北村薫『街の灯』〜時代という悍馬と人々の駆る馬たち。


街の灯 (本格ミステリ・マスターズ)

街の灯 (本格ミステリ・マスターズ)


※特に後半、『街の灯』と『リセット』のネタバレにもなりそうな下りがあります。未読の方はご注意を。

このシリーズはひょっとすると、一頭の巨大な馬と、その背の上をそれぞれに走る小さな小さな馬達の物語なのかもしれません。


北村薫のデビュー作『空飛ぶ馬』で、主人公の《私》は独白します------「人は誰も、それぞれの人生という馬を駆る」。
そして、彼女がそれに続けて謳う、一読忘れ難い美しさを持つ《私の馬》への賛歌で、物語はひとまずの幕を下ろすのです------ただ、《私の馬》は表題作に登場するとある男性のように、《今》だけを見つめ、それに満足しきって歩むことは、決して出来ず、それゆえに、《《私》の物語》はなおも必然的に続いていくのですが。
ともあれ、北村作品において、《馬》とはそうしたイメージを以って語られていた存在であるわけです。


さて、この『街の灯』においても、《馬》のイメージは大きく物語の上に現れます。

「------そういえば、わたし、その時も、悍馬という言葉を使ったわ。《『じゃじゃ馬ならし』というけれど、ピストルまで撃つとは大変な悍馬ね》、と」
「そうしたら?」
「兄は、しばらく黙っていた。そして、話題を変えたわ。《……悍馬というなら、時代ほどの悍馬はいないさ。ナポレオンでさえ、振り落とされた》」
 時代という馬------それは、巨大な幻影となって、鬼押出しの空を駆け過ぎた。


どなたかは存じませんが、単行本の帯を作った人は実に見事でした。

「昭和七年“時代”という馬が駆け過ぎる。」

これはおそらく、暗い淵へと疾走する馬の背に乗った世界の中で、それでもしっかりと自らの馬の手綱を握り締めて進もうとする花村英子という少女と、影に日向にその先導をしつつ、颯爽と己の馬を駆る《ベッキーさん》こと別宮(べっく)みつ子との物語なのだと思うからです。
それゆえにその一文は、この本に何より相応しい紹介文だと思えます。


しかし、時代の中を歩む馬達の中で------時によろめきながらでも-------《太陽の方を向いて》進むことが出来るのは、ごく限られた数だけ。
決して少なくない数の者は、狭く汚い檻に閉じ込められ、外の世界へ一歩も歩みだせないままにその一生を終えていったことでしょう。豪華だが無数の見えない壁に囲まれた世界の中で、限られた歩みを続けるだけの者たちもいる。そして、次のように語る---------そう語らざるを得ない《認識》を持ってしまった者がいる。

「-----要するに、わたしは、わたしの心を観ていたのね。《お前の見る夢の正体などこんなものだ》ということでもあり、逆にいえば、《本当にいいものが目の前に現れても、お前には、おんぼろの浮浪者にしか見えない》ということでもある。-----わたしが会えるのは全て駄馬なの。------そして仮に、千里を行く馬から見れば、わたしの方がただの駄馬なのよ」

この人物とこの言葉こそは、例えば『リセット』における弥生原優子と、その登場の時を除いてただ二度だけ、フルネームで「弥生原優子は------」と語られた場面にも勝るとも劣らない、物語の力の核心を支える名場面といえるでしょう。
ここで、『リセット』の真澄が弥生原優子のただ一人の理解者であったことと同様、英子は彼女が生み出した一つの世界の唯一の観客となります。そして、真澄と同じく、その姿を胸に刻みつつ、自らの道を真っ直ぐに歩んでいきます。
また、真澄は約束と繰り返される再会が支えられ、英子には彼女を自らの足で進ませつつ、静かに密やかにその歩みを導き助ける"ベッキーさん”が付いているのです。


『街の灯』というのは、そういう物語なのだと思えます。


最後におまけとして、蛇足となりますが、この本に関する関連情報を四つほど。


まずは第一章「虚栄の市」から二つ。

子供の頃、ミス・ヘレンと読んだ、ビアトリクス・ポターの小さな絵本

というのはその後に続く説明から察するところ、「ひげのサムエルのおはなし」でしょう。
ひげのサムエルのおはなし (ピーターラビットの絵本 14)
ちなみにポターはあの「ピーター・ラビット」の作者として有名です。

サン・ジョルジョの「二つのヴァイオリンと管弦楽のための協奏交響曲」(中略)第一楽章の中に、とても美しい部分があるのを心持ちにして聴く。やがて弦の響きは、そこに至るが、ああ……、と思った時には、あっけなく行き過ぎてしまう。もとより、動いているから美しいわけで、一点に止まれば音ではなかろう。

と描かれる曲は、「空想の音楽会(4)」asin:B00005HHOMくことができます。
北村先生がどこかで「最近よく聴くCD」として挙げていた一枚でもあり、ほぼ確実な出典といえそうです。
なお、ここで語られているのはおそらく、トラック4の3:20〜3:32あたりの旋律についてなのではないかと。勿論、これは自分の感覚での意見なので、異論はあるかもしれません。
他に北村ファンでこのCDを聴いた方がいましたら、是非ご意見をどうぞ。

弓原子爵

『殺人魔』という探偵小説を書いたという、花村英子の叔父・弓原太郎子爵のモデルが実在の探偵小説家・浜尾四郎であることはよく知られています。


ここで、『街の灯』の桐原道子。浜尾四郎「彼が殺したか」の登場人物と同じ名前を持つその人は、『殺人魔』という作品を書いたという、弓原太郎子爵の作品を読んだことがあるのではないか、とも思わされます。
いずれにせよ、かの事件に立ち会う人物として、正に相応しい人だったとはいえるでしょう。

「もし悟っても眼をつぶってくれるような気もしたわ」
(『街の灯』)

「この頃の令嬢の趣味は、第一にスポーツ、第二に探偵小説かね。---そうでもないかな、第三か、第四かね。しかし、ともかく、よく読むよ……」
浜尾四郎『殺人鬼』)

また、『街の灯』の次回作では、《弓原子爵の愉快な弟も登場するのではないだろうか》と期待していたのですが、続編『幻の橋』ではそうはなりませんでした。
別に当てものゲームをしているわけではないのですが、本音をいえば、ちょっと残念です。

シリーズを締め括る言葉

虚栄の市〈一〉 (岩波文庫)

単行本『街の灯』の自作解説に曰く、

いちばん最後の場面、ベッキーさんの言う台詞も分かっています。

……さて、こうなると、「その最後の台詞は一体なんだ」と考えてしまうのは人情というものでしょう。勿論、そんなものはまずもって分かるわけがないのですが。


ただ、その名前の由来がサッカレー『虚栄の市』の主人公からならば、その台詞もまた、同書を出典とするのも美しいかたちといえるのではないかと思えました。
その儚い前提をもとにして、妄想をたくましくした結果、あるいは次に引用する下りこそがそれなのではないかといい加減な予想(?)をしてみました。さて、どんなものでしょうね(当たるわけもないですし、仮に当たったからといって、「だから、どうした」という話ではありますが)。

「あなたは勝とうと思って賭けるわけじゃありませんでしょう? わたしだってそんなつもりじゃありません。わたしが賭けるのは忘れるため、でも、忘れることなんてできませんわ。昔のことを忘れるなんて、できないことですもの、ね、そうでしょう、あなた(ムッシュー)?」

(『虚栄の市』第六十三章。岩波文庫版248ページ。中島賢二・訳))


以上。