トリノ五輪スピードスケート1000m決勝〜シャニー・デービスの革新的な勝利

余りにわかりやすい《歴史が変わる瞬間》。現実というのは想像以上に夢に溢れたドラマチックな一面も持っているという一つの証明。スピードスケート1000m決勝、スケート競技史上初の、黒人の金メダリスト(金に限らず初のメダリスト)、シャニー・デービスの滑りのことだ。


昼の十二時過ぎにテレビをつけ、トリノ五輪の中継を探すと、衛星第一で丁度その競技の決勝(録画)を映しており、見始めて三組目に登場したのが、シャニー・デービスと日本人にもお馴染みの、かつての英雄・ウォーザースプーンの組だった。
そして、結果論ではなく、見ていて、彼が他の走者と全く別のことをやってのけたことに驚かされた。最大の緊張とエネルギーの爆発をスタートに託し、二周、三週と苦しさに耐えそれを維持していく他の------今回観ただけでなく、これまで他の五輪や世界選手権のスピードスケート競技の中継の中でも------走者達の滑りと、後半になればなるほど、しなやかに伸びるシャニー・デービス。ああ、これは勝だろう、勝つべきだよなぁ、と思った。その後に続いた二組の実力者達による激しい挑戦も、ただその勝利を引き立たせるものになったのは------実に非合理的で、普段ならアホくさくて絶対に避ける類の言い草だが------それがあるべき《世界》の摂理だとすら思えた。
それは、突飛な連想だが、歌舞伎座海老蔵襲名披露興行での、市川海老蔵助六を思い出させた。あの口跡は、自分が観た(たかだか二年程度とはいえ)他のどの歌舞伎のどの役者とも------他の役での海老蔵自身も含めて------およそかけ離れたものだった。上手いも下手も、正しいも間違っているもない。《助六》がそこにいた。その事実の前には、あらゆる評価の基準が虚しくなる。そして、海老蔵がどうみたって、長年に渡って受け継がれた血と伝統の権化であるのと同様、シャニー・デービスの滑りも彼が黒人であるということと切り離せないものを持っていると思う。内在する強烈な要因に支えられ、その余りの外面的な鮮やかさにより誰の眼にも明らかなものとなる、一つの《世界》を変えてしまう《事件》。……世の中には、ごくごく稀に、そうした出来事があると思う。


勿論、歌舞伎と違い、スケート競技にはタイムという絶対の評価基準があるが、シャニー・デービスでは五輪決勝で更新こそしなかったものの、今季に打ち立てたこの競技の世界記録を保持してもいるという。それもまた、当然のことに思えた。それがいつ破られるか、今後も彼がその競技で最強であり続けるかなどといったことは、大した問題ではない。一つの《革新》という大きな事件を観た、という気にさせられた。
なお、「決勝の正にその瞬間に、別の選手のそれを破って新たにして圧倒的な世界新記録が誕生する」という方がより遥かに劇的ではあったが、そこまで完全に台本を書いてくれるほど、《現実》とうい狂言作家はサービス精神に満ちてはいないのだろう。