関容子『日本の鶯 堀口大學聞書き』〜もう一人の《私》がいる。

「最後に、セロリを女性に譬えた忘れ難い例を引かせていただきましょう。堀口大學の言葉です。関容子さんの絶妙の筆によって再現されています。ある方について、関さんが、どんな女性だったかを問いました。詩人はこう答えました。
《------中の芯コばかりになってしまったような人、というのか。え? 芯コってセロリのさ、回りの太い茎をどんどん取っていくと、中に黄色い小さい十センチ程のばかりが残るでしょう。あれが芯コ。僕はそれに塩をつけて齧るのが好きなんだ、酒の肴に。なかなかおつなものですよ。香りはいいし。
 栄さんは、磨きに磨いてそういう芯コばかりになったようなか弱い人でね》
『日本の鴬 堀口大學聞書き』(角川書店)の一節です。」


詩歌の待ち伏せ〈1〉 (文春文庫)
北村薫『詩歌の待ち伏せ
六、「サキサキと」佐佐木幸綱
  「胸に抱く」舘岡幸子  

同じ聞き書きでも、関容子の歌舞伎関連の本は、これまでに数冊読んだことはあった。
そして、その余りの素晴らしさのために歌舞伎にますますはまらされた挙句、今月には------北村薫ひとがた流し』でも話題となったこともあり------この人が毎年欠かさず足を運ぶという、四国の金比羅歌舞伎にまで行くことになってしまってもいた(今月の21、22日)。


そういうわけで、この人物が《とんでもない本を書く人だ》ということは重々承知はしていたが-------この作品はもう、一体どんな言葉で讃えればいいのか……。

人を尊敬すること。その心に寄り添いつつ、狎れ過ぎず、豊かな記憶の泉から未知の清水を汲み、聴き手であると共に書き手でもある慎みを忘れず文章を綴ること-------この作品は”聞き書き"という形式の持つ可能性の、一つの極点だとすら言えないだろうか。
また、聴き手が魅力ある心と言葉を持った《女性》であり、書き手が老いてますます瀟洒な《男性》であることが、《それゆえにこそ》の遣り取りを生み出していることも明らかだ。


そして------この人の作品を読むと、いつもある小説の主人公が思い浮かぶ


北村薫の《私》は言うまでも無く、唯一無二の存在である。
《《私》の物語》はこういう形でしか描き得なかった北村薫の一種の自伝でもあると共に、作者にとって彼女は《かくありたかった自分》でもある(特に父へ向かう思いの描写において、それは明らかだ)。
また、《私》は北村薫が自らの筆で生み出した何よりも愛しい娘であり、《こんな相手と話が出来たら》と願う理想の友でもある。
そして、《私》は、本を愛する人間にとっては、逆らいようもなく惹き付けられずにはいられないキャラクターだ。彼女以上に作家や作品について魅力的に語る存在は、どこにもいないのだから。


------しかし、それでもやはり、こう思えてしまう。


この本の中に息づく人は、もう一人の《私》なのではないだろうか。