蜷川幸雄『タイタス・アンドロニカス』〜傑作!!(感想途中)

さいたま芸術劇場で『タイタス・アンドロニカス』を観る。大傑作。
劇の優れた構造は、高度な様式美により鮮烈なイメージとなり、明確なメッセージを持って観る者に押し寄せてくる。


役者陣も、いずれも見事な演技。
タイトルロールを務めた吉田鋼太郎は今まで蜷川演劇で観てきた中でも一番の出来。
麻実れいのまさしく《女王》という、凛然とした気品と溢れ出る人並み外れた強烈な情感、自ら運命を織らんとする意志と力は、『オイディプス王』でのイオカステと比べても、勝るとも劣らないはまり役。
意外な見ものは小栗旬のエアロン。『オセロ』のイアーゴー並みに重要な悪の大役を存在感たっぷりに演じている。
正直言って、彼が主演を務めた『間違いの喜劇』を見逃したのがひどく悔やまれる。それくらいの演技。
脇役の面々も、皆揃ってはまり役。例えば、普段は個人的にひどく気にいらない(ファンの人、すみません)鈴木豊も実に堂にいったチンピラ振りで、正に適材適所という印象。


美術・衣装は今までに観た蜷川演劇の中で、歌舞伎版『十二夜』幕開けに次ぐ見事さ。音楽もこの劇の流れにうまく沿ったものになっていたと思う。


ここで、「明確なメッセージ」というのは、

「人は容易に、他者を踏みにじるための理由、正義、信念を生み出し、それに浸りきる。一度そうした道筋がつけられてしまば、相手への共感や赦し、お互いの共通点を通じての理解の道は硬く閉ざされ、ただただ、流血と復讐の悲惨な連鎖が続いていく。
それに押し流されないためには、どこかで《敵》を生み出し続けるのをやめ、赦し、共感し、理解し、手を携えていかなければならない」

といったもの。


それは何よりもまず、劇の構造によって語られ、その構造は舞台上の色彩と人物の配置と美術装置によって象徴的・絵画的にも示される。
その上で、そうして描かれた構図の中に役者たちの演技と台詞が溢れんばかりの無類の規模のエネルギーを注ぎ込むことで、そのメッセージは舞台という形式ならではの強烈な力強さを以って観客にぶつけられることになる。


なお、蜷川演劇定番の手法として、観客も舞台の世界に組み込まれ(例えば『オイディプス王』では、観客は「人々の祈りは聞こえてもそれに応えることは出来ない、力なき傍観する神々」に擬せられていた)、今回は「ローマ市民」の役回り。そのための各種の工夫も興味深い。


さて、まずは、劇の《構造》について大まかにみていってみることにする。


この劇では、主要な登場人物は皆、幾つもの対立軸を立てて相手を憎み合い、殺しあっていく。
その際、例えばタイタスがローマを愛し、家族を愛するように、タモーラもゴートを愛し、彼女の家族を愛しているといったように、しばしば争い合う者たちは相手を理解するに十分な共通項を持ってもいる。しかし-------劇の最後に舞台に立ち、全ての希望と再生への願いを担う二人の子供を除き------誰一人として、それをもって、共感、赦し、寛大さといったものを示さない。
それゆえに、悲劇はほぼ全ての主要人物を飲み込むまで留まることなく拡大していく。
これが、誰の眼にも明らかな、『タイタス・アンドロニカス』という物語の姿だろう。
そして、その「対立」の姿が、場面場面の人物の配置や姿勢、そして衣装の色彩によって、視覚的・絵画的にも鮮やかに舞台上に描写される演出がこの上なく見事だといえる。


しかし、この劇における更に悲劇的な構造というのは、彼らがそれぞれ頑なにこだわり、そのために他者を踏みつけ、虐げ、殺戮してのけた対象に誰一人として報われないことではないだろうか。
彼らは皆、自らが愛し、犠牲を捧げ、守ろうとしたものを、後に自ら裏切り、壊し、打ちのめすように追い込まれていく。


例えば、タイタスの原動力は「家族への愛」「ローマへの愛」「名誉への愛」といったもの。
彼はそれらに全てを捧げ、それに立ちふさがるもの悉くと戦い、打倒し、踏みにじってきた。
しかし、「ローマへの愛」「名誉への愛」に支えられて蛮族に勝利し、凱旋した彼を待ち受けていたのは、娘の「心に決めた夫への愛」による(タイタスから見れば)裏切りであり、更に息子達もそれに同調したことで、「家族への愛」は序盤から深く深く傷つけられ、遂には自らの手で息子の一人を殺すこととなった。
その後、名誉も失い、家族の大半も奪われ、ローマは彼を侮辱し抜いたことで、彼は唯一人生き残った息子に、自らが打ちのめした蛮族を率い、復讐のためにローマに攻め入らせることになる。
タイタスが排他的に愛したもの全てが彼を裏切った。その復讐として、男は自らも、それら全てに牙を向けずにはいられなかったということになる。


一方、タモーラというのは、「家族への愛」「ゴートへの愛」「名誉への愛」といった、タイタスに非常によく似た彼女なりの排他的な守るべきもののために戦ってきた人物といえる。
しかし、彼女を追い詰めたのは、タイタスの息子に率いられたかつての自らの民の軍勢であり、彼らからは「裏切り者」と罵られ、ローマ人からはおそらく「元は蛮族の女王」と蔑まれ、死して後は埋葬も許されなかった。そして、自ら、知らずして最愛の息子達の肉を食べる地獄にも突き落とされた。


更に、エアロンを突き動かしていたのは、「虐げられたムーア人の誇りへの愛」「悪への愛(多くの「善」や「正義」への激しい反発)」だったが、正に彼の「ムーアの血」の結晶が彼の野望と前途を打ち壊してしまった。それにも関わらず、あらゆるものに侮蔑の言葉を投げ掛けているようにみえる彼が、彼を決定的に破滅させた存在だけは決して呪わず、ただそれを守ることだけに全てを投げ打った。それは即ち、徹底した「悪」になろうとした彼自身の強烈な否定に他ならない。


こうして苛烈なまでの厳しさで描かれる不毛と悲惨の強度はそのまま、排他的で安易な《他者》を拒む思想・正義・信念・価値観に盲目的に従うことへの抗議だといえる。


実に見事という他ない、巧緻にして執拗、壮大にして鮮烈な構造。
この《構造》については、細かく見ていけば見ていくほど興味深くなる話題なので、上記に簡単に示したものに加え、今後、より詳しい分析を加えていってみたい。


あと、ホント、色々と面白い見方も出来る劇だと思う。


例えば、《冒頭の悲劇の発端、一番救いの手を差し伸べやすい立場にあったのは、戦場を経験していないタイタスの娘・ラヴィニアだっただろう》とか。


あるいは、《悲劇を連鎖させないためには、《理解や共感》というほかに、この劇から学ぶべきなのは《「どうせやってしまうなら徹底してやれ」という教訓》という見方も出来るよなぁ、とか。
ざっと考えただけでも、例えば以下の通り。

■タイタス側ハッピーエンド条件
①タイタスが素直にローマ皇帝になってしまう。
タモーラの長男を勝手に処刑したのなら、禍根を断つべくその場でタモーラ一族根絶やし。

タモーラ側ハッピーエンド条件
①現皇帝を掌握していることを徹底利用し、タイタス一家根絶やしを早期に敢行。
②ラヴィニアをどうこうしてしまった後、証拠を残さず始末。
→後の手際次第で(別の犯人を仕立て上げて信じさせるとか)タイタス復讐鬼化防止の可能性も。

■エアロンのハッピー(?)エンド条件
①証人はタモーラ以外抹殺したので、悪の化身への道の障害となる自分の子供もざっくり始末。
その凄みでタモーラ一家も圧倒してローマの裏からの支配にチャレンジ(ただし、前途多難)。

(以下、続く)