鈴本演芸場二月中席夜の部〜さん喬『百川』の噺を「わかりやすくする」工夫の数々。ギャップをおかしみに変える小三治の『百川』と比較して。

目当てはさん喬師匠。

主任のさん喬師匠(以下、他の噺家も含めて敬称略)目当てで、鈴本へ行く。1/3程度の入り。
基本的に、日曜は平日に比べればずっとマシだが、土曜に比べると入りは少ない(明日は仕事だとなると、土曜に比べて笑いにくいからか)。また、さん喬師匠は権太楼師匠と二人で組むと恐るべき動員力を発揮するが(年末の二人会は徹夜行列が出来たとか…)、一人ではそれほどでもない。

そして、鈴本や池袋の大トリで出るときには40分を越えて大ネタをかけるのが通例なので、どこでも好きな席でじっくり噺を聴くことが出来て嬉しい(軽い出番での味のある噺------「そば清」が代表的------も大好きだが)。結果、結構頻繁に在る主任興行では、各一回くらい行くことが多い。それに加えて夏のさん喬・権太楼二人での興行などは、それこそいける限り------去年は10日間のうち4日間------行ったり、「さん喬を聴く会」などは事情の許す限り通うことにしたので、なんだかんだで、さん喬の噺は去年に続き、年間で二十席以上は聴くことになりそうだ。

雑感数点。


全ての演目についての感想は煩雑なので、特に印象に残ったものだけ少し。

太神楽・鏡味仙三郎社中。

去年、芸歴五十年を迎えたという大ベテラン。出演の度に口にする台詞は、「私が寄席の吉右衛門です」(末広だと「新宿の」になったりしたような記憶も)。一度、誰かが「播磨屋!」とでも掛けたらどうなるだろうなぁ、と思ったりもする。
ところで、今日は仙三郎・仙三・仙花という三人での出演、実の息子の仙一がいない。で、妙にギクシャクした様子なのはどういうことだろう?ご本人はともかく、後の二人には演出とは思えないような失敗も……。ちょっと不思議に思う。何かあったんだろうか。

橘屋文左衛門。

トリノ五輪を話題にした漫談。実に瞬発力のある語り口と仕草で、中でも「リュージュなんて種目、どんなのか知ってる?こう、体ぽけーーっと突っ張って、ソリみたいなのに寝転がって、こう!なんだあれ!」と高座で立ち上がり伸び上がった末に、終いには寝転がって体バタバタさせての説明はまあ、なんというか、ダイナミックで楽しかった------色々な意味で。
ともあれ、こうした独特の個性を持った芸人がしばしば出て来るのが、寄席の面白さだと思う。全然タイプが違うけど、川柳川柳なんて大好きだ。いつでもジャズ息子、ガーコン。それでも面白いというのは凄いものだと思う。

古今亭菊丸『河豚鍋』。

顔芸が細かい人だ。口もうまいが、顔も器用。間近に座っていると、工夫が細やかで飽きなかった。
ただ、この噺では、仕草や口調の細かさを前面に出しすぎるより、幇間的な図々しい客と、実に上方的な調子の良い旦那の人格そのものをぐーっと押し出したほうが、より印象は強くなるとも思う。去年11月末の小三治米朝二人会での桂吉弥河豚鍋』では、正にそういう演出で、実に見事だった。やはり餅は餅屋、こうした上方噺は大阪の噺家がその持ち味を活かしやすいのかもしれない。

春風亭正朝『普段の袴』。

喜ぶ八五郎の晴れ晴れとした明るさがいい。あくどい滑稽味や、嘲笑に傾く誇張などに頼らない笑いが嬉しい。

古今亭菊之丞『紙入れ』。

こういう噺だと特にそう思えてしまうのだが、この人、顔も口跡も、《いかにも腹に一物隠してそうな、悪魔っぽいピエロ》といった雰囲気。唇に紅でも差したらさぞ怖いだろうと思う。名優ジョエル・グレイが演じた映画『キャバレー』の「MC」みたいになるんじゃないか。……いいなあ、好きだなあ、こういう人。
で、その表情と口調でこの噺のおかみさんをやるものだから、その仇っぽさはなかなかのもの。しかし、それ以上に見ものなのは、既に与太郎からはっきり噂を聞かされ、すっかり事情を知っているコキュであるところのおでん屋の旦那と、間男の新吉のやり取り。怖いなぁ、あれ。
それで、そんな空気で押してきたからには、「滝田ゆう落語劇場」の『紙入れ』にあるような「こんな顔だ」のサゲにでも持っていったりするかもなぁ、と思っていたら、「そこまでは気がつかねぇだろう」と普通にサゲた。むしろ、かえってエゲつないような気もする。まだしもそこで爆発してくれた方が、《後》の怖さが薄れてくれる。あえてそうしないところも、また、実にいい。少し、今後も注目して聴いてみたい人だ。


さん喬の『百川』と小三治

この噺は、小さん門下の兄弟子である当代一の噺家柳家小三治の十八番の一つでもある。小三治では昨年独演会で一度、録音で幾度か聴いた噺だが、さん喬で聴くのは初めて。この師匠はどう演じるのだろう、と興味深く聴いた。


小三治の百兵衛は、ただ田舎者なだけでなく、憎めない愛嬌も多分に備えているものの、与太郎の如くちょっと抜けている御仁。言葉と仕草だけで、なんとはなしに太った体の暢気そうな姿が思い浮かぶ。一方、この日に聴いたさん喬師の百兵衛は、素朴でのんびりとした田舎者だけれど、ごく普通の体格で、そんなに人並み外れて頭のネジの締め具合が悪いわけでもなさそうに感じられる。愛嬌よりも、朴訥さがより強く伝わってくる印象になる。


小三治と比較した場合、さん喬の話しぶりの大きな特徴の一つは、誤解が生まれそうなくだりを実に念入りに強調することだと思う。語勢も強くし、多少繰り返したりもする。それによって、あまり落語になれていない人には伝わりにくいかもしれない、すれ違いの内容とその成り行きが客に良く伝わるし、聴いているうちに「百兵衛さんが誤解するのもちょっと仕方がないのかも」という気にさせる。一方、小三治は魚河岸連中の困惑を、正にこの人にしか出来ない、思わず彼らの仲間にならされ、世界に引き込まれずにはいられないあのやり口で演じてみせる。
つまるところ、さん喬は江戸っ子の魚河岸連中と百兵衛のギャップを柔らかく丁寧に丸めて描き、小三治はそのギャップから生じるおかしみを愛情を持っておかしく、けれど温かく描き出す。どうも、そうなるとどうしても軍配は小三治に挙がる。さん喬の噺の端々に散りばめられた工夫は、懇切丁寧な《説明》という要素も強く、より幅広い層に届き、彼らの理解を得ることが出来る反面、この噺の根本にある、ギャップゆえの面白さを削ってしまっているところがあると思うから。

ただ、さん喬師匠はそんなことは勿論わかっていて、それでもより多くの人に噺の魅力を伝えたいという思いからこうしているのだろうとも感じられて、かつ、それはさん喬という噺家のイメージにとてもよく似合っていて……ようするに、なんだかんだいって、やっぱり自分はこの柳家さん喬という噺家が好きなのだと思う。
まあ、当たり前ではある。心から好きでもない噺家の高座を目当てに、誰が十回も二十回も通うものか。工夫がうまくいったように思えても思えなくても、さん喬師匠はいつも実にさん喬師匠らしい。「落語は噺ではなく演者を聴くもの」というのは、「演者の技術を聴く」ことなどよりずっと重く、「演者の姿勢を聴く」ことだろう。さん喬師匠は、50回以上は聴いた高座の中で------勿論、今回も含めて------そうした期待を裏切ったことは一度も無かった。本当に一流の芸人というのは、そういうものなのだと思う。


……ついでに、これは北村薫ファン向けの豆知識になるが、枕で「そいや、そいや」という掛け声に対し、「昔の江戸っ子は皆、「わっしょい、わっしょい」だった。なんでしょうね、「そいや、そいや」というのは」と腐すのは、この噺における(あるいは、小さん門下の柳派での)定番であるらしく、小三治もさん喬も入れている。北村薫『夜の蝉』での一節も、実は本ではなく、寄席で聞いての文章なのではないだろうか。

他の噺家についても少し。

聴く回数としては、小三治についてもさん喬に準ずるくらいの多さ(こちらは鈴本や池袋での主任興行&いい席が取れる場合に、独演会や各種のホール落語などという内訳。特に鈴本などでの比較的小規模の会場での独演会は最優先)。小三治については、より面白くその噺を聴くために、特に小さんのDVD全集あたりはもっと聴き込んでおかないと、とも思う。
今年は他にも、三太楼、桂小米朝などを聴く機会も増やしたいと思う。
一方、立川志の輔はパルコ寄席や朝日名人会などで聴いてみて、その上手さや現代的なバランス感覚からの解釈を基調とするスタンスには興味を惹かれ、他の噺家との比較対象としては面白いと思いつつも、基本的に、あまり自分が好きなタイプの噺家ではないということは分かった。
春風亭昇太については、聴いた回数が数回程度と少ないので、判断保留。立川談春はなぜかすれ違い気味で、まだ聴いたことがない。いつか機会を見つけてその高座に接してみたい。
喬太郎、歌之介といったあたりは、出向いた会の香盤に名前があると嬉しい。扇辰、歌武蔵というあたりもかなり好きで、特に扇辰は、数年前、まだ二つ目だった時の『にっかん飛切落語会』での『幾代餅』は当時、落語に対してごくおざなりな興味しか持っていなかった自分にも、忘れ難い一席だった。扇辰、と聴くと、その印象が今も頭を離れない。