山本弘『幸せをつかみたい! サーラの冒険⑤』

ソード・ワールド・ノベル 幸せをつかみたい! サーラの冒険(5) (富士見ファンタジア文庫)

数日前、十年振りに続編が出ていたことを知った、かつて随分とのめりこんだTRPGとその周辺のファンタジー小説の分野で特に好きだったシリーズの最新刊。
冒頭からしばらくは、TRPG絡みの小説特有の欠点------やたらとキャラクター名や道具名が不自然に連発される説明的な文章------が目立つ。しかし、後半になるにつれ、文章の方でも次第に改善される一方、読む方でも慣れてくることとあいまって、ロール(役割)をプレイ(演じる)する、というイメージを非常に正しく発展させて小説化したこの作品に引き込まれる。
また、幻超二のイラストが、これまで以上に作品によく似合っていて、優れた効果を上げていたと思う。


なお、作中で大きな焦点になることの一つに、《ファラリス信者》であることの意味というのがある。
この手の小説は、登場人物全てが各々の職業・立場・能力・種族・信仰といった決められた要素に基づく制限や対立、偏見や信念といったものに大きく縛られ、《類型的であること》を常に重視しながらその人物を描くことに最大の特徴がある。全てのキャラクターのパーソナリティは、彼らが背景に持つ類型的な設定との葛藤そのものであり、キャラクターと他のキャラクターとの関わりも、近代的な《個人》対《個人》ではなく、ある《類型》と異なる《類型》との接触がもたらす論理必然的な衝突を、どう《類型》から離れすぎずに対処していくか、ということに集約される。
ここで、《ファラリス信者》というのは、つまるところ、その葛藤に対し、自らの欲望を最優先とし、あらゆる要素をそれに従わせようとする存在と定義されるだろう。従って、彼らはこの世界観においては、どうしたって周囲と激しく衝突せずにはいられない存在となる。
従って、「あとがき」で作者が嘆いている、《善良なファラリス信者》という設定の濫用は、ほぼ必然的にTRPG------特にソード・ワールドTRPG-------の世界観に対する無理解を意味するのであって、「それはまあ、悲しくもなるだろうなぁ」と思わされた。