あまり閲覧をお勧めしません。小説版『魔法少女まどか☆マギカ』についてのあれやこれや。

一肇『魔法少女まどか☆マギカ』小説版(虚淵玄監修の公式ノベライズ/発行:Nitroplus Books)を読んだ……のだけど。正直言って「どうしよう」と思えた。
感想がほぼ全面的なdisになり、公開するのもどうかと思えたが、吐き出さないのも精神衛生上宜しくない。


というわけで「閲覧をあまりお勧めしない」と断った上で、以下、数十行空けた後公開。
あまり読んで気分のいい文章ではないだろう。
「それでもいいや」という方だけ読んで頂ければと。





















まずはアニメ版の魅力に付いて。


何度もtwitterで書いた(及びtogetterでまとめた⇒「『BLACK PAST』掲載「宇野常寛×虚淵玄対談■すれ違いの先にある奇跡」及び村上裕一の『魔法少女まどか☆マギカ』論考「受胎の記憶---ループと忘却のメカニズム」感想まとめ」http://togetter.com/li/158189 )ように構造上の悪趣味について思うところは大いにありつつも。

○その構造をややはみ出た9話の佐倉杏子の輝き。
○11話で暁美ほむらの積み重ねた思いが兵器大行進となり炸裂する迫力。
美樹さやかの苦悩の重みと、概念まどか様もそれを救い切れないという物語の節度。
美樹さやかはとにかく可愛い。もうどうにもしょうもないところも14歳なら可愛い。
※最終回直後の感想がコレ(⇒「 『魔法少女まどか☆マギカ』において、美樹さやかが担った役割は重い」http://d.hatena.ne.jp/skipturnreset/20110422 )ですし)

以上のような美点もあり、作品全体としては、それらを支えた演出込みで強く惹かれるアニメだった。
欠点は大きくとも、背中合わせの美点が強調される相性と組み合わせの力が発揮されていたとも思う。


大雑把にいって「「希望」を随分歪んだものとしてしか描き得ない脚本家」主導による、だからこその切実さや美学の引力、「それでもなんとか描きたいんだ」という苦悩と苦闘が魔法少女たちの苦難と重なり合い、厄介だが大きな魅力が醸し出されていたのだとも思う。
勿論、それを描く上での演出その他の高レベルの力も大きかった。


「「希望」をなんとしても肯定したい」という話の割に「希望」の在り方についてあまりに乱暴過ぎではあった。
肯定される「希望」は瞬間的に将来の犠牲を前払いして「条理に反して歪みを生む」ことが前提なのだけど。
まずその前提がどうかとは思えた。


条理に沿って最善を尽くす「あるべき方向性」や、長期の継続による蓄積はおよそ志向されていなかった。
また「希望」はあくまで各人が個別に持つもので「希望」同士の相乗効果は視野に入らなかったようだ。
各人がどうにか繋がり得るとしたら「「希望」の対価としての犠牲」に拠るという酷い偏向があった。
また「希望」は「前払いして犠牲が払われている」時点で外部から概念様が絶対肯定して来る一方、当人がそれを肯定しきれなくなると、その恨みつらみをぶつけて解消することすら許されず「消される(アニメ版)」か、なお悪いことに「取り込まれる(小説版)」か。構造的にとってもディストピア


「希望」にせよ「友だち(友情)」にせよ、「育む」という発想が欠け過ぎていた。
一方で「全てを賭ける」とか「絶対許さない」とか「犠牲」とか「擦り切れる」とかが大好き。背中が煤けてる。
「折衝」という裏テーマの割には、全編を通じてあまりに気が短すぎた(短絡的といってもいい)。


ただ、その全般的な気の短さだか短絡さだかと……

○「1クールという尺の短さ」
○「新房×シャフトの「かつての前衛演劇」的でもあり、断片的な意味の乱舞として過剰であり煽情的である一方「じっくり染み込む」ような味わいは欠いた演出技法」
○「劇団イヌカレー空間」

※関連まとめ(まとめ後半参照)
「『反=アニメ批評2011summer』、『魔法少女まどか☆マギカ』関連の駆け足感想」
http://togetter.com/li/174722

あたりは大変相性が良かったのかもしれない。
蒼樹うめの画の力の大きさについても言うまでも無い。
元々制作側の各スタッフがそれぞれの手法において高い完成度と独自の魅力を高レベルで持ち寄っていた上、それらが相性良く合わさったこととが総体として「歪みや短絡、不備不足」よりも「切実や迫力、欠落ゆえの吸引力」を強調する作品として仕上げてみせたのだとも思う。


だが、しかし。
小説版ではそれらの魅力は諸々ぶち壊しになってしまっているかスルーされてしまっており、唖然とした。
更に付けくわえて「鹿目まどかの「友達」の定義だか感覚だか」と「概念まどか様の在り方」は両方とも本当に酷かった。
とんでもない話が展開されていた。


「みんなで持てば、重さなんて意味をなくす」(下巻p271)とおっしゃる概念まどか様。
「みんなで」ということは強制的に魔法少女のなれの果ての皆さんを取り込む概念と考えられるわけで。
QBですら「人間⇒魔法少女」では一応合意の上で契約する。「魔法少女⇒概念(の一部)」を合意なしに強制取り込みでやったらQBもドン引きの鬼畜では。
鹿目まどか当人ですら、謎のマミさんお茶会で巴マミ佐倉杏子との話し合いの場を経由したよね。
他の魔法少女たちにはそういう判断の場は与えられるの?(小説版の記述からはそうは見えない)
そもそも、まどかの決断は「自分が全てを引き受ける」というものだったのでは?
まったく、わけがわからないよ。


又、TLで指摘が相次いでいた通り、

※参考:「小説版魔法少女まどか☆マギカについて。(やりとりのまとめ)」
http://togetter.com/li/176084

まどか流の「献身」ですら済まない、えぐいレベルの「犠牲」を前提にした「友達」の感覚だか定義だかは二次遭難上等の蟻地獄。それはまずいよ、まどか。
ちなみに小説版まどか感覚で判断すると(小説版で諸々補足されていた)小学生からのさやかとの付き合いも互いに「友達」とは言えなさそうだ。ひどい話だ。


契約前に随分ほむらの思いも汲み取っているみたいで、これもアニメ版と随分違うが……とりあえず、それは別にいいとする。
ただ、さやかはアニメ版の<切なげに涙を流して(なんか言いくるめられて)消える>のでなく、小説版では「爽やかに」とか「とても満足そうに身を乗り出し」とか「強く頷き」「明るい微笑み」とか……。
随分とまた、概念まどか様シンパというか信者というか……いい洗脳のされっぷりだ。
言いくるめられるまでも無く、全力肯定でさやかも翼賛態勢入りか。
そうまで爽やかに割り切れるなら「なぜ魔法少女のままではやっていけないのか」がむしろわからない。


それと、杏子にとってさやかは「見ていられない相手」なのではなく(挫け歪んでしまった自分を)「かっこよく否定してくれる存在」((下巻p134)なのだとか……。
どこからどうみても長持ちしない、猛スピードで破滅まっしぐらのさやかのあの姿が杏子にとって「あたしがなりたかったあたし」(下巻p133)か。
そうか。杏子はそんなに先が見えない馬鹿か。随分と又、やらかしてくれたなあ。

※関連追記(8/19)。
林檎≒生命の寓意の受け取り拒否は、グリーフシードを巡るほむら、杏子とのやり取りと重ねられる。アニメ版は映像を通じて視聴者に(意識するにせよしないにせよ)連想として伝わる感があったが、小説版ではどうだろう。
また、「(それじゃどうにもならない)→(助けなきゃ)→相手が耳を貸さず拒否&更に杏子の手法を否定→相手の(周囲を巻き込んでの)悲惨極まる破滅」という経過はいわば父親との関係の反復といえる。
それで杏子にとってさやか自体が自身の過去と重なるとともに、トラウマと過去の悔恨とが全力で刺激もされ「さやかに父(とあと妹)を重ね、今度こそ救いたい、話を聞いてもらいたい」「不可能と分かっていてももう一度その破滅を見過ごすのは耐えられない。どんな稚い願望にだってすがらずにはいられない」というならば良く分かる。
もっとも、そこまで詰め込むとむしろ自分の側の行き過ぎた仮説という色合いも濃い。
とはいえ、ああも単純に「さやかに刺激されてあるべき初心に戻る」みたいに描かれた小説版には「ちょっと待てや」と言いたくはなる。


アニメでは映像における素晴らしい見せ場だった<暁美ほむら最後の戦い>はQBが用意された武装の規模を語るだけで後は全省略。
いっそ潔いといえないこともない。しかし、当たり前だがどうしようもなく寂しい。


こうして、アニメ版で個人的に作品全体及び杏子、ほむら、さやかの見せ場なり魅力なりと感じていたものは小説版では壊滅的な惨状になっていた。
一方、小説ならではの心理描写ははっきりいって地雷の山だった。


「一つの二次創作」として「それはそれで、そういうものかな」とは思いつつ……。
「お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではな(AA略)」という文字が脳裏に明滅するのはどうしようもない。


※なお、念のため書くと個人的に「原作アニメ至上主義(だか原理主義だか)」という立場は以前から取っていない。
むしろ「ただ原作に忠実なだけのコミカライズ(だのノベライズ。そしてより幅広く二次創作全般)ではツマラナイ」と考える。以下、参考。

○ハノカゲ版『魔法少女まどか☆マギカ』の良さについて。
http://d.hatena.ne.jp/skipturnreset/20110601
○ムラ黒江『魔法少女おりこ☆マギカ』二巻ネタバレ感想
http://d.hatena.ne.jp/skipturnreset/20110613