杏子とおりこ☆マギカ新キャラの関係は杏子&さやかの悪意ある反復?

魔法少女おりこ☆マギカ (1) (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)

魔法少女おりこ☆マギカ (1) (まんがタイムKRコミックス フォワードシリーズ)

※この日記にはアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』全編及び、そのスピンオフ漫画『魔法少女おりこ☆マギカ』1巻に関するネタバレが多量に含まれています。未視聴/未読でネタバレを気にされる方は、以下、閲覧されないことを強くお勧めします。
この後、数十行開けて本文です。





















































この日記では、アニメ『魔法少女まどか☆マギカ及びそのスピンアウト作品『魔法少女おりこ☆マギカ』1巻を元に、佐倉杏子というキャラクターの掘り下げ及び、美樹さやか、そして「おりこ☆マギカ」の三人の新キャラクター、千歳ゆま・美国織莉子・呉キリカとの関係性について、比較しつつ、それぞれ考えていきます。



まず、結論から。


魔法少女まどか☆マギカ』本編においての杏子のさやかに対する思い入れには、さやかに過去の自分(の願い・夢・希望)は勿論のこと「守りたかった妹」と「本当は和解したかった父」を投影していたことが大きかったと思われます。
そして、杏子と新キャラの関係は、そのさやかとの関係の悪意に満ちた反復のように思えてきています。
つまり、杏子にとってゆまは「守るべきだった妹」が、幼少期に「みんなが平和に暮らすため」がモットーの政治家の父に振り回された末に多分そこら辺が原因で魔法少女になったのだろう織莉子には「果たしたかった父との和解」が、盲目的にそれに仕えるキリカには「かつての自分」がそれぞれ投影されてしまうのでは、と。
漫画のムラ黒江(サークル「トイヘルベッケ」)東方同人でお馴染みのアレな展開からしても、杏子の未来にはお先真っ暗な予想がされてしまい、なんだか悲しい。



以下、その結論に到るまでの詳細です。


まずは、主に杏子というキャラクターについての考察です。
杏子についてはさやかとの関係性に着目し、以前の日記(「まどか☆マギカ」10話迄のネタバレ感想〜「弱さ」の描写の巧みさ。」http://d.hatena.ne.jp/skipturnreset/20110410)でも書きましたが、今回はより突っ込んで見て行きます。
また、佐倉杏子についての論ということで、先日書いた『魔法少女まどか☆マギカ』において、美樹さやかが担った役割は重い』(http://d.hatena.ne.jp/skipturnreset/20110422)と対になるものとしても意識して書いています。
非常に粗っぽく言ってしまえば、「周りから何も背負わされない分、無理に背負いきれないものを背負うことで「自分が無価値じゃないか」という無力感と自分の平凡さへの苛立ちから逃れようとして始まっていった、美樹さやかの悲劇」と、「否応なく、最も親しい家族との愛憎半ばする関係に巻き込まれていったことから始まった佐倉杏子の悲劇」といった視点です。


杏子の「過去の自分と訣別して自分ひとりのために力を使う」は、言ってしまえば強がりでしょう。
作中での事ある毎に自分にもいい聞かせ、他人にも言い放つ描写からは、「そうすることでようやく保てている」ように見えます。
だからこそ、過去の自分(及び家族。特に妹)に重なって見える相手には「異様な苛立ち」⇒「放っておけない」と極端から極端に移行しています。
まどマギ本編でも「おりこ」でも。


杏子はきっと、なんだかんだで未だに父もその教えも抜け難く好きなのでしょう。
追い込まれた時に出てきた言葉は「頼むよ神様」だったのですから。
また、おそらくは元の性格からも相まって「人の為になることをしたい」、そして、「それで人に認められたい」という欲求の強さはさやかとはまた別の動機で根強い。
ゆまとの関係は「共依存」、さやかとの関係では「杏子の方からお互いに依存する関係を持ちかけて叶わなかった」と言ってもいいように思えます。


さやかのケースで顕著ですが、杏子は単に「巻き込まれてる」のではなく、積極的につっかかったり突き放したりして「巻き込まれたがっている」んですね。
まどかによる改変後でも、『おりこ☆マギカ』で描かれているのであろう、ほむらの別ループ中であっても。
杏子が家族とのあの関わりの中で魔法少女になり、それで家族崩壊しているならば。
その傾向はなんら変わらないというか、変わりようがない筈です。


なお、杏子のさやかへの思い入れを詳しく書くと。
過去の自分は当然として、ソウルジェム投げ捨て事件のショックあたりからは妹を。
自分が魔法少女となった顛末-----最も痛みを伴う告白をした上での誘いを、さやかが「あくまで他の人を救うために!」と退け決裂したあたりからは父親を。
それぞれ大いに連想し、投影しているのだろうと思えます。


つまり、杏子はさやかが突然思いもかけず「死体」になった場面では「救いたかった!」という妹への思いを。
自分の全てをぶちまけても伸ばした手が拒まれた場面では「分かって欲しかった!」という父への思いを。
それぞれ、モロに刺激されてしまったわけですね。
なんとも巧みな脚本です。


しかし、「お互いに依存しあう相手が幸せになれば、杏子は満足して元の強がりに戻れないこともないのでは」とも思われます。
弱さとともに、そんな強さと、生きるための活力を持った少女として、佐倉杏子は描かれている------あの豊かな表情としなやかな動きは、生きるためのエネルギーの発露だろう、と。
勿論、それは相手が魔法少女になってしまったなら、とても難しい。
ただ、それであっても「相手も同じように強がった生き方を選んでくれる」ならば、二人肩寄せ合って生きて行くこともある程度はできそうです。


依存は依存でも、「まどか☆マギカ」本編でのような心中には向かうのは「必然」では多分なくて。
実際、杏子はさやかに強がりの共有を呼びかけたわけですし。あれが断られたのは、多分にさやかの方の問題です。
より相性がいい相手とならば------いずれ望みは擦り切れるという作中世界の定めではあっても------杏子にはしばらくの間、きっと別の未来があった。そう思います。


で。そう考えると「おりこ☆マギカ」の千歳ゆまの設定はえげつなく酷い。
「まるで杏子を追い詰めるためにされた舞台仕掛けだなぁ」などと思えてきてしまうわけです。
杏子や妹の窮乏は、他者のために尽くそうと励みすぎたばかりの「結果としてのもの」でしたが、ゆまの父は(あえて?)家に帰らず、母はストレスを虐待として幼い娘にぶつけている。
なんだか陰険な悪意を感じさせる設定です。


過去の自分に「似ている」ではなく、「過去の自分よりもなお悲惨だった相手」として杏子がゆまを認知したとき。
また、同年代のさやかとは違い幼いゆまが、守るべき対象だった妹とより深く重なってしまったとき。
「守るべき」という役割が、それを果たしてくれなかった自分の父と母と重なってしまったとき。


佐倉杏子はどれだけ、千歳ゆまに思い入れざるを得なくなってしまうのか。
そして、残念な予想として、その思い入れは千歳ゆまが健やかに未来に目を向けるには、かえって重荷となるのではないか。
あるいは、杏子とゆまが相互に向け合う願いと思いが、実に悲惨な形で利用され尽くしてしまうのではないか。


そう思うと、今後の展開に陰惨たるイメージを抱かざるを得ません。
嫌な話ですね。



また、他の新キャラについて言えば、美国織莉子の「美国」は凄い名字。
美しい国とか御国とかもありますが「あなた、その字面ってまんまアメリカですか」と。
随分独善的にやりたい放題暴れてくれそうな名前ですね。
それで「父親は政治家」というのだからエグい。面白い設定です。


そちらも杏子との関係性で言えば、千歳ゆまが杏子にとって主に「妹」が投影されるならば。
幼少期に「みんなが平和に暮らすため」がモットーの政治家の父に振り回された末、多分そこら辺が原因で魔法少女になり「私達が救世を成し遂げます」と全盛期の巴マミさんもドン引きの厨二発言を繰り出しすようになってしまった美国織莉子には「父」が。
そんな危ない人に対して「私は彼女に無限に尽くす」と宣う呉キリカには「かつての自分」が。
それぞれ、投影されてしまうのかな、と。


そこで、なんだかんだでとってもいい人な佐倉杏子は、きっとさんざん苦しむんでしょうね。


ゆま=妹に対しては「今度こそ守りたい」。
でも、ゆまは「役に立ちたい」から、きっと無茶をして、杏子を苛立たせ、悲しませるのでは。


織莉子=父に対しては「本当は和解したかった。せめて分かって欲しかった」。
でも、織莉子もきっと、歪んだ信念を曲げることはなく、杏子は悔しくも、激怒するのでしょうか。


キリカ=かつての自分に対しては、「ぶん殴ってでも止めて、目を醒ましてやりたい」。
でも、殴って止まってくれるくらいなら、世話はないでしょうね。杏子、報われません。


さて……そんな中、ここでも独りぼっちなのが我らが巴マミさん。
ですが、ひょっとすると、そんな彼女こそ、この物語の救いの神足り得るのかもしれません。


歪みきってしまった『おりこ☆マギカ』の願いと情念のもつれ切った糸を解く適任者は 誰あろう、我らが巴マミさんだ。


(多分)愛されて育ち、事故で家族を失い天涯孤独となり、魔法少女という過酷な運命に生きるために友人も居ないマミさんは、良くいえばそういったしがらみとは無縁。
「このもつれた糸は私の手にあまるわ。ああ、時よ、 おまえの手にまかせるわ、これを解きほぐすのは」(『十二夜』より、ヴァイオラ)。いや、頼るべきは時じゃあない。素敵で無敵な魔法少女巴マミさんなんだ。


織梨子「救世がー!」キリカ「本当の愛がー!」杏子「ゆまがー!」ゆま「杏子がー!」


好き勝手騒ぐ面々にマミさん「少し、頭冷やそうか」「おはなし聞かせて!」(私も混ぜてよ!)と全力全開、ティロ・フィナーレでお仕置き。
なお、虚淵ワールドの魔法に非殺傷設定などという生温さがあろう筈もない。塵より生まれしものは塵へと帰る。ゴルディアスの結び目に対する、信頼と実績のイスカンダル式解決法だ。
お話は因果も時間も踏み越える「円環の理」に導かれた先で、紅茶でも飲みながら優雅に聞かせてもらおう。
文句があるならベルサイユ……じゃなかった、円環の理にいらっしゃい。



そこでは我らがマミさんはぼっちではない。
私も魔法少女、あなたも魔法少女。広がる友達の輪。素晴らしい大団円だ。


「円環の理」なまどか様
「うん。皆の祈りが絶望で終わらなかったなら、全然問題ないよ!(満面の笑み)」

お墨付きも出た。めでたし、めでたし。


なお、ベースとなる話は今日(12日)、主に『魔法少女おりこ☆マギカ』関連のやりとりの一環として昼頃にtwitterで呟いていたのですが、そのtoggeterまとめもありますので、宜しければそちらもどうぞ。
他の方の意見もそれぞれ面白く、お勧めです。

【販促】おりこ☆マギカ かずみ☆マギカ 読後感想 (依存の問題系)
http://togetter.com/li/134655

まぁ、あと、『まどか☆マギカ』関連は主にtwitterで呟いていることが多いので、もし関心を持って頂けたなら、twitterアカウントhttp://twitter.com/sagara1をフォローでもして頂けると幸いです。はい。

○2011-06-13 ムラ黒江『魔法少女おりこ☆マギカ』全二巻を「漫画の形をとった激しくも鋭い『魔法少女まどか☆マギカ』批評」として読む。
http://d.hatena.ne.jp/skipturnreset/20110613
※二巻(完結)まで読むと、感想が大幅に変りました。なるほど、そう来るのか。


なお、この日記でも少しだけ触れた、佐倉杏子というキャラクターの大きな魅力「強さと、生きるための活力」は特に戦闘描写での表情の豊かさ、動きの躍動感に鮮やかに現れていると思えます。
それは美樹さやかが戦闘において常に漂わせ続けた切迫感、悲壮感と対照的でもあって。
その杏子・さやかの対比を、色んなアニメの類似表現集、
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のようにまとめていけたなら、きっと面白いんでしょうね。


ちなみにこの動画では、


○まどか・さやかがそれぞれ自室の窓を開ける場面の対比
○まどか、ほむら、杏子(杏子は0:43〜0:44及び1:03-1:04)が「走る」場面の対比(これにさやかの影絵戦闘での疾走も含めると楽しそう。あと杏子の「走り」はこの日記末尾に引用掲載してる「【MAD】魔法少女まどか☆マギカの法則」1:52-1:55で引かれている場面もとてもいい。良いところ切り取ってくるなぁ))
○ほむら・さやか・杏子・マミが変身後に舞い降りる場面の対比


などが興味深いところ。
あと、QB「いずれ魔女になる君達は魔法少女と呼ぶべきだよね」と、自称異星人エリオ(『電波女と青春男』)お目見えシーンは「これは(放映時期から考えても)単なる「シャフ度」のかぶりでない、シャフトのセルフパロディなのだ」というのが説明など抜きにわかるように明示されていて楽しい。
あとは個人的に、他アニメとの比較で分かってしまう絢辻さんの殴りの本格派っぷり(しかもあの後連続技に移行!)と、別のアニメ(題名がわからない……)の蹴りモーションと『TIGER&BUNNY』のバーナビー爆弾蹴り上げの一致っぷり、なのはさんの開眼の溜め等が面白いと思います。
この合作MADでは特に冒頭と締め括りの銀(=銀月はる)さんの担当部分が素晴らしいように思え、この人のまどか☆マギカMADは他にも好きでたまらないものが多いことも併せると「なんにでもやたらと巧い人というものはいるものだな」と思わされます。凄いなぁ。
そんなわけで、作者な人のtwitterアカウントのTLを眺めていると、いろいろ参考になったりもします。
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