北村薫を《読む》ことについて〜二月大歌舞伎の感想の流れから


……ちなみに、私が最も愛する作家・北村薫の作品世界は、正に受け継ぎ、広げていける形で、《そうして《大きなもの》を前にした《個人》がどのようにそれに挑み、何を為すことができるのか》を示してくれるものでもあると思う。大体、歌舞伎を観るようになったそもそもの理由も、北村薫の作品世界に歌舞伎が色濃く影を落としていたからだ。同じく北村薫をきっかけに、歌舞伎に対する以上の時間をかけ、よりよく知ろう、楽しもうとして来た分野としては、ミステリや落語、国内外の文学などの分野があるが、それらから得たものを繋げていく最良の触媒になってくれるのもまた、北村薫とその作品世界だ。


ただ、同じように北村作品に強い衝撃を受けた人間でも、加納朋子は出会って数年であの『ななつのこ』を生み出し、その後間もなく、独自の作品世界を切り拓いてみせた。それこそ、北村薫の読者として、あるべき理想的な姿だと思う。師に挑まないような弟子は、師にとっても弟子自身にとっても、二流以下の存在でしかない。『ななつのこ』は理想のファンレターでもあると共に、北村薫の作品世界の一面を構成する手法を学び取った上で、はっきりと北村作品に抗するものとして生み出された作品であり、その思いに相応しい力を備えた名作だ(そして、その意義を理解できない人でも、『魔法飛行』『ガラスの麒麟』の持つ固有の輝きを認めずにはいられないだろう。あれだけの作品に価値を認めないとすれば、それはもはや作り手の責任ではなく、単なる読み手の力不足だ)。


しかし、だからといってそれを形だけ真似ようとしても、全く意味がない。『ななつのこ』は、加納朋子という得難い個性が北村作品を愛し、愛すればこそどうしても譲れないと思うことがあり、その思いを溢れる敬意と共に作品化せずにはいられなかったものだろう。北村薫があるいは明確に示し、あるいは暗示する世界を探り続けても、ただただ好きにならずにはいられないという自分にとって------少なくとも今までは------その道は見えて来ない。それが見出せない、あるいは見出せそうな進路を避けようとすることこそ------例えば、「どうしても北村薫のようには好きになれない作品(ミステリならば『黒死館殺人事件』、文学なら横光利一『寝園』など)をとことん検討してみる」ということを、「「北村薫が心から愛するものであるのに、自分には到底《許せない》作品」ならばともかく、「好きになれない」程度のズレを検討するのはイマイチ関心が持てない」という理由で真剣にやろうとしないことなど------、《才能の乏しさ》というものなのかもしれない。だが、それにしたって、自分には自分の才能しかない。これまでも続けてきて、これからも続けていこうとしている方法で、まだしばらく、頑張ってみようと思う。

……何より、今はそれが楽しい。