新国立劇場・ヴェルディ『運命の力』〜アンナ・シャファジンスカヤの圧倒的な迫力


井上道義指揮の東京交響楽団、キャストの目玉はレオノーラを演じたアンナ・シャファジンスカヤ。
ちなみに、席は、飛浩隆「デュオ」関連で購入しようとしていた(が、どこも品切れで結局入手できなかった)『ヴォルフ歌曲集』の予算(?)をそのまんま回したので、がんばって一階前方センター(音の響きはともかく、歌手の表情なんかがよくわかる位置。ただ、ろくにわかるだけの眼も耳も知識もないのになぁ……。まあ、いいか。いずれは、少しは……)。


で、比較の対象をろくに持たないのでいい加減なことしかいえないが、確かに、アンナ・シャファジンスカヤという人、凄かったんじゃないだろうか。声量もその表現の豊かさも、立ち姿の存在感も、まさに圧倒的。
基本的に性格表現として、とことん《強さ》一辺倒であるのは、「ここまで、《迷わない》という表現をすべき劇なのかなぁ?」と疑問に思わないではなかったけれど(特に後半は、まるで『運命の力』というより、『私の力』といわんばかり)、あそこまで力強くやられてしまうと、それもまた、魅力ある個性かとも思わされた。


ただ、一方で、脇を固める筈の他のキャストは、どの人もちょっと……。
特に、ジプシー女の占い師・プレツィオジッラというのは、戯画化された《運命》そのものというような、極めて高い力量と強烈なあくどいくらいの存在感が必要とされる役に思えた。そして、申し訳ないけれど------他にどんな役をやる人かも全く知らず、今回の観劇の印象だけでの感想になるが------坂本朱という人では、かなり役者不足だったと思える。
それぞれ役回りは随分違うし、オペラ以外のジャンルのものとの比較になってしまうけれど、例えば『ロミオとジュリエット』のマーキューシオのような、主役に求められるものとは質こそ違え、彼ら以上に力量を要求される役というのはいい劇には付き物。そして、そうした役は群を抜いた実力を備えた人が担当しなければ、劇全体のバランスとして苦しくなってしまう。あのキャストだけでも、もう少し、何とかならなかったのかな、と思う。
まず、声量が足りなさそうだったし、狂気、陶酔、色気の出来れば全て、あるいはどれか一つでも、それを突出して備えていることが必要とされていたと思うのだけれど、そのいずれも持ち合わせていないように見えてしまった(ああ、同じキーワードで、逆に、映画『ジーザス・クライスト=スーパースター』のリメイク版の狂信者シモン(サイモン)役の人の演技と歌(「Simon Zealotes」)を賞賛出来るな……あれ、誰だったっけ……)。
なお、ドン・アルヴァーロ、ドン・カルロ役は、共に手堅く巧かったのだろうと思わされたけれど、レオノーラの愛の強さに対して、癒し難い絶望と、度し難い頑なさを表現すべき役(なのではないかな、それぞれの役回りって)としては、《手堅く》やられてもなぁ、と考えさせられてしまう。


……しかし、舞台装置も、オーケストラと合唱隊の面々も筋の運びも演出も、全てがただ、《主役の強烈な感情の増幅装置》として奉仕する構造。そして、その上で、ひたすらひたすら力強く、用意された役柄に仮託された歌手の自己主張が押し迫って来る表現形態というのは、生で聴くと、理屈以上に凄まじいものがある。
そして、その表現の在り方は、《運命》や《神》といった題材によく似合う。漠然とした印象ながら、「ああ、これが、一神教の国の芸術の極点なんだなぁ」と理屈っぽく思ったりもさせられる。


なお、『運命の力』という劇の筋書きとテーマについてちょっと考えてみると、例えば、歌舞伎のお家物などがしばしば、忠義を前面に押し出しているようで(事実、それも見事に描き切っているのだが)、実はその裏の親子や夫婦、恋人同士の情を描いているように(藤十郎襲名公演で観た『伽羅先代萩』などがその典型だったと思う)、この『運命の力』や『マクベス』(オペラ版でも)のような作品は、人を逆らいようもなく押し流す 《運命》の恐ろしさや力を重ねに重ねて描くことで、その中で《それでも》その愛や誇りを貫く個人の姿をこそ称えてみせるものでもあるのだろう。

少なくとも、今回の演出ではそうした意図が極めて明確だった。そして、原則的には、《そうあるべき》ことだろうとも思う。
実際、その演出にのった主演のアンナ・シャファジンスカヤが、その膨大なパワーで劇場全体を呑み込んでみせたという、最重要の一点が成立したことによって、他の問題などはごく些細なことになり、このオペラは《成功した公演》となったといえるだろう。


一方で、オペラ『マクベス』を、《魔女たち》=《悪意ある運命》=《現世に未練や恨みを残す死者達の想念》とした上で、それそのものを中心に据え、マクベス-マクベス夫人を力の無い小者に貶めてしまった野田秀樹演出で観たことがあるが(2004年8月の新国立劇場)、本当にもう、今思い返しても腹が立ってくるような、どうしようもなくひどい代物だった。
あれはド素人の眼からみても、場違いとしかいいようがないやり口だったと思う。《花道》という存在に代表される種々の性質から、客席と舞台との一体感を考慮しない歌舞伎狂言がまずあり得ないように、主演が《世界》に対して行う強烈な自己主張の重要性を損なうようなオペラの演出というのは、よっぽど画期的なプラス要素がそれによって生み出されるのでない限り許されるものではないと思う。
あれでは、曲と歌手に喧嘩を売っているようなものだと思えた。そして、その衝突のマイナス面を上回るほどのものは生み出されていない。音楽も歌も虐殺されてしまっているオペラなんて、何のために聴きに行くのかわからない。《演劇》をやりたいなら、《演劇》でやってくれればいいじゃないか。