何とはなしに、「現代において噺家であること」が何を意味するかを想像してみる。


それにしても、ちょっと想像するだけでも------談志師匠の『現代落語論』を読むまでもなく------「今、噺家であるということ」というのは、まったくもって大変なことだろうと思う。


例えば、二十年、三十年と落語を聴き続け、支え続けてきているような玄人筋が「●●(過去の大名人の誰かが入る)に比べれば云々」というのは昔からだろう。しかし、今のご時勢では、わずか数年聴いてきただけのガキに至るまで、こうしてDVDやCDでそうした名人連中と比べながら聴きに来たりする。
これには、「誠に熱心で結構だねぇ、うん。以後よく励め」という一方で、「糞忌々しいな、チクショウ。今、そんな化けもん連中とガチで比べんな。大体、志ん生だろうと圓生だろうと、初めっから名人だったわけじゃねぇぞ!?つーか、ゴチャゴチャ抜かす前に自分でやってみやがれ!」とでも思わなければ嘘だろう(というか、もし自分がその立場だったら気持ちの半分では、絶対にそれくらいのことか、もっとそれ以上のことを思う)。
しかし、幾ら相手が生兵法でつっかかってきても、まさか、ついと足でも引っかけて怪我をさせるわけにもいかないので、なかなかにフラストレーションもたまってしまいそうだ。


更に一方では、どうにもこうにも、最低限の笑いのセンスも、噺の前提になる知識も持たない客の割合はどんどん増えているのだろうと思う。
しかし、そういう相手も取り込んで、より良い聞き手に育てていかなければ、おそらく「寄席」という空間を維持することも出来ない。そのために、噺の中に、自分で本来望む以上にわかりやすい説明や描写を加えていかざるをえない部分もあると思う(そこで談志師匠のようにそれに思いっきり背を向けてしまうのも一つの手ではあるが、そうすることのマイナス面も非常に大きい筈だ)。その葛藤は、部外者からは想像もつかないくらい厳しいものに違いない。
また、実際にそうした努力を続けてきたのであろう、さん喬師匠や権太楼師匠の会では、鈴本での主任興行などでも、他の会に比べて客席の雰囲気が「噺を聴く」空気になっていることが多いように感じられる。《実力を伴った誠実な努力の継続》ということの凄みを思う。

ただ------更に脱線になるけれど------ある意味似たような努力を重ねて来ているのだろうと思われる、中村勘三郎を中心とした演目が掛かった時の歌舞伎座の客層が、正直言ってそれほど他の月に比べていい雰囲気を生み出しているとは思えないのはどういうことだろう?必ずしも、努力は正当に報いられるわけではない、ということだろうか。


それに加えて、テレビではしょうもない芸人が馬鹿みたいに人気を浚って(勿論、本当の一流どころは、「テレビだからこそ」の他にない凄みを持っているのは当然として、あくまで一部のTV芸人に関して。また、そこでも9割9分以上の芸人の生活はお金の上でも人気にしても、少なくとも客観的には悲惨極まるものだということも前提にした上で)、金は稼ぐ、名前は売れる、そこら中で景気よく遊び回る、嘘みたいな美人と結婚するという事態を見ては、何十年と続けてきて、これからも何十年と死ぬまで続けていく努力に、疑問を持たずにはいられないこともあるだろうと思う。


この日(2006/3/4)の打ち上げの席で三太楼師匠が(「目白の師匠」こと先代の柳家小さんが存命時の、正月の門前の賑わいについての話からの流れで)「あんまりかっちりし過ぎているのは芸人としていいか悪いかわからないけれど、少なくとも本当にだらしない人は噺家を続けていられませんよ。途中でしくじって破門されちゃう」と冗談交じりに話す場面があったが、しくじり云々以前に、少なくとも芸について、生半可な姿勢であっては「芸を磨く」以前に、その職業を続けることすら難しいだろう。「好きでなければやっていられない」のは勿論、「好きなだけ」では到底足りそうもない。


ただ、一方で録音や映像技術の発達や、他の分野の芸により容易に触れられる環境というのは、観る側だけでなく演じる側にも大いにプラスの面があるに違いない。
日々あらゆる競技、あらゆる種目で記録が更新され続けているスポーツの世界と同様には語れなくとも、過去の時代の噺家達と比べても、きっと今の落語はそれと十分張り合えるか、それ以上のものなのではないか、と漠然とながら思う(自信を持って言い切れるほど、昔の落語も今の落語もろくに知りはしないけれど)。例えば、いつの時代のどんな噺家であれ、去年の「さん喬を聴く会」で聴いた『柳田格之進』ほどの出来の高座が、そうそうあったわけではないだろう。


そして、何より、どんな芸も表現も、基本は生で味わうべきものだと思う。昔の名人の芸を映像や録音を見聞きすることの面白さの半分くらいは、やはり同じものに触れて、その上で、それぞれの工夫を凝らしているのだろう《今》の噺家達がそこで何をやろうとしているのかを、僅かながらでも想像する材料が出来ることにある。


自分の趣味志向として、《《今までにあるもの》に反発し、これまでに何の前例も無い、自分だけの全くの新しいこと》を追い求める------と称する------表現などよりも、《先人に敬意を持って向き合い、その成果にどこまでも熱心に向き合った上で、《それでも》何かを加えようとあがく》表現にこそ、遥かに強く惹かれる。
かつ、その《先人》というのが、たかだか10年、20年という《今》という時間の横軸上に全て収まってしまうようなものでなく、百年、二百年、あるいはそれ以上の《時間》の縦軸をも視野に入れての《先人》である場合に、他の何にも増して惹き付けられずにはいられない例が満ちていると思う。

……まあ、それはそれとして、自分のことについていえば、まずはもっと文章を短く整えた上で、使う語彙をせめて数倍にし、表現や構成にも少しはまともな工夫をするべきだと思うけれど。