このことでは池袋で「反対車」か何かをめいいっぱいやって、権太楼師匠に「馬鹿かお前は」と叱られた、とういう失敗談も伺った。
更に、「常設の寄席がなく、常に大勢の客を前にいつもトリや仲トリで演った枝雀師匠は大変だったろう、志ん朝師匠でも(晩年をのぞいては)寄席の軽い出番で演る時は、客が少ないときもあったんだから。ただ、もちろん、少ない客には少ない客向けなりの、惹きつけ盛り上げる工夫はもちろん必要で、志ん朝師匠もいろいろやっていたけどね」というエピソードも興味深く聞いた。
「「崇徳院」は春ならではの噺だと思うから、自分は春にしかやらない」といったこだわりを聞くのは、そのこだわりをもって噺に取り組んでいる人が目の前で語ると、単に本で知識として読むよりずっと嬉しくなってしまう。
また、『井戸の茶碗』の演出を巡って、「ある師匠のように現代人の視点から茶化すような演じ方はどうにも違う」といい、「ああいう噺はディズニーランドのように楽しい夢として客に聴かせたい」という意見は、いかにもこの人らしいと思った。
初天神』では、子供を派手にやっても「嫌な子供」とは思わせたくなく、可愛らしさも出したいと思っているという、聞いて嬉しくなってしまう解説も聞くことができた。
サゲの良し悪しと、サゲのためにあるような噺と、サゲが「お話はこれで終わり」ということを示すに留まる噺がある、といった落語関係の本で読みなれた話題も、まさに現役の噺家に説明してもらうとおよそ印象の強さが違った。

……こうやって並べてみても、本当にあまりにしつこく聞きまくってしまったと今更ながらに思う。空気を読め、自分。。。
あと、他の師匠の話や落語の一般論もいいが、例えば「なんで三太楼師匠の『熊の皮』はあんなにも、例えようも無くおもしろいのか」といった、まさに本人にこそ聞きたい話題をなぜもっと中心にしなかったのか。『男はつらいよ』の名台詞ではないが、ほんと、「馬鹿だねぇ」…。


……ともあれ、落語は二席とも大変面白く、江戸賀あい子という人の歌も結構好きなタイプのもので嬉しかった。
まず、『初天神』。この演者の十八番のひとつだろう。三太楼『初天神』は、とにかく子供(金坊)がメインになり、「発狂しているみたい」などといわれるほど、派手に駄々をこねさせることで有名だが、実は毎回演じ方が結構違う。今回はおそらく三、四十分以上という長丁場だったが、とことん子供の駄々とそれにほとほと困り果てる父の二人の描写に焦点を当てる思い切りの良さが楽しかった。これだけ長くやって、サゲは団子屋。しかも、途中飴を買う場面もカット。蜜を舐めきった親が団子を子供に渡す場面でサゲず、それをみた子供が親を真似て蜜舐めから再塗装(!)までを繰り返すという、今まで見たことのない珍しい形。
長い持ち時間は、ひたすら金坊の駄々、たとえば「いい子にしてるだろう?だから……なあ、言わせないでくれよ。うぅん、わかってるよ、約束だもん。でも、あたし、なんであんな約束しちゃったんだろう」というあたりから、延々と続く愚痴がやがて反抗の決意(!)になっていく過程を声でも表情でも実に執拗に、コミカルかつ大げさに演じたりすることに費やされた。それが実に愉しい。
一方で、例えば小三治師匠のCD録音版にあるような「あの車に乗ってるのも親子だよね(中略)あっちは車にのって立派な親子だ。こっちはてくてく歩いてみじめな親子だ」(いい加減な記憶で書いているので後で修正予定)といった視点が他の人物に飛ぶような描写は極力抑えられ、ともかく子と親の二人のやりとりに世界が絞られる工夫がされていた。
また、そこまでしつこく描きながら、決して金坊がひたすら憎ったらしいクソ餓鬼ではなく、愛嬌もある子供になっていたのは、そもそも演者がもっている憎めないキャラクターと共に、「たかが団子じゃねぇかよぉ。いい子にしてたから車買ってくれ、なんていってるんじゃないやい。団子くらい買ってくれたって。団子、団子、団子ぉ・・・」といった部分、特に「車買ってくれ、なんていってるんじゃない」あたりが、いじらしさ、可愛らしさ、子供らしさを自然に観客に伝える工夫になっているからだろうなと思う。
また、団子屋の反応の描写も、他の演者に比べて淡白だったが、それは今回のサゲにちょっと無理がある(いくらなんでも普通、金坊は団子屋に止められるだろう)ことを目立たせない意図もあったのかもしれない。
(……ちなみに、ここで書いたことは大概、直接ご本人に伺ってはみたけれど、「ああ、なるほど、ほぉほぉ・・・」とはぐらかされてしまった。それはまあ、ド素人の勝手な解釈にそうそう真正面から付き合ってはいられないだろうなぁ。こちらはせいぜいまともに聴いて来たのさえ二、三年。向こうは聴いて学んで盗んで喋って教えて、入門から数えても二十年近く。むしろ、とにもかくにもよく聞いてもらえたと思う。今思い返してみると、よくあれだけゴチャゴチャ喋る気になれたもんだな……我ながらいい度胸だ。)

『紺屋高尾』も、聞かせるところは真剣に聞かせ、笑わせるところはこの人らしく爆笑の渦を巻き起こし、緩急を織り交ぜたいい一席だった。三太楼師匠には本当にご迷惑となってしまったと思うが、ともかく愉しい時間を過ごすことが出来た。ちなみに、蕎麦も大変おいしかった。店自体、蕎麦の美味しさで有名なところなのだとか。なるほど。

……まあ、だから、結局終電を逃し、山の手線圏内某所の仕事場に泊まりにいくのも面倒になり、都内某駅近くの漫画喫茶で深夜三時にこの文章を書いている状況になったのも、実に些細なことだ。うん。……がんばれ、自分。