『Frozen』(『アナと雪の女王』)感想まとめ。

『Frozen』(『アナと雪の女王』)感想まとめ。

Frozen(Blu-ray+DVD)北米版 2014 [Import]

Frozen(Blu-ray+DVD)北米版 2014 [Import]


いまさらですが、ようやく時間が取れたので先週土曜に『アナと雪の女王』(3D字幕版/川崎チネチッタ)を観てきました。
(なお、直前に『たまこラブストーリー』も。そちらも素晴らしかった!)。


あまりにありがちな感想ですが------感激しました。
なんという傑作だろう、と。
「ああ、現代版『雪の女王』はこうなるんだな」、と。
もちろんなにより『Let it go』が歌としても映像としても物語的にも最高であったと思えます。

すこし迂遠になりますが、まずハンス王子について語りたいと思います。
といっても、こちらの

「『アナと雪の女王』ハンス王子の解釈」-「鏡としてのハンス王子」
http://rednotebook.blog.shinobi.jp/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%8B%E3%83%BC/%E3%80%8E%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%81%A8%E9%9B%AA%E3%81%AE%E5%A5%B3%E7%8E%8B%E3%80%8F%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B%E5%AD%90%E3%81%AE%E8%A7%A3%E9%87%88

が書きたいことを凄く整理して書いてくれていましたので、申し訳ありませんが、まずこの解釈に乗っからせて頂きたいと思います。
実際、書かれている範囲において、僕も異論はありません。その通りと思えます。


で、その上でこう書きたいのです。


アナは明るく前向きに望みと世界への信頼を抱き、それを叶える力を外に求める存在。
その求めを鏡としてハンス王子は返していたのだ、と(なお「ハンス王子はアナのみならず、彼と接した他の人物に対してもやはり「鏡」として機能していた」というのは、先掲「鏡としてのハンス王子」にある通りと思います)。


一方、その姉エルサは内なる力を制御できず、望まぬままに他人に振るい、愛する者も(そうでない者も等しく)傷つけてしまうキャラクター。
それにより外との接触を両親によって閉ざされ(まず「閉ざし」でなく強く「閉ざされ」た、と強調したい)望むことを禁じられ、自らに禁じ、世界への不信の内に閉じこもったのですね。


すなわち姉妹は一つの魂の鏡像であり、力と望みに対する態度と関係、世界に対する信頼と不信において対称性を持つのだと自分は解釈しました。
それに基づき、クライマックスについて以下のように説明したいのです。


エルサは暴力的に罪をつきつけ死を願う相手にすら、その力で傷つけ排除することを抑え、世界に助けを求めました。
ここで、先に触れたようにハンスは彼女が最初に犯した罪の相手であるアナの鏡像なのです。
彼女は今度は追い詰められたこの時、アナを撃たなかったのです。
ここに贖いが認められます。
両親が望み強制し、彼女も切望し続けた「制御」もここに叶ったことになります。


一方、アナはこれまでずっとそうしてきてしまったように外(クリストフ)の力に救いを求めてしまいそうだった歩みを変えます。
その望みの負の面を写し撮ったハンスが姉に襲い掛かるところを、自らの身を盾に自らの力で防ぐべく身を投じたのです。
ここにおいて、アナが持っていた無条件の世界への信頼という魅力であるとともに甘えであり、時に罪とすらいえただろうものは変容しました。
世界の厳しさも見据えつつ、アナは自らの力で、その甘えと罪が招いた……というよりもそれそのものであるハンスの凶刃を防いだのです。
ここにも同じく、贖いがあります。


こうしてエルサ、アナのクライマックスでの行為について「贖い」と書き続けたのですが。
マイナス方向の色を強烈に帯びたその言葉で捉えたことについては、前向きに「和解」「調和」という言葉で括ることもできます。
むしろ、それをこそ強調するべきなのかもしれません。


エルサは『Let it Go』の歌と映像とで存分にあまりにも美しく活き活きと描かれきったように、押さえつけられた自我と力を一旦とことん解放し、その上でその結果とも、始まりの罪とも向き合い、望んだ「制御」に至る必要がありました。


一方でアナの無条件に世界に抱いていた信頼は(エルサの力と美しさ同様に)素晴らしい魅力なのですが、それは幾度も裏切られる必要があったのです。
幼い日に姉が妹に贈った、夏に憧れる陽気な雪だるまオラフにそのあたりの事情は見事に寓意されています。
オラフが無邪気に歌う「In Summer」をアナが楽しげに聴いたのち、クリストフがつぶやかずにはいられなかった「誰かが真実を教えなきゃ」という言葉は(それに先立つ安易過ぎる婚約と恋への批判とともに)たいへんに重要と思えます。
かつてアナを救ったトロルたちが悪意なくアナの初恋と婚約を軽く見て、彼らが愛してやまないクリストフとの結婚を進める無神経さと危うさ(とその魅力)もまた、アナの鏡像かと思われます。
城の中でさえひとりだったエルサほどではないにせよ、アナも狭い城の中に閉じ込められ、実際に広く世界と、人と触れ合うことなく、孤独にただ望みだけを膨らませてきました。
彼女の歪みもまた、エルサ同様に一旦解放され、氷の試練を経て、健やかに再生される必要があったのです。


ラストにおいて、アレンデールの王国はアナの今はしっかりと厳しさも見据えつつの世界への信頼を写して広く扉を開き。
今は不信に閉じこもり善意も悪意も退けることなく制御され振るわれるエルサの素晴らしい力と美しさは、人々を明るく楽しませ、それをみた彼女の心もまた陽光の下に輝きます。


ジェンダーだなんだといった問題も読み取ることは可能でしょう、配慮もされているのでしょう、実際含まれてもいるのでしょう。
しかし、アナ(そしてエルサの)の危機とそれが(同時に)救われた理由は、「男など不要」とか「姉妹百合万歳」などではなく、第一義にはこれまでに述べた事情なのだと僕には思えます。


それと、初めに示したように字幕3D版で作品を観たので知らなかったのですが。評判が悪いらしい松たか子が歌うバージョンの『Let it go』和訳歌詞 をあとというか、つい先ほど読み、歌を聴きました。
あー……それは、いろいろ言いたくなりますよね、と。


まず、元の英語歌詞、松たか子歌唱版の和訳歌詞はそれぞれ検索でもして頂くとして。
元歌詞をみれば明らかと思えるのですが、エルサは自ら世界を閉ざすよりまず、両親によって閉ざされていたのですね。

Don’t let them in,
don’t let them see
Be the good girl
you always have to be
Conceal, don’t feel,
don’t let them know

といわれ、世界を閉ざされ続け、その呪縛に問われ続け両親の死後も自らを閉じ込め続けたエルサ。
しかし、断りきれない閉ざされた城の開放と自らの戴冠(⇒通過儀礼)の日を迎えて。

Well, now they know

いまや「隠せ、感じるな、知られるな」といわれ続け、それに従い恐れ続けてきたことは白日の下に晒されたのです。
嘆き悲しみ、逃げ出してた彼女はしかし必死に走り続ける中、自らの力を自覚し、それを振るうことの喜びを知ります。
冒頭の、

The snow glows white
on the mountain tonight
Not a footprint
to be seen
A kingdom of isolation
And it looks like
I’m the Queen.

は寂しい光景でもあり、映像でもエルサは表情には苦しみと見えるものを浮かべているのですが。
その内側からは実は既に自らの力の認識とそのことによる誇りもまた、強く滲み出てこようとしているのではと思えます。

Couldn’t keep it in, heaven knows I tried

も静かに耐え続けた哀しみを噛み締めるようでもあり、やはりそういう表情を浮かべていますが、そこには(それこそ、ここに至ってさえまだConcealされてしまっている)「もうたくさんだ!」という思いもあるのではと思えます。


しかしそれが、

Let it go,
let it go

と解放されたときは、直後に続く、

Can’t hold it back anymore

とその歌声が示すように、恨みと苦しみよりも、もう勝利と歓喜を謳い上げているのだと思えます。

Turn away and
slam the door

も、

I don’t care
What they’re
going to say
Let the storm rage on,

も、そういうことかと思わされます。

The cold never bothered me anyway

というのは、両親によって世界から閉ざされ自分を抑えこみに抑えこんだ、孤独とそして鬱屈の冷たさに比べれば。
自ら歓喜と解放感を込め振るうこの力、その暴威のゆえに人から離れなければならないことなど、なにほどのことがあるだろう。
私の力は、私を傷つけない。この力、存分に振るおう……めちゃくちゃに意訳すれば、そういうことなのではと思います。


曲も二番に入り、

It’s funny
how some distance
Makes everything
seem small
And the fears that
once controlled me
Can’t get to me
at all

まで来ると、もうだいぶ彼女の心には余裕がでてきています。

It’s time to see
what I can do
To test the limits
and break through
No right, no wrong,
no rules for me
I’m free

形としては「To test the limits」とは歌いつつも。
彼女は「break through」を確信しており、既に彼女はもう試すまでもなく自分の力を知っているのだと思えます。
和訳歌詞がいうような、好きになろう信じようという段階ではもうなく、彼女は自らの力とそれを振るう喜びを知っています。

You’ll never
see me cry

I’m never going back,
The past is
in the past

あたりは過去への訣別を意気高らかに謳い上げつつ、割と過去の諸々への恨みも滲み出てはいるかとも思えるところです。
そして、

That perfect girl
is gone
Here I stand
In the light of day

は勝利宣言であると共に、いかに彼女が傷つき、今も癒えずにいるか痛ましく示しているとも個人的に強く感じられるところです。


この作品の何よりの核である『Let it Go』の歌詞については、だいたいこんなところです。
勿論、これはミュージカル映画ですから。
あの歌声!メロディ!そしてあまりにも美しい映像美についての賛嘆も、改めてここに確認したいところでもあります。
歌詞はあくまで、その魅力のごく一部を伝えるに過ぎません。


なお、和訳といえば。


原題の『Frozen』もこれはそうあるべきなのであって、『アナと雪の女王』ではないよな、とも強く思わずにはいられないところです。


ラストにおいてエルサが今は自信と喜びを持ってしっかりと他者に目をやりつつ振るう氷の力は美しく素晴らしいものなのであり。
アナの無邪気すぎる世界への信頼も一度凍りつき、試され鍛えられる必要があったのですから。
「Frozen」------エルサとアナ、一つの魂を分け合った二人に訪れた「凍結」は、やがて彼女たちの迎える夏(オラフが無邪気に歌った「In Summer」を踏まえたいところ)を寿ぐための、必要な通過儀礼であり、振り返ってみれば心躍る素晴らしい冒険の旅路であったのだと思えます。


ちなみに、そのラストは翻案元となったアンデルセン雪の女王』と比べたくなるものでもあります。


雪の女王』はこんな物語です。


悪魔の創りあげた鏡の欠片が眼に入った少年カイは(神の教えからも外れた)ひたすら真実を求める知識欲の虜となってしまう。
少年は自ら招いた「雪の女王」の氷の城に連れ去られ、そこで「永遠」という文字を形作るべく完成しないパズルにひたすら取り組みやせ細っていく。
カイを救うため幼馴染の純真なゲルダは旅に出る。
虚しい世の栄華、老いの哀しみや孤独、暴力と寂しさといったものをあるいは通り過ぎ、あるいは取り込まれそうになり、あるいは厳しく直面させられつつも、少女は少年を神の愛の元へと救い出す(「永遠」という文字を形作ることができた)。
そして最後には「子供の心をもったふたりの大人」として、カイとゲルダは幸せな夏を迎え、神を称える言葉を口にする。


元々、原作『雪の女王』においてもゲルダがカイを求めるのは、男女の性愛よりも「失われた半身を捜し求める」という色合いが濃いのではないかとも個人的に思えます。


ただ、(「疑いようもなく正しい神の教え」を対立軸におきつつ)少年が真実を、知識を求めた原作に対して。
『Frozen』では一方で家族と社会に抑圧された自らの個性と力を爆発させた後、愛するものたちや世界との和解と調和を目指し。
表裏一体となるもう一方では、世界に向けた無邪気な期待と甘えが試練にさらされ、再生させられる。
そこの違いが優れた現代性でもあれば制作者の意図でもあり、全世界的な人気にも繋がった魅力の源泉かとも思えます。

※5/21追記。


なお、エルサが(『Let it Go』を歌い上げる場面で)自らの力を初めて存分に解放し、(今の孤独と過去のトラウマに苦しみつつも)その力を自ら愉しみつつ作り上げた「A kingdom of isolation」と。
ハンス王子が人々=他者の願望を反映する鏡として振舞い続けた結果として手中に収めようとしていた(※)、多くの人々が互いに関わりながら住むアレンデールとは、はっきりとした対比を見せていると思います。

※再度、こちらの
「鏡としてのハンス王子」
http://rednotebook.blog.shinobi.jp/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%8B%E3%83%BC/%E3%80%8E%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%81%A8%E9%9B%AA%E3%81%AE%E5%A5%B3%E7%8E%8B%E3%80%8F%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B%E5%AD%90%E3%81%AE%E8%A7%A3%E9%87%88
をご参照頂ければと思います。

ちなみに、エルサのように人里離れた場所でトナカイのスヴェンとトロールたちだけを友とし、孤独ながらもそれなりに楽しく過ごしつつ。
(エルサの力の象徴でもある)氷を切り出して人里に運び生計を立てていたクリストフは、やはりエルサとも対比されるべき存在として描かれているかと思います。



力と、望みと。
自らの内から出づる力/望みと、外に求める力/望み、それに外から求められる力/望みと。
関わりを避けることと、関わりに呑み込まれてしまうことと……。


アナ、エルサ、ハンス王子、クリストフ。そしてトナカイのスヴェンや雪だるまのオラフ、トロールたち、アレンデールやそこを訪れた人々といったキャラクターたちも含めた関係性や、物語を彩る多くの歌やその歌詞について。
そうした軸や視点を持った上で改めてみていくと、いろいろ面白いのではないかと自分には思えます。


それは、あえて一言でいってしまうならば。


「あの映画で描かれていたのはすべて、一つの心の中の物語なのでは」


という解釈が成り立つのでは、ということです。


背景としては「フィクション(特にファンタジー)の世界では物語がそういう形で描かれることはしばしばある」という話があります。
振り返ってみると、izumino(漫画研究家/ライターの泉信行)さんによる数年前のこのまとめ、

「優れたファンタジーとして読む『ジュエルペット てぃんくる☆』の素晴らしさ」
http://togetter.com/li/119316

に大きく影響されたというか、がっつり依存した解釈であるかとは思えます。
なお、当のizuminoさんからはこうして記事にまとめた感想を受けて、この映画についてまた別の受け取り方をしたのだという旨を伺ったりもしています。
気になる方は、下記発言↓からの一連のtweetのやりとりをご参照頂ければと思います。
https://twitter.com/sagara1/status/467289867710263297


また、上記まとめでもそういう趣旨で語られているかとも思えるのですが、本日記のように作品世界を、とりわけ、

「アナとエルサを一人の人格の二つの(代表的)側面(一体としての姉妹)として捉える観方」

は、珍しいというよりある種、定番の視点の一つといえるのではないかと思います。


それについて、twitterでのid=norseさんとのやりとりも参考として掲載しておきます。

「『アナと雪の女王』(『Frozen』)のごく普通(と思える)解釈を巡ってのやりとり」
http://togetter.com/li/672502

5/30追記。


劇中歌『Let It Go』について、下記の様な面白い記事がありました。

"Let it go"と「ありのまま」の違い(小野昌弘)
http://bylines.news.yahoo.co.jp/onomasahiro/20140527-00035720/

示唆に富む、優れた評と思います。
ここで、記事ではしっかり言及しながらあえて強調していないと思えるのですが、よりはっきり書いてみてしまうと。


劇中歌『Let It Go』で(EDは又だいぶ違います)後押しされているのは「人より少し強い力をもっている」し"自分の力を既に自覚している"人なのであって。
これから「自分探し」しようとしてる人ではないのだろうと思えます。
もし、これから探しに行く段階だったら、ひもじくなってまた帰ってくるだけ(ただの家出)に終わるでしょう。
氷の城も孤独の王国も築けません。「行為と結果に落胆」するだけで終了です。


ただ、劇中歌はエルサ役の声を担当した人(イディナ・メンゼル、日本語版だと松たか子)が歌うのに対し、あえて声優として物語に登場していない歌手(デミ・ロヴァート、日本語版だとMay J)が担当しているED曲『Let It Go』は、その印象も意味するところもおよそ異なるとも思えます。
それは"既に過去となったあの時を振り返る、今は真の中庸と自信、希望も喜びも得たエルサの歌"と捉えることも可能ですが。
"エルサのように"特別"でない(あるいは未だ自身にそれを見出せていない)人へのフォロー"としても受け取れるのでは、と。
そこら辺はいかにもディズニー的な巧さだとも思えます。

6/18追記。

twitterで(SF作家の)小川一水さんにすこし、アナ雪の感想について伺ってみました、以下、やりとりです。


ブログ用にレイアウト等を編集していますので、元のやりとりを参照したい方は、
僕のtwilogのこちらでもご参照ください。

小川一水さんによる連投(の一部)
2014年05月30日(金)
小川一水@ogawaissui
アナ雪のレリゴーとありのままの違いについてもっと深く考えねばならんなーとか思っていたけど、俺、もともと花とゆめリナ・インバースもみゃあちゃんも大好きな、少女に感情移入するタイプのオタクだから、なんかもうどっちでもよくなった。ていうか昔その段階があって、今そのあとのおっさん段階。
この抑圧やらジェンダーやらの流れでウッジョブにまで思考を広げると、なんかもういろいろ絡み合って重くなったすえに重力崩壊しそうなので、麦茶でも飲んでくる……。
このなんだ、思考には自己誘導性があるというか、たとえばある一つの作品をちょろちょろジェンダーについて考えていると他の何でもかんでも一切合財をジェンダーに結び付けたくなるようなところあるね。ちょうどツイッタで興味のあるツイートばかりRTすることで、その流れに縛り付けられるみたいに。

小川一水さんによる他の方へのリプライ)
いや女性の方で、英語版はおっさんへの叛逆要素があったのに日本語版はそれがない、嘆かわしいことだみたいなことおっしゃってる方がいらして、ずっと引っかかってたんです。叛逆せねばならんのかなーと。

○以下、僕のリプライです。
2014年05月30日(金)
相楽@sagara1
横から失礼します。劇中歌(EDとは英語版日本語版共に歌手も歌い方も違いますので)『Let It Go』は、歌詞と映像 https://www.youtube.com/watch?v=V9JJyztJLLA を見ると。
「重ねて命令形で強調される両親(及びそれに代表される世界)からの抑圧」と、それからの解放、「good girl」「perfect girl」という押し付けられたモデルへの怒りはありありと示されているかと思います。
ですので「叛逆せねばならんのかな」という話については「「(この映画では)せねばならん」という話になっているのでは」と思えます。
一方、エルサ(とアナ)が女性であることや作中の描写等をもって、どこまでジェンダーを問題視するべきなのかは大変難しい問題かと思えます(個人的には「当然に重要」というわけではないと思えます)。(続く
以上は割とはっきり言えることかと思えます。
より突っ込んだ話はブログ記事 http://d.hatena.ne.jp/skipturnreset/20140512/ にまとめていますが、多少長くもあれば散漫でもありますので、もしお暇があればざっと見てやって頂ければ、と思います。
突然の連投でお目汚し、失礼しました。

小川一水さんによる返信
5月30日@sagara1
小川一水@ogawaissui
ご指摘ありがとうございます。私が吹き替えアナ雪を初めて見たとき好ましく思った理由の一つが、まさにこの「反感を表に出していない」ところでした。しかしそれは翻訳によるものだったそうなので、翻訳スタッフの仕事に感動したのだということになります。それはそれでいい。
しかしじゃあ、英語版の叛逆のエルサは好ましくないかというと、別にそんなこともなく、知ってしまえばああそりゃ人間だから恨みつらみを溜めてるよね、当然だね、という気分になります。というか、それでもなおこのアイスパワーを復讐に使わないんだ、とやはり感心します。
しかしながら、彼女が両親に抑圧された、長年月閉じ込められた、というところは、まあストーリー上の優先度と尺の関係であのような扱いになったんじゃないか、あまりそこを足がかりに本編での彼女の心を理屈づけても、説のひとつにしかならないな、ぐらいに思っています。
そしてまた、私評論家ではなくて見て作るほうの者なので、あんまり虫眼鏡片手にこの話に接近してもどうよ、と自分に言い聞かせているところがあって。これ見たときの、すげーステキかっこいー、というインパクトをきちんと捉まえて覚えておくほうで行きたいです。長くなりましたが。

○僕からの再返信(お礼)
5月30日@sagara1
相楽@sagara1
丁寧なご返信、ありがとうございます。そして、創作者の立場からの受け手として作品から受けた印象の扱い方、とても面白く思えました。
どうしても『天冥の標』をはじめとする作品群と紐付けて考えてもしまうのですが、それ絡みでも聞かせて頂けてとても嬉しいお話でした。

○やりとりを終えての感想。
作品を細かくなんだかんだと観ていくことが「より面白く」ではなく、「正解(って一体なんだ)」を求めるようなものだったらひどくつまらない。
要は、その人にとって何が響き、面白かったり嬉しかったりしたかが大切。
わざわざ掘り下げるとしたら、それを増幅させるものであるべき。
それぞれの立場や生き方に応じてどう糧にしていくか(糧にする「必要」は別にないけど)という話でもある。
「そうだな、そうだよなー」と当たり前すぎるほど当たり前のことだけれど。
小川一水さんとの一連のやりとり
https://twitter.com/ogawaissui/status/472219935314157568
でそれを再確認できて嬉しかった。


アナと雪の女王』(『Frozen』)を最初に字幕版で観て、その上で翻訳版の話、特に劇中歌『Let It Go』の翻訳や歌い方を見聞きすると「ええっ!?」となってしまう人は多いだろうと思えるし、実際に自分もそうなった。
でも、最初に吹き替え和訳版でアナ雪を観たなら(例えば自分でも)全く違う印象になったろうし、その印象が(そうして観た人にとって)大切なものならば、それは大事にしたいし、あまり他人に理屈で手酷く扱われたくはないだろうとは想像もつくな……。
そういえば、同じく『アナと雪の女王』関連でいずみのさんの感想を伺ったときにも、
https://twitter.com/sagara1/status/467289867710263297
「映画(とりわけこの作品は)どういう背景を持った人がどういう状況で観たかも印象に大きく影響しがちで、そんなところも面白い」と思えたんだった。
他の方の話を伺ってみるのは、ホント、面白いな。


あと「観る人」だけでなく、「観た時の状況」などでも感想や印象、視点や重視したいものはまるで変わってくることもあって。
下手に自分と異なるものに対して攻撃的になるのは諸々可能性を狭めるし、侮辱的になるのはより一層、宜しくないな……


「グラスハートが割れないように」を『虚構機関』発売時に読んだとき。
作品そのものとして傑作である上に、小川一水作品の中でもとても面白いというか「他の小川作品と共にこれを書くことができる作家であること」がとても素晴らしいことなのでは、と(勝手に)考えさせられた事が思い出されたりする。


科学や論理を大切に思ったり、その良さを語ったり喜んだりすること、それを追い求めることと。
それを武器にして人を殴りつけたり馬鹿にすることとはまったく別だし、別であるべきだよな。


もっとも、ものには例外というものもあり。
叩かずにはいられない暴論というのもあると思う。

6/18追記。

現在、一部で話題となっている(?)

中央公論」掲載拒否! 中森明夫の『アナと雪の女王』独自解釈」
http://real-japan.org/%E3%80%8C%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%85%AC%E8%AB%96%E3%80%8D%E6%8E%B2%E8%BC%89%E6%8B%92%E5%90%A6%EF%BC%81-%E4%B8%AD%E6%A3%AE%E6%98%8E%E5%A4%AB%E3%81%AE%E3%80%8E%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%81%A8%E9%9B%AA%E3%81%AE/

なるものを読んでみたのですが。
これ、「拒否は単に質が低すぎたからでは?」と思えたりします。


まず、

「見かけは姉妹だが、実は一人の女の内にある二つの人格」

は「独自」でなく、ファンタジーあるいはホラーとして、ジャンルの上でもなんならディズニーという文脈を踏まえてでも、ごく定番の解釈(ファンタジーにおいては、とりわけユング派といわれるものに近い立場からの解釈)では?
https://twitter.com/sagara1/status/471139939455758336


続いて。

「王子様の価値を完全に否定したのである。『アナと雪の女王』のメッセージは明白だ。王子様なんかいらない。いや、王子様こそ極悪人だ」

というのはそんなに明白な話なのでしょうか。
別の視点、解釈もいろいろ有り得る、「明白」ではないことだと個人的に強く思えます。
具体的には原作『雪の女王』との関連をごく適当に突き放してる中森明夫の「独自」解釈より、この感想記事本編でも重ねて参照した、「『アナと雪の女王』ハンス王子の解釈」の方がずっと好きですし、作品内容・表現と引き比べても妥当と思えます。


更に。
アナはただ「凡庸」で「王子様を待つ(だけの少女)」というキャラクターでしょうか?
周囲へ向ける無垢すぎる期待と信頼、思い切りの良すぎる行動力は「凡庸」とは到底言い難いと、作品内容を振り返っても思わずにいられません。
エルサ同様、アナにも大きな役割が振り当てられていると僕には思え、本記事でもそう書いてきましたし、そう思える方は少なくないのではとも思います。
正直、「凡庸なのはアナではなくこの論の方では?」と思えます。


また、単に事実として。

「『レット・イット・ゴー』=『ありのままで』は世界中で唄われて、21世紀が生んだスタンダードナンバーとなった」

は、間違いもしくは表現として問題があるでしょう。
wikipedia『レット・イット・ゴー (ディズニーの曲)』の「外国語」の項には「英語版に加え、全世界41の言語で歌われている」とした上で、現地語の曲名とその英訳が載せられていたりします。
「『ありのままで』は世界中で唄われて」は、中森さんの脳内世界の出来事であって、現実世界とは大いに異なるようです。


それと。
本記事でも書いたとおり、ストーリーの流れからも英語版『Let It Go』歌詞でも強調されていると思えるのですが、エルサが受けた抑圧はまず両親からのものでしょう。
中森明夫さんがやけに「共同体から追放」「共同体の良識から追放」と(意図的にか気づかずしてかは損じませんが)強調することにも問題を感じます
アナと雪の女王』のエルサについて両親の抑圧を強調してしまうと、「松たか子と神田沙也加も雪の女王だった!」とは言いづらくなりもしそうですね。


また、僕自身があまり詳しくないのでここでは「そういう意見もある」という話にとどめますが。
ディズニー映画についてプリンセスの役割云々と触れているところも、近年のディズニー映画をきちんと観てきているのであろう方々に言わせれば、

「掲載拒否の理由はもちろん雅子妃への言及だろうけど『シュガーラッシュ』『プリンセスと魔法のキス』くらいは見てから出直せと言いたいかな。 / “REAL-JAPAN » 「中央公論」掲載拒否! 中森明夫の『アナと雪の女王』独自解釈"」
https://twitter.com/samurai_kung_fu/status/478795391660355584

中森明夫氏、わざとスルーしてるのかも知れないけど2007年の『魔法にかけられて』も観て欲しい。ディズニーで脱王子様してる問題作。
https://twitter.com/nnnnnnnnnnn/status/478731744263163904

ということだそうです。


それと、こんな意見も見かけました。

中森明夫さん@a_i_jpも誤解してるみたいだから改めて叫ぶよー。アナにかかった魔法をといたのはエルサじゃないよ!!!
http://d.hatena.ne.jp/chili_dog/20140528

リンク先は、tweetされた方自身の感想記事、

『アナの魔法を解いたのはだれか?「アナと雪の女王」 (なまじなまなか)』
http://d.hatena.ne.jp/chili_dog/20140528

『Frozen』(『アナと雪の女王』)における、和訳=「真実の愛」、元台詞&歌詞="An act of true love"の違い等に特に注目した感想です。
個人的に、頷けるところが多い評です。


以上、見てきたように。
映画本編についての仮説の提示と、その作品へのあてはめ・検証はとても粗雑であると思います。
冒頭の繰り返しになりますが、「見かけは姉妹だが、実は一人の女の内にある二つの人格」といった複数の主要人物又は作品世界全体を、一人の人間の内面の物語として捉える見方はファンタジーやホラーといったジャンルに沿った/近い解釈を取ればごくありふれたもので。
「切り口」としては、取り立ててもの珍しくも、特別でも、意義深くもないと思われます。


ならば、問題となるのはまず、その見立ての作品と照応させての妥当性でしょう。
現実の日本の著名人・芸能人などについての言及に話を飛躍させるのは、提示した仮説の作品にあてはめでの妥当性という基礎の上でなされるのでなければ、単なる暴論です。
更に「飛躍の前提となる基礎があまりにも杜撰」ということに加え、そのいい加減な仮説を振り回して日本の著名人と社会に言及していく手つきも乱暴かつ無駄に無礼と思えます。暴論の二段重ねですね。


槍玉に上げられた著名人の不快を覚悟してまで、論壇誌がとりあげるべき論であるとはとても思えません。
事と次第によってはケンカや論争、紛争も拒まない人や媒体、組織であっても、掲げる旗は選びたいと思って当然では?と思わずにはいられません。


勿論、「自分や自分が好きだと思える『アナと雪の女王』解釈が絶対に正しく、他は間違っている」などと思うわけではありません。
たとえば、本ブログ記事内で触れたいずみのさん、norseさん、小川一水さんの作品解釈・感想と僕のそれとは各々大きく異なります(といいますか、僕の感想のいわばネタ元であるいずみのさんはこの作品に関しては内面世界の出来事という説を採っていませんし、小川一水さんはやりとりを観て分かるとおり、いってしまえば僕のような論じ方に否定的です)が、僕は自分のものだけでなく、他のお三方の見方もとてもとても好きです。
ただ、「感想は人それぞれ」にしても、ものによっては「これはあんまりなのでは」という話はありますし、あくまで個人の感想としてそう述べてもいいだろうと思います。
これもあくまで個人の感想ですが、作品そのものをものっっっすごく適当に扱い自説の道具にし、毎度毎度似たような手癖でいい加減なことをさも重大事のように語る人は嫌いです。


冒頭の前書き(?)にあるように

「映画公開から3か月を経て論壇誌に載る批評文」

がこの内容であれば、繰り返しますが、論壇誌の方だっていささか思うところがあって当然なのではと思えたりします。


このやりとり最後で書いたとおり
https://twitter.com/sagara1/status/471139939455758336
これまでは中森明夫さんの『アナと雪の女王』についての本論がどうなるか興味があったのですが。
今はこうして(同様に野次馬的関心として)「(不当に)掲載拒否された!」とやられた中央公論側の言い分もぜひ、聞いてみたいところです。