高木仁三郎『市民科学者として生きる』感想

市民科学者として生きる (岩波新書)

市民科学者として生きる (岩波新書)

2000年10月に亡くなるまで、長らく脱原発運動の中心的人物の一人だったという高木仁三郎の自伝的エッセイ。
一読、「フェアな人だったのだな」と思う。


本の性格上、個々の活動や運動の詳細の描写は少ないが、一貫して"当然に悪である政府や電力会社への抗議や実力行使"などでなく、"独自にデータを収集、解析し実態と異なる政府や学界、電力会社の発表がされていたことを明らかにし、認めさせる"姿勢だったことが分かる。


また、

原子力問題をやっていると、 原子力賛成・反対を唯一の基準に、人の価値を評価したり、運動を評価したりする人に多く出会う。推進側・反対側双方にそういう面がある(中略)そのような「唯原発主義」のようなものを、私は好まない」(p216)

といった言葉や、推進派として政府の委員なども務めるかつての研究仲間との対話のエピソード(p208-209)も興味深い。


1938年に生まれ、東大理学部入学(1957)⇒日本原子力事業入社(1961)⇒東大原子核研究所助手(1965)⇒都立大学助教授(1969)⇒脱原発市民運動家/科学者という足跡は、学生運動を含む60年安保の反対闘争、日本の原発黎明期、市民運動の高まり等といった時代の歩みとも深く重なるが、だからこそイデオロギーの嵐が吹き荒れた激動の時勢の中での、科学的でフェアな姿勢な貫徹に驚かされる。
優れた成果のみならず、その理性的な姿勢がライト・ライブリフッド賞受賞等、推進派すら一目置いたという高い評価に繋がったのだろう。
死を目前にしながら、陰謀論も反対派への罵倒や憎しみも排された筆致も見事(活動に対する極めて陰湿な妨害や個人的中傷の数々はp213〜p216の4ページに渡って描かれているが、受けた被害に比べれば、極力抑えた描写となっているところにも著者の強い意志が感じられる)。
他の著書も読み進めてみたいと思う。



ただ、高木仁三郎氏亡き後、そのフェアな志を引き継いだといえる後進は誰なのだろう?
2011年3月11日の震災後における、氏が初代代表を務めた「原子力資料情報室(CNIC)」の活動などは、活発な中継を見る限り、氏が明確に戒めた推進派・反対派の二分法や"まず結論ありき"の煽動じみた政府や電力会社批判に寄り過ぎているように見え、とても残念に思えてしまう。


一方で、本作品の中でそのフェアで科学的な高木氏が怒りを顕わにしているのは、各地の現地活動家による原発反対運動が無知で感情的な反発や、欲得ずくの「地域エゴ」と片付けられがちであったことで、浪江小高原発反対運動の福島県浪江町棚塩の舛倉(隆)氏、元六ヶ所村村長寺下力三郎などの名を挙げつつ

「彼らは、実によく勉強していた。彼らを「地域エゴ」となじる、東京から来たなまじの「専門家」などに比べたら、原発の構造からあるべきエネルギー政策についてまで、よく学び、立派な見識をもっていたのである」(p203)

と言明していることも、感想として記しておきたい。