鈴本演芸場五月上席夜(主任・権太楼、仲トリ・小三治)〜権太楼『はてなの茶碗』への大きな疑問

さん喬「天狗裁き
小三治「出来心」
(仲入り)
正楽・紙切り
市馬「片棒」
小菊・粋曲
権太楼「はてなの茶碗


連休中だというのに仕事が夕方頃まで入ったため、鈴本についたのは六時過ぎ。
のいる・こいる師匠の漫才の途中から立ち見で観た。
ちなみに、鈴本は最後方の立ち見でも------池袋演芸場ほどではないけれど------十分に楽しめる寄席小屋。むしろ、後方の座席よりは、前の人の頭などが全く気にならなくていい分、噺の世界に入っていきやすくすらある。しかも、料金が相当下がるのもありがたい(1700円)。
立ち見が出る日はごく限られてはいるが、目当てが後半に集中している人気興行などの場合には、懐中殊の外寒々しく、手元不如意という折には、むしろ狙っていってみるのもいいかもしれない。

さて、肝心の噺の感想について。
まず、もっと前の出番だった筈のさん喬師匠が、何かの事情で後ろに回っていたのが思いがけない幸運。
小三治師匠はいつもの如くたっぷり楽しませてくれ、市馬師匠はいつにも増して好調な出来。
ただ、トリの権太楼師匠の今日の噺には、大疑問符が幾つもついてしまった。
はてなの茶碗」というのは、ただ面白おかしいだけの小さな噺だろうか?
以下、それぞれもう少し詳しく書いていってみる。

さん喬「天狗裁き

この人が好んで掛ける噺の一つ。
トリでも仲トリでも、今回のように浅い出番でも、自在に時間や語り口を変えて語り上げて来る。


入れ替わり現れる人物それぞれの描写に、それぞれの味と独自の工夫があるのが愉しい。
例えば、大家の仲裁が入ったところでの、八五郎と隣の徳さんとのやりとりは、いかにもこの師匠らしい、暖かなコミカルさ。

徳「いえね、こいつのアホの嬶(かかあ)が……」
八「おぃっ、人の女房をアホとはなんだっ!」
徳「あれが利口か?」
八「(首を傾げて)……うーん」
(中略)
徳「それで、うちの賢い嬶が……」

話の流れの他に、「あれが利口か?」というところの表情も、曰く言い難い、さん喬独特の表情でおかしい。


他にも、大家が夢の中身を話そうとしない八五郎を、これもやはりこの噺家特有の含みの有る表情で「偉いねぇ、一度決めたらどう詰め寄られても話さねぇ。江戸っ子の鑑だ。感心だねェ」などと言い立てた後、ぐっと顔色を変えて「長屋出てってもらおうか!」と来るあたりなどは、もうたまらない。


奉行の初めの凛然たる立ち居振る舞いと口跡も、それが際立てば際立つほど、後の落差の妙味が増す。「貴様、さては幕府転覆を企んでおるか!」との飛躍が場内を爆笑させずにはおかないのもいつものこと。


最後に現れる天狗の表現は、これは毎回結構違う。最初から滑稽味を優先させることもあれば、大らかな殿上人風なこともあり、あるいは奉行のイメージの更なる拡大版であることも。今回は短い時間での進行ということもあってか、滑稽味優先版。
どうやら、ここらへんのキャラクター描写の性質の違いや濃淡で、うまく噺の長さや客層にあった流れを調整しているらしい。
サゲは定番の、噺がエンドレスで循環していく形。確かに、この噺のオチは、いつもそうあるべきだろうと思う。


小三治「出来心」


仲トリということで、今日はマクラは二、三分かもっと短い程度で、すぐに噺が幕を開けた。
小三治師匠は頭のネジが二、三箇所緩いような人物を描くとき、その間の抜けっぷりはそのままに、それでいて愛嬌に溢れ、好きにならずにはいられない人間を生み出してみせる。
笑いはあくまで明るい親しみの笑いであり、決して嘲笑にならない。それがこの師匠の最大の魅力だと思う。


今回の噺では、普通のサゲである「花色木綿〜」のところまで演らず、空き家と思って忍び込んだ家(実は二階に人がいた)での、羊羹の盗み食いをたっぷり演じるという趣向。


いい加減な記憶と印象からまとめると、

「なんだよぉ、薄く切ってやがるなぁ。羊羹はもっと厚く切るもんだよ、しみったれてやがるなぁ。でも、きっと金はたっぷりある家だ。しみったれじゃねぇと、金なんて溜まりやがらねぇんだから」
「でも、俺はこうして重ねて食べちゃう。こう、三切れ重ねちゃえば、なみの厚切りよりずっと厚いね。(一気に口に放り込む仕草)」
「んぐんぐんぐ……んーーまいっ!! うまいよ、これは!んぐんぐんぐ」

といった感じ。


昔の伝説的な落語家の逸話として、「羊羹を食べるにも、虎屋の羊羹と他の羊羹とを食べ分けてみせた」などというものもあるそうだが、何とはなしに、そんな話も思い出されてしまう名演
文楽の「明烏」と甘納豆では無いけれど、鈴本で羊羹が売られていれば、さぞかし仲入りではよく売れただろうにと思えた。


そして、適当にいった名前が二階から出て来た住人の名前でびっくりして逃げ出し、「なんであんな変な名前言っちまったんだろう?」と首をひねり、「しまった。表札読んでだ!」というところでサゲ。

市馬「片棒」

この噺は、鈴本で扇辰師匠がトリを取ったときにも聴いたことがある。
渋い感じの実力派が賑やかに笑わせたいときによく選ぶ演目なのかもしれない。


そして、今日の市馬師匠は普段以上の大ウケをとってみせた。
特に、吝兵衛の生前の姿を映した人形が機械仕掛けでガシャガシャと動く描写には、場内割れんばかりの拍手と爆笑。


寄席の人気者・喬太郎師匠の代演ということで、マクラの第一声から「喬太郎師匠はどうしても本日外せない以前からの予定があるそうで。「本日は申し訳ない」と伝言がございました」とおどけてみせての高座だったが、そう余裕をもって遊んでみせるのにも十分な出来。
確かに、市馬師匠のような芸達者な中堅どころの噺家には実によく似合う噺だと思う。


また、この噺に限らず、どの主要な持ちネタにしろ、市馬師匠と同じ噺をやって、それ以上に客席を沸かせたり、感心させたり出来るなら、その噺家はそれだけでも相当のモノだと思う。
市馬師匠というのはなんだか、噺家の巧さや魅力の一つの基準点みたいな人だという印象がある。

権太楼「はてなの茶碗


さて、問題の権太楼「はてなの茶碗」。


別名「茶金」ともいうこの噺は、上方では米朝・枝雀、東京では志ん生志ん朝が得意としてきた名作。個人的な思い入れとしては、DVD全集で観た、米朝・枝雀の互いに重なり合い、奇跡のような一対をなすように見える名演が好きで好きでたまらず、数ある噺の中でも最も好きなものの一つ。
それだけに、どうしても米朝・枝雀両師匠とこの日の権太楼師匠とを比べながら聴くことになり、幾つもの不満と疑問が浮かばずにはいられなかった。


ここではもう、徹底的にボロクソに書いていくことになるが、自分で書いていて正直疑問ではある。権太楼師匠ほどの噺家が、本当に自分が思ったとおりのひどい演出をやったのだろうか?おそらく、権太楼師匠は私のイメージとは全く違う、相応の適切な解釈が可能な「はてなの茶碗」を演ったのではないだろうか?
……しかし、しばらく考えてはみても、どうしても、そうした良き仮説を脳裏に描き出すことが出来なかった。もし、誰かに適切な説明をして貰えるのなら、是非聞かせて欲しいと思う。心から、そう思う。



まず、第一の不満は、清水寺での茶金さんの描写がやけにしつこかったことにある。
茶碗から茶を捨てて、布で拭いて眺めたり、また茶を入れてみて撫で回したりと、いろいろやらせてしまう。


この場面では、《茶碗をもって首を捻れば、それで百両の値がついてしまう》という茶金さんが、《多少興味を示していた》程度のところに、油屋がなけなしの金を思い切り良く全て賭ける心意気こそが重要なのではないだろうか。
それでこそ、後に茶金が単なる同情ではなく、彼の渾身の賭けへの本心から感心したことによって、油屋に救いの手を差し伸べるという展開に繋がって行くのだと思う。

以下、その解釈について少し説明する。

①もって生まれた優れた感性を磨きに磨きつつ、溢れんばかりの知識に更に膨大な知識を重ね、決して過たない《眼》を持つに至った茶金。
その彼だからこそ、そんな研鑽とは無縁の身で、他者の評判を基にした僅かなチャンスに突っ走る油屋の生き方には、感嘆もすれば、ある種の眩しさも感じずにはいられなかったのではないだろうか。

②あるいは別の見方として-------今は日本一の目利きと謳われ、その鑑定に誰一人逆らうものの無い存在となった茶金。
その茶金だからこそ、僅かなきっかけに数年かけての蓄えを投げ出してみせた油屋の姿は、軽はずみな愚かさとだけは映らず、権威として祭り上げられてしまった自身が失ってしまった何かを持つ者として感じられたのではないか。

しかし、そういった感覚は、この日の権太楼師匠のようにやけに茶金がゴチャゴチャと茶碗をいじくりまわしてしまうと台無しになってしまう。
こういったわけで、冒頭から大きな疑問符が脳裏に点滅しながら噺に耳を傾けていくことになってしまった。


続いて、油屋が茶金の番頭と掛け合う場面にも不満点が盛りだくさん。
油屋の描写に驚愕と不安、そして必死さがいまいち感じられない。これでは番頭ならずとも、小金を強請り取りに来たのかとしか思えないだろう。
そして続けて出て来た茶金の描写がちょっと信じられないシロモノ。大店の旦那らしい、悠揚迫らぬ風格がまるでないのはひどい。一見の客とほとんど同じ精神的高さで接し、軽はずみにポンと自分の評価を口にしてしまう。日本一の目利き、その一言がすぐに百両、二百両につながるその道の大家がその振る舞いというは有り得ないのでは?
更に、その姿勢もしばしば、前のめりにすらなりかねない様な雰囲気なのには驚かされた。勿論、噺家ごとに同じ噺でも、描こうとするイメージがおよそ異なってくるのは当然だ。しかし、米朝の悠然とした風格を持った茶金の姿が脳裏に浮かんでしまうと、正直言って権太楼の茶金はひどくみすぼらしいものにしか見えなかった。


そして、油屋に幾らかの金を与える理由も、権太楼演出では《まぁ、茶金の名前をそこまで買ってくれたのは嬉しい》という単なる偉ぶった余裕と同情に過ぎないように感じられてならなかった。こうまでいってしまうとひどい偏見なのかもしれないが、そう思えてしまったものは仕方が無い。


更に、その後の茶碗の数奇な遍歴の描写にも、強く文句をつけずにはいられない。
権太楼師匠の噺では、手から手に渡る一過程ごとに、いちいち各人が茶碗をいじくり回す長ったらしい描写が混じってきてしまうのは、一体どういうことなのだろう。
ここは《あれよあれよという間に、単なる奇妙な水漏り茶碗が天下の珍品になる》場面であり、《竜巻に飛ばされて気付くと魔法の国》というような、寓話もしくは童話のような語り口で、かつ、とにかくシンプルにやればやるほどその印象は鮮やかになるのでは。俗っぽく長々とくすぐりを入れていくべき場面だとはどうしても思えない。


そして、油屋がその顛末を聞かされての反応が「へぇ、そうなんですか。凄いですねぇ」といった程度なのも首を捻らされた。
ここは、茶金が油屋の賭けに茶金ならではの心動かされる何かを見たことと対応する場面だろう。油屋は、自分のケチな生活と全く次元が違う不思議な世界が存在することに、夢の世界を覗きみたような驚愕を覚えたのだろう。そして、自分が持ち込んだ茶碗がその中で一場の主役となったことに溢れんばかりの嬉しさを感じたのではないだろうか。
従って、茶金が油屋に金をやり、金を貸したのが単なる同情だけのことでなかったのと同様に、油屋が「金なんていりません」というのも、ただの遠慮だけではない。彼が茶碗を通じて一場の素晴らしい夢を見、それに大きく満足していたからこそのその言葉なのだと思う。権太楼師匠の「はてなの茶碗」からは、その《夢》が全く浮かび上がってこなかった。


当然、その結果としてサゲの面白みもひどく印象が薄い、たんなる賑やかし以上のものではなくなってしまったと感じられた。
なぜなら、このオチの妙味は、茶金=観客が《そうして一時の《夢》をみた油屋が、それだからこそその《夢》を思い出として胸にしまい、今後は《現実》を見つめて生きていってくれるだろう》と暖かな気分に浸っているところに、油屋がとんでもない誤解で力いっぱいに膨らませた、決して叶わぬ《夢》が賑やかな掛け声と共に担がれてくることにある。
無論、その味は、この権太楼師匠の「はてなの茶碗」には望むべくもない。

大不満と大疑問に満ちた、およそ納得のいかない噺だった。


以上。