柳家三三で北村薫。〈円紫さんと私〉シリーズより『空飛ぶ馬』」(草月ホール:2011/12/17)


柳家小三治門下の若手人気落語家・柳家三三による、北村薫原作『空飛ぶ馬』表題作のやや変わった形での翻案劇。
今年三月に「砂糖合戦」、「空飛ぶ馬」と二度上演され人気を博していた(僕は残念ながらどうしても都合が合わず、その時は行けませんでした……)公演の、原作及び噺の時期=年の瀬に合わせての再演でした。


落語風の演技・演出を交えて(ただし服装はスーツ)の原作「空飛ぶ馬」朗読で始まり、話が名探偵役の落語家・春桜亭円紫の高座にさしかかったところで一旦引っ込んで着替え、作中で語られている噺(「三味線栗毛」)を一席。
中入りを挟み、朗読を最後まで続ける。
終了後は、演じた三三と原作者の北村薫先生とのトークショー


作中ではあらすじと円紫さんの独自のやり方として語られる演出などだけ語られる噺を本職の落語家が物語の流れを再現しつつ、生で演じる。


なんとも面白い試みで、堅実かつ気持ちのいい実力派として知られる三三演じる、円紫流……というより北村薫流演出の落語の味わいは勿論、基本、出来るだけ一字一句原作を忠実になぞりつつ、端々で独自のくすぐりやアレンジ、省略を入れた朗読部分も北村ファン&落語ファンとしてとても興味深く、楽しめるものでした。


北村作品翻案は映画、舞台、漫画、バレエ、TVドラマ、朗読+演奏、出題&解決篇の推理ドラマと目にして来たのですが、キャラメルボックス『SKIP』に次ぐか並ぶ位好きになれた公演です。

キャラメルボックス『SKIP』感想(2004年12月19日の日記。
http://d.hatena.ne.jp/skipturnreset/20041219
○『SKIP』はDVDも出ています。販売終了してしまっていますが、オークション等で見つかるかも?


なお、今後、5・6・7月にはやはり原作に時期を合わせ、

5月19日(土)「朧夜の底〜『夜の蝉』より」+「山崎屋」
6月30日(土)「六月の花嫁〜『夜の蝉』より」+「鰍沢
7月21(土)「夜の蝉〜『夜の蝉』より」+「つるつる」

といずれも東京・草月ホールでの上演が決まったという嬉しい知らせもあります。

※参考記事:「「柳家三三北村薫。2012」の上演が決定!」(朝日新聞
http://www.asahi.com/showbiz/pia/AUT201112170019.html

全て、上演終了後に北村先生・柳家三三でのトークショー付きとのことです。
勿論、僕も全て観に行く予定です。



ともあれ、以下、公演の感想です。


特筆したいのは、落語「三味線栗毛」と原作「空飛ぶ馬」との繋がりの美しさ。


「三味線栗毛」の終盤。長病に伏せり、誇りも砕かれ沈み込む按摩・錦木は、かつて懇意の客としていた大名の部屋住みの三男・角三郎が思いがけぬ成り行きで大名・雅楽頭となったと聞かされる。
「自分が大名になったなら、お前は検校(按摩の最高位)にしてやろう」という約束を思い出し、治りきらない体を押して、心逸りに家を転がり出る錦木。
年の瀬の江戸には雪が降っている。病身を杖で支えつつ暮れの人ごみをかき分けにかき分け、どうにか辿りついた表屋敷で門番に邪険にあしらわれた末の、角三郎の部屋住み時代からの忠臣・吉兵衛との再会。
錦木のやつれた体、病で伏せている間にちりぢりに伸びた髪に雪が積もった様子に同情し、不遇の放置を詫びつつ、懐かしさと親しみを露わにする吉兵衛。
雅楽頭との謁見を前に姿かたちを整えさせるよりも、この姿の方が殿も懐かしかろう、とそのまま錦木を連れていく。
感激の再会と、果たされる約束。そして、少しばかり時が流れての大団円……。


この錦木の頭に雪が降り積もり吉兵衛がそのまま雅楽頭に会わせた演出と、「空飛ぶ馬」の幕切れの《私》の頭を飾る雪とが重なって感じられるような流れが、嬉しく思えました。
冷たいのに温かい。辛さも苦しさも、やがて暖かさの前に溶け行くのだと予感と信頼があるならばそれを引き立て飾るものになる。
なんとも喜ばしくもめでたい、年の終わりに相応しい味わいでした。


また「三味線栗毛」の一席を通しての出来栄えも満喫。
部屋住み時代の角三郎のくだけた、人の間に自然に分け行って入って行くような魅力と雅楽頭となってからの柔らかくも高い格を持った風情。
吉兵衛の堅物であろうとしつつ、角三郎が好きでたまらなかったり錦木に一人の人間としてしっかりと接する人情味。
錦木のねじれた誇りや哀切と苦渋、それをくぐりぬけての体はぼろぼろながらも体に期待と喜びが溢れる様子。
中でも角三郎が大名となったと聞いて、家を出て年末の人いきれの中を進む錦木の姿は一際鮮やか。

僅かでも落語を聴くようになると、作中の噺にそれぞれ好きな演者を重ねてイメージしてみたりもします。
「三味線栗毛」は生の高座では聴いたことがありませんでしたが、例えば「絶品だった「柳田角之進」、大好きな噺と演者の組み合わせである「井戸の茶碗」等の印象で、とりわけ締めくくりの雅楽頭の涼やかさと温かさと器の大きさを併せ持った風情のイメージからはさん喬(以降も他の方も含めて敬称略)」、あるいは「市井に和やかに馴染んでいく角三郎の姿や、(北村先生版での)噺全体に満ちる温かみとめでたさからは市馬」といった具合にイメージを思い浮かべて来ていました。


それも、北村版アレンジでの噺を生で実際に聴けたということで、イメージとしてより豊かなものに出来ました。
これからはまず、原作を読めばこの三三版の「三味線栗毛」が思い浮かぶことになりそうです。


「山崎屋」「鰍沢」「つるつる」も「三味線栗毛」同様、来年からはより活き活きと脳裏に描き直せるようになるのかと思うと、期待が高まります。
各公演後の北村先生とのトークショーともども、今から楽しみでなりません。



また、先述したように、朗読部分も独自の妙味がありました。
例えばクリスマス会の子どもたちは「初天神」「真田小僧」「子別れ」あたりが連想されるどうにも悪戯でこまっしゃくれて、憎めない子供像が押し出されていて、原作とはまた違った祝祭的な賑やかさが新鮮。


《私》、高岡正子、庄司江美の三人娘の童話談義も(なにやら口調や顔つきの端々が長屋のおかみさんたちの井戸端会議じみていて、どうも原作より十かそこらは年上な感じがしてしまいつつも)活気に満ちた、瑞々しく生命が宿ったやりとりとして楽しめました。
例えば野村萬斎シェイクスピア劇やギリシャ悲劇で長台詞をやると、時折苦しくなったと見えるところでハムレットオイディプスの語りに太郎冠者な口調が入ってきてしまって、「これでいいのかな」とも思いつつも独特の良い響きと流れになりかえって味に感じられるのですが、そんな類の面白さです。


それと、シリーズ作品の中で「空飛ぶ馬」単品を扱うという事も踏まえつつ(?)、《私》の屈折というか話に残る《棘》がところどころで抜かれていたのが興味深く思えました。
自分個人の関心と思い入れからすると残念なところとは思えつつも、原作未読の方も含むだろう観客を相手にした上演として、また一回の公演としてとにかく温かさ、喜ばしさ、めでたさの色を強調したい演出として、とても納得のいくものとも考えられます。
そして、正にその《棘》の部分が大きく癒される『夜の蝉』を、かつ、その全収録作品を短い期間に連続で上演する次回公演ではどのように扱われるのか、一層楽しみともなりました。


今回の上演では《私》の姉に関わる部分がほぼごっそりと、また、《私》が「女」としての自分の(特に身体的な)魅力を(特に姉を第一として、友人たち(や国雄さんの恋人の田村さん)とどうしても比べてしまって)ややネガティブに気にする部分や、そのほかややセクシャルな部分が削られたり、アレンジされていたと思えます。


具体的には、


・《私》が風呂に入る場面(とそれに際して姉と自分との生まれ月や入浴の長さに触れるくだり)が削られる。
・(子供の写真を撮ることについて《私》の母が)「それだって最初のはアルバムに溢れるぐらい撮るけれど、二人目になるとなかなかね」という台詞が無い。
・お菓子のことで揉めて姉から「子供だね」と笑われて次の日に豪華な菓子が置いてあった一幕が消えている。
・「実をいうと今日、ハッピー・バースディをいってくれた初めての人が円紫さんなのだ」とそれに続く「朝遅く起きたら、父は年末の日曜出勤でいなかった。その掌中の珠である姉は〜」という下りも削除。
・謎解きにおいて原作で「円紫さんは、男であるご主人に聞いた」とあるところを円紫さんは(どちらにとも示さず)「間に合わなかったといえますか」と聞き、《私》がそれに答える形への変更。


といったあたりです。


これらは言い換えるならば、終演後のトークショーで北村先生が口にされてもいた「(《私》は)満たされないものを持っている子なんです」という「満たされなさ」にあたる部分になります。
その「満たされない」の大きな部分を、《私》の姉に対する(父親との関係と強く絡んだ)コンプレックス、外面・内面での性的な事柄への恐れと自身の無さ、それらを含む「自分は誰からも《選ばれない(・認められない)》のではないか」という漠然とした恐れと諦めが占めていると思えます。
例えば《私》の「朝遅く起きたら、父は年末の日曜出勤でいなかった。その掌中の珠である姉は〜」という独白、とくに殊更に「掌中の珠である姉」というのは"これが姉の誕生日だったら、父は無理をしてでも家にいて姉が起きるのを待ち、誰よりも先に「ハッピー・バースディ」を言っただろう"という屈折を伝えるものと思えています。


個人的には、錦木が病に伏せりプライドも打ち砕かれての懊悩と苦しみがその後の心躍りを一層飾るものとなるように。原作で色濃く描かれる《私》の屈折・コンプレックスが出てこそ、加茂先生に、円紫さんに、《アド・リブ》の御主人に思いがけず《選ばれる》《認められる》喜びが引き立つだろうと。「その《人間》という言葉は、ごくごく真面目な意味で《男と女のつながり》といい替えることも出来そうだった」という独白がより活きるためには、削られた《私》が《女》としての自分を外面・内面で意識する幾つかの下りが惜しい。そう思えてもしまいます。


ただ、一方で例えばこの公演でこの物語に初めて触れる人のことを考えるならば、《私》の姉の影が強く出ては戸惑う事になるとも推測できます。
また、多くの人に選ばれ認められ癒されつつも《私》の大きなコンプレックスである(とりわけ父からの愛情を巡る)姉との葛藤は『夜の蝉』まで影を落とし続けるもの。
一つの公演として「年の瀬に、どこまでもおおらかで温かく、気持ちのいい物語を」と徹底するなら、綺麗に上演される話の中で片付くことに絞っていく、というのも一つの正しさ、意味と意義のある選択だと思えました。


以上、勝手な憶測ですが、例えばそう考えると納得のいく取捨選択だと思えます(一人で惜しがって、一人で推し量って、一人で納得する自己完結ですみませんが……)。
多くの条件の中で、様々な人々にとって満足がいく公演として、とても素晴らしいものになっていたと感じます。
個人的にも丁度昨晩、平塚での小三治独演会で(「長短」とともに)素晴らしい「芝浜」を聴けたことと併せ、よい年の瀬を過ごす助けを得ることが出来ました。


そして、続いて『夜の蝉』の全収録作品が連続上演されるとうことで、今回避けられ、削られた部分こそ核心となり「柳家三三北村薫」として併せてより魅力的なシリーズとなるだろうとも思えます。
柳家三三北村薫。2012」、強く期待して上演を待ちたいと思います。