寺山修司『誰か故郷を想はざる』〜《時代》が抱える病と《個人》について

誰か故郷を想はざる (角川文庫)

これも例の3/18にあった北村薫の講演絡みで読んでみた本で、「九条今日子の回想録の前に、まずは本人のものを」ということ。


何よりもまず、一冊の本の中に溢れるように詰まった《自分の歴史を作り直す》屈折した情熱の強さに圧倒された。
巻頭を飾る「汽笛」の、御神影に向けられた銃口という強烈なイメージを皮切りに、生々しい------というよりも、更に進んで腥い(なまぐさい)------事実と幻想を織り交ぜた情念の弾丸が乱射され、それにまともに撃ち抜かれるような感覚。なお、語られるエピソードにも、各話の題名にも、フロイトの影響がやや過剰なくらいに大きそうでもある。
ただ、読了後、改めて読み返した時に、やや肉の哀しみから数センチ離れたところに透き通って漂っているような、美空ひばりの二つの歌を巡るエピソードに最も惹かれるものを感じてくるのは、私自身の趣味嗜好を明らかに示すものだろうと感じられた。


それと、第一章「誰か故郷を想わざる」の《過去》に向かう詩情に比べ、第二章「東京エレジー」の当時の寺山修司の《現在》に向けられた苛立ちは、いささか感覚が合わず、かなり距離を置いて読むことになった。
その理由は何故かということを考えていくと、その姿は様々であれ、《反抗のための反抗》というのは、《団塊の世代》というものが個人のレベルを越えて集団的に抱えていた時代の病だったのだろうと思わされたということなのかもしれない。その時代に属さない者の眼からは、その病状へに向ける視線は自然に冷たくなる。第二章に関する自分の感想も、相当部分、そうした世代間のギャップによるものだろう。


------そして、そうした道は当然のことながら、未来において自分達が通る道でもあるのだろう。
我々の世代が抱える病というのが《行き場のない憂鬱、希望・目標・意欲の喪失》といった類のものであることは明らかだろう。そして--------自分でも呆れるくらい見事に--------その病は私の中にも巣食っている。
おそらくは、こうした感覚もまた、来るべき新たな世代の眼から見れば、ただその鬱屈が忌々しく、馬鹿馬鹿しく思えることだろう。そして、彼らもまた、彼らの世代の病を持っていることだろう。
逃れ難い、《時代》という巨大なものの影と、その中での《個人》ということについて、すこしばかり考えてみずにはいられない。
寺山修司という人がそうした中で、《自分》という《個人》の成り立ちを自ら再構成しようとした試みというのは、そうした視点から改めて捉えると、更に興味深いものになるようにも思う。