マルコ・イアコボーニ『ミラーニューロンの発見』感想。

マルコ・イアコボーニ『ミラーニューロンの発見 「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学』(塩原通緒・訳)感想。

ミラーニューロンの発見―「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

ミラーニューロンの発見―「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)


まず「ミラーニューロンって何?」という概要は横着してwikipedia(以下wiki)参照で。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%B3
以下、それも踏まえつつ本の記述について気になったことについて。


ミラーニューロンの発見は1996年と15年程前で、まだ年季の極めて浅い研究。
wikiにもあるようにマカク(ザル)を用いた実験から発見された。
実験で判明したのはwikiから引用すれば「自ら行動するときと、他の個体が行動するのを見ている状態の、両方で活動電位を発生させる神経細胞」の存在とその所在の特定。
それを根拠に「他人がしている事を見て、我が事のように感じる共感(エンパシー)能力を司っている」(wiki)と仮説が立てられ、その仮説を元に「神経科学におけるこの10年で最も重要な発見の1つであると考える研究者も存在する」(wiki)とのこと。


ミラーニューロンなるものが存在するというのは「模倣、共感をある程度限定された神経細胞のネットワークが司っている」ということであり。そうであるならば模倣や共感及び後述する間主観性といった問題に対し「細胞レベルで実証的に研究が出来る」ことになり、そこに大いなる意義があると考えられる。


ただし、マカクザルでは出来てもヒトについて「細胞レベルでの研究」を行うのは極めて困難であって。
ヒトについての正しく「実証的な研究」としては依然、解剖学的な相似を通しての類推を基盤にした(せざるを得ない)非常に問題があるものではあるらしい。


※ヒトにおいては『ミラーニューロンの発見』によれば

ミラーニューロンのある領域は明確に特定でき、解剖学的にとてもよく似ていて、いずれも前頭葉とその背後の頭頂葉に位置する。そして重要なのは、人間のミラーニューロンのある左前頭葉の領域がブローカ野であることだ。そこは人間の脳の中で、言語にとって重要な意味をもつ部位である。そこにミラーニューロンがあるということは、ミラーニューロンが言語の進化における神経面での決定的要素であるかもしれないとの仮説を裏づけることにもなっているのだ」(p84)

とのこと。


もっとも、近年は「機能的核磁気共鳴画像法(fMRI)による脳イメージング研究」や「経頭蓋磁気刺激法(TMS)による運動誘発電位の計測」といった手法を通じて間接的に検証されて来ているようだ。
で、著者であるイアコボーニはどうやらこの二つあたりの権威らしい。
そこでイアコボーニは本書において関連する実験の数々を(そもそもfMRIだのTMSだのが何であるのかも含め)説明しつつ。ヒトにおける「ミラーニューロン」の存在を前提としての、ヒトと社会についての応用可能性に満ちた多彩かつスケールの大きな仮説を多数、雄弁に語っている。そういう事情でこの雄弁は相当に割り引いて考えたいところがあるのだけど、その仮説たちはあまりに魅力的で関心を惹かれざるをえないところ。


とりわけ本書末尾近くで著者がいう、

「意識的なレベルでの他人の理解に対し、意識以前の神経生物学的なミラーリングのメカニズムがあることを明らかにしてしまった」(p325)

という話が興味深い。
ベンジャミン・リベット『マインド・タイム』とも大いに関わりそうだ。

備忘録:ベンジャミン・リベット/下條信輔・訳『マインド・タイム』感想
http://togetter.com/li/161576

マインド・タイム 脳と意識の時間

マインド・タイム 脳と意識の時間

また、かなり後で触れることになるが「ミラーニューロン」はリチャード・ドーキンスが提示した「ミーム」という概念にようやくまともな裏付けをもたらし得るものであるのかもしれないと思えた。


かなり長くなるのだけれど、あまりにも興味深い話であるため。
最終章である第11章の第二節「間主観性の問題」から諸々引用しつつ話を進める。

「人々の間で意味が共有されるとする間主観性の考え方は、古典的な認知主義においてはつねに厄介な問題であった。簡単に言うと(これだけで何冊でも本が書けるような主題であるから、本当に簡単に言うと)こういうことである。もし私が自分の心にしかアクセスできなくて、その心が私しか直接にアクセスできない私的な存在なのであれば、私にどうして他人の心が理解できるのだろう? 私はどうやって世界を他人と共有できるのか。他人はどうやって自分の心理状態を私に伝えられるのか。
 一つの古典的な解答は、類推からの見解によってもたらされてきた。その流れを説明しよう。私の心とその心の活動を、私の身体とその身体の行動に関連づけて分析してみると、私の心と私の身体のあいだにはなんらかのつながりがあることに気づく(中略)この理解をもとに他人を見てみると、その他人の身体と私の身体のあいだには類似性が見える(中略)他人の行動は、他人の感情や他人の心のなかで起こっていることを理解するためのなんらかの手がかりになっているに違いないと。/この種の類推では、私は他人の心理状態を完全に確信したとは言いきれないし、他人の感情や経験を共有したとも言いがたい。しかし、他人が私と同じような心をもっているということだけは、妥当な確信をもって結論できる。
 それはそうだろうが、この見解は一部の思想家から激しい批判を浴びてきた。他人の心理状態をそのように理解するという論法は、私たちがつねひごろ、これほど自然に、苦もなく、迅速にやっていることにしては、あまりにも複雑だというのである(中略)別の種類の批判で(中略)この説に表れている自己認識が過大評価だとするものである。第9章で見たように、人間は私たちが思いたがっているほど自分の心理過程をきちんと把握していない(中略)人間にこの程度の自己認識力しかないのなら、自分に対する理解をどうしてそのまま他人に対する理解のモデルに使えるだろう? 論理的に言えば、これはできない------が、明らかに私たちはこれをやっている。実際に私たちは毎日何度となく、他人の行動を予測し、説明することができているではないか。ということは、自分と他人との抽象的な類推にもとづいた推論とは別のプロセスで、私たちはこれをやっているに違いない。
 類推論に対しては最後にもう一つの批判があり(中略)他人の心にアクセスする能力についての過小評価である。すでに見てきたように、魔法のようなトリックに頼らずとも、私たちの脳はミラーリングとシュミレーションの神経機構を使って他人の心にアクセスできる」(p316-318)


ここまでの引用が「間主観性」という問題の提示と、著者が批判し乗り越えるものと考えているらしい古典的な解答たちの説明。
そして、以後は著者の持論。

「私からすると、シュミレーションという言葉はどことなく意識的(引用者註:「意識的」に傍点)な努力を感じさせるのだ。しかし多くのミラーニューロンの活動を見るかぎり、私たちの脳内では他人を経験にもとづいて、意識する間もなく、自動的に理解しているとしか思われない。現象学の父といわれるエトムント・フッサールは、この現象を(もちろんミラーニューロンには言及することなく)「対化(ついか)」と称した。いい用語だと思うが、これだと二つの個体で一対に、つまり一個の存在になるような響きがあるから、やや強すぎるかもしれない(中略)さらに第7章で見た神経疾患患者の細胞単位での記録を思い出してもらうと、自分の行動に対しては発火率が高まるが、他人の行動に対しては発火率が低くなる特殊なタイプのミラーニューロン------スーパーミラーニューロン------の存在が明らかになっている。この二つの神経機構によって、私たちは自己と他者とがお互いに模倣をしているときでも、その両者をある程度まで別々に独立させながら自分の内部で表現することができる。
 そう考えると間主観性いおけるミラーニューロンの役割は、純粋な「対化」というよりも、相互依存の許容とでも表現したほうが正確かもしれない。私たちはミラーニューロンの仲介により、他人の意図を理解し、ひいては他人の未来の行動を------やはり意識する以前に------予測することができる。ミラーニューロンが可能にする自己と他者との相互依存は、人々のあいだの社会的相互作用を形成する。その相互作用の中でのい自己と他者との実際の出会いから、両者を深く結びつける実存的な意味の共有が生じるのである」(p319-320)


以上の論述が

「「意識的なレベルでの他人の理解に対し、意識以前の神経生物学的なミラーリングのメカニズムがあることを明らかにしてしまった」(p325)

ということの詳細だと思われる。


で、ここで僕が個人的に思ったのが。
この話はおそらくベンジャミン・リベットが実験で極めて高い信憑性を以て証明し広く受け入れられている/受け入れられつつある、

アウェアネス(意識/気付き)は感覚より0.5秒近く遅れて訪れ、無意識はそのずっと以前、100ミリ秒前後で行動決定を為している。その決定はプロスポーツ選手の反応や数学者の難問からの解の導きなどが含まれることからも分かるように高度かつ複雑なものも含む>

という話と繋げると分かりやすくもあれば、より興味深くなるのでは、ということ。


リベットの実験によると人の行動決定においてはまず無意識が決定を為し、いわゆる自由意志として問題にされる<状況を認識し気付き(アウェアネス)を以ての決定>はそれを遡及して拒絶する「拒絶の自由」として存在するということだった。
その「無意識の決定」において何が重要であるのかは『マインド・タイム』ではあまり言及されず、プロスポーツ選手や優れた数学者がアウェアネス抜きで行う行動への注目が主だった。
で、『ミラーニューロンの発見』でイアコボーニはその「無意識の決定」に非常に大きな影響をあたえるものとして、ミラーニューロンによる模倣と共感を捉えている……ように思える。


※ただし、その二つを根拠を持って関連付けるには<ミラーニューロンの発火がアウェアネスの条件である感覚から0.5秒近くより前に見られ、かつ、それが行動決定へと繋がっていっていること>が検証される必要があると思うけれど。『ミラーニューロンの発見』にそうした記述は見当たらなかったと思う。諸々苦しい。まぁ、それは措いて話を続ける。


そもそも『マインド・タイム』等を読むと「無意識の決定」とそれの(アウェアネスを前提とした決定に対する)重要性というのはいいとして。「その「無意識の決定」とはどんな経過と要因を以て行われるのか?」はまるで分からないな、と思わされたりした。
別の言い方をすれば、<あるルールの元「良い/悪い」を定められた場合、意識に至らない刺激でも人は有意に「良い」判断を成し得る>という事例は念入りに解説されていたけれど<人は何を以て判断の基準となる「良い/悪い」を定めるか>にはおそらくあえて触れられていなかった(と思えた)。


ここで、再度個人的に強引かつ極めて大雑把に考えると。


ヒトの判断における「良い/悪い」のベースにはドーキンス利己的な遺伝子』(1976)あたりから広く知られて来た「遺伝子の乗り物(ヴィークル)」としての基準があり。

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

延長された表現型―自然淘汰の単位としての遺伝子

延長された表現型―自然淘汰の単位としての遺伝子

そこに、やはり『利己的な遺伝子』で同時にドーキンスが提示した<しかしながら、人は「遺伝子の乗り物」としてのみ振舞うものでもなく。「ミーム(文化遺伝子)」というものが考えられるのだ>という話があったわけで。
そうして合わせて一つになった<「遺伝子の乗り物」でありつつも、ミームを自ら作り出しそれに影響されもしつつ「良い/悪い」を判断していく生き物としてのヒト>という構図があったと思うのだけど。


少なくともドーキンスの著作とそこで紹介される理論を(ドーキンスの著作内の範囲で)見ていっても、35年前のものは勿論として最近になったところで。
肝心の「ミーム」の在り方の定義や根拠ときたら、先だっての『マインド・タイム』の感想で触れたリベットの「統一された意識をともなう精神場(Conscious Mental Field)」どころでない苦しさなのは明らかと思えて。
やたらにミームミーム言いたがる人は素人目にみてもどうかと思えたりしていた。


しかし、どうやらミラーニューロンというのは「ようやく現れたある程度まっとうな「ミーム」の根拠付け」として機能しうるのではないかと思わされる。


実際『ミラーニューロンの発見』でも第2章「サイモン・セッズ」において、スーザン・ブラックモア『ミーム・マシーンとしての私』に言及したり、オックスフォード英語辞典の「ミーム」の定義「遺伝子によらない手段、特に模倣によって、受け渡されていくと考えられている文化の一要素」を持ち出したりしつつ。

「リゾラッティのチームは、ミーム仮説のこともよく知っていたので、さまざまな説明の断片がそれなりにうまく収まったとき、それまで思いもよらなかった新発見のニューロンの特性がミーム仮説に完璧に合致することに気がついた。それらの非常に特化された細胞は、模倣をはじめ、その他さまざまな人間の社会的行動を文句なしに実現してくれる脳細胞であるように思われた」(p73)

と明言しているわけで。
どうやら(イアコボーニの打ち出す大胆な仮説的には)そういうことらしい。


なおその見地からみて。
ミラーニューロンの発見』で「ミラーニューロン」の働きについて


(1)新生児の頃から「模倣」が始まっているという実験結果に対するミラーニューロンの作用を想定した解釈
(2)「身体化された認知(embodied cognition)」と絡めた話


が書かれており、とても興味深い。

「一九七〇年代、アメリカの心理学者アンドルー・メルツォフは発達心理学に一種の革命を起こした。生まれたばかりの赤ん坊がごく簡単な手ぶりやか顔の表情を本能的に模倣することを実証したのである。メルツォフがテストした新生児の中で最も幼かったのは、生後わずか四十一分の赤ん坊だった。生まれてから絶えず記録をとっていたので、メルツォフがこの実験で演じてみせた身ぶりを赤ん坊が事前に見ていないことはかくじつだった。それでも赤ん坊は身ぶりを模倣できたのである。したがって、新生児の脳にはこうした初歩的な模倣行動をやらせることのできる生まれつきのメカニズムが存在しているに違いない、とメルツォフは結論した(中略)ピアジェ派は赤ん坊が「模倣を学習する」と暗に言っていたわけだが、メルツォフのデータを解釈すれば、赤ん坊は逆に「模倣によって学習する」ことになるのだ/この二つには天と地ほどの差があるわけで、人間が模倣によって学習するという仮説はミラーニューロンの研究者に、この説明のギャップを埋めてみせるjという魅惑的な機会を与えた。新生児の脳はたいして精巧な認知技能をもっていないはずであるのに、その新生児が実際に模倣できるのだとすれば、この模倣のメカニズムは比較的単純な神経機構んき頼っているとしか思われない」(p67-68)


つまりヒトが生まれて後、一般にまず両親(特に母親)の身ぶり手ぶりや表情から多くを学ぶ。
(イアコボーニによれば)どうやらその時点からミラーニューロンを通じてミームが伝達されて行っているということになりそうだ、と。

「私たちの心のプロセスは身体によって形成され、その過程での身体運動と周囲の世界との相互作用の所産として、どのような知覚経験と運動経験を得たかによって形成される。この見方は一般に「身体化された認知」と呼ばれ、これをとくに言語に適用した理論を「身体化された意味論」という。ミラーニューロンの発見は、こうした認知や言語が身体化されるという仮説を強力に援護もしている」(p119-120)

「私の研究室で脳撮像実験を行った。リサは被験者に手の行動と口の行動を描写した文章------「バナナをつかむ」や「モモをかじる」------を読ませ、そのときの被験者の脳活動を測定した。そのあとで、今度は手を使っての行動(オレンジをつかむ)と口を使っての行動(リンゴをかじる)を写したビデオ映像を見せた。結果、被験者はそれらの文章を読むときも、映像を見るときも、手の動きを口の動きそれぞれを制御することで知られている特定の脳領域を活性化させていた。それらの領域は、手の動きと口の動きに対応する人間のミラーニューロン領域だったが、そこは被験者が手の行動や口の行動を描写した文章を読むときにも選択的に活性化されるのである。この実験結果を見る限り、私たちはミラーニューロンの助けを借りて、いましがた文章で読んだ行動を頭の中でシュミレートすることにより、読んだ内容を理解しているように思われる。私たちが小説を読むときも、私達のミラーニューロンが小説に描かれている行動をシュミレートして、あたかも私たち自身がその行動をしているかのように感じさせるのではないか。《ディスカバー》誌は二〇〇七年一月号で、二〇〇六年の心と脳に関する科学記事の上位六点の一つにリサの研究を選んだ。この号で、リサは私たちの言語機能を「肉体に本質的に結びついている」ものと表現した/もしそうなら、言語におけるミラーニューロンの役割は、言語を通じて私たちの身体行動を個人的な経験から社会的経験に変換し、人間の仲間全体で共有されるようにすることだと言える」(p122-123)


(最後の「もしそうなら」以降には例によって随分な飛躍があるなぁ)とは思いつつ。
このあたりからは(とりわけ「もしそうなら」以降のまとめからはわりとあからさまに)「ミーム」と「ミラーニューロン」を結びつけようという極めて興味深い仮説(だかイアコボーニの野心だか)が感じられる。
それがどこまで妥当であるのかどうか、今後の研究の進展に注目したいところ。


なお、感想本篇は以上なのだけど、以下、余談。


この本の著者、イアコボーニの(少なくとも『ミラーニューロンの発見』における)姿勢は、はっきりいって科学者としては相当胡散臭い。
正直に言って、第一章はあまりに科学バラエティ番組っぽい煽りだらけでドン引きしたりもした。
多くの仮説もわかっていてあえてやや過剰なくらい「大胆」にしていると見えることが多い。
第9章で語られている「インスタント科学」は実に面白いが、あまりにも山師的で良くも悪くも興味深い。


多分、ミラーニューロンの発見者としての栄誉を担うジャコーモ・リッツォラッティ他の研究者たちは「(各人各様ではあっても)イアコボーニとは科学者としてやや違った傾向を持っているのではないかな」とつい憶測させられてしまいすらする。
第5章で登場する当時大学院生だった研究者、ルシーナ・ウッディンとその手掛けた実験とその顛末を読んでも、やはりそう思わされたりする。なんというか、相対的に「まっとうだなぁ」と。
おそらく、僕は速やかにリッツォラッティ自身の手による『ミラーニューロン』も読んでみるべきなのだろう。そう思わされる。

ミラーニューロン

ミラーニューロン