『会議は踊る』〜「ただ一度だけ」


北村薫『リセット』において、この映画とそのテーマ曲『ただ一度だけ』は------『スキップ』におけるバルザック谷間の百合』、『ターン』におけるカミーユ・クローデルの生涯と同様に-----主人公の境遇とその想いに深く繋がった作品である。従って、私にとって当然とっくの昔に観ていなければならなかった作品だが、なぜか今日まで先延ばしにしてきてしまっていた。自分の事ながら、困ったものだと思う。


そして、ようやく観ることになったこの作品は、ただただ、素晴らしかった。
全てを惜しみなく、わかりやすく晒しながら、これだけ面白く、断じて浅くなく、表現すべきことを表現し切る作品に、それを飾るべき言葉が何か必要だろうか。語れば語るだけ、ただ無粋なだけと思えてしまう。しかし、それでも一応、感想を並べるだけ並べてみる。


まず、何よりも印象的なのは勿論、二度歌われるテーマ曲、『ただ一度だけ』だ。「ただ一度だけ」の二度と還らぬ《時》の最中にあって喜びを歌う輝きと、それがまさに今終わりを告げたことを知り、過ぎ去った夢を見送る悲哀の調べ。


次に、物語の構成として素晴らしいのは、お伽の国を取り仕切りつつ、自らが全ての糸を繰る感覚に浸る盗聴狂の洒落者宰相・メッテルニヒと、その中で気ままに遊びつつ、メッテルニヒと切り結ぼうとするロシアの二枚目皇帝・アレクサンデルの描写。そして、そんな彼らの遊戯じみた政治の駆け引き------それはまずは伝声管に耳を傾け、手紙を盗み読む宰相の姿の滑稽さに象徴され、終幕近くのあの素晴らしい一場面、揺れ踊る無人の椅子が並ぶ会議室と、一人議題を語り採決するメッテルニヒの姿に凝縮される------を押し流すように、終幕近くに圧倒的な力を感じさせるシルエットだけが登場する、フランスの軍人皇帝・ナポレオンの姿だろう。


勿論、その一連の構成は、当時のドイツの政治情勢を意識して作られている。
『会議は踊る』が製作された1931年には、既にナチスは急激にその勢力を伸ばしてきていた。そして、二年後の1933年にはヒットラーがドイツ首相に就任、やがて映画『会議は踊る』も名曲『ただ一度だけ』も、「退廃芸術」として彼らから迫害を受け、人々の眼と耳に触れることが出来なくなってしまう。しかし、戦争が終わり、現代でも再び多くの人がこの映画を観ることが出来、その放射する素晴らしい愉しさに浸ることができる。ナチス・ドイツによって、わずかの間人々の眼に触れただけで消されようとしたこのドイツ映画の名作は、再び世界の人々の手に戻って来たのだ。


そう考えるとき、北村薫が「ただ一度だけ」を、『リセット』のテーマ曲とした意味も、より鮮やかにわかってくるように思える。