※『ヴェネツィア便り』収録各作品の内容に大きく触れます。
未読で、いわゆるネタバレを避けたい方はご注意ください。
現在、この作品を課題本とした「「贅沢な読書会 第二十二回」北村薫×瀧井朝世」という企画に一読者として参加させて頂いています。
2月4日(日)17:30-19:30 瀧井朝世さんと参加者による読書会
を終え。
2月11日(日)17:30-19:30 北村薫さんを囲んでの読書会
を控えている中で。
2月4日の回に色々他の読者の方の感想などを伺い、自分も幾らか語らせて頂く中で諸々考えたことなどをとりあえずまとめさせて頂き。
11日への準備の一環としたいと思えました。
大学二年の頃に『秋の花』で初めてその作品に出会って以来、北村先生は常に最も好きな作家であり続けてきているのですが。
北村作品を課題本とした読書会は初体験で、諸々、大いに参考にも刺激にもなりました。
11日にまたお会いすることになりますが、読書会のモデレーターを務められている瀧井さんはじめ、まず参加者の皆さんへの感謝を記しておきたいと思います。
改めて、ありがとうございました。
4日の読書会ではまず瀧井さんによるレジュメ。
・北村先生の略歴
・主な作品と主なシリーズ
・簡単な作風の紹介
・『ヴェネツィア便り』の特徴
・「モデレーター・瀧井さんからみなさんに訊いてみたいこと」
を簡潔にまとめた資料が配布されました。
ここで本ブログ記事をまとめさせて頂く上で、そのレジュメをこちらでも添付し参照しつつ書き進められると良いかと思ったのですが。
お伺いを立てた所。
「あれは参加された方たちだけのものとして、そのままアップするのはご遠慮いただけないか」
「私の設問に沿ってお話ししてくださいましたし、その部分を引用するのはかまいません」
とのお話でしたので、そのようにさせて頂ければと思います。
<モデレーター・瀧井さんからみなさんに訊いてみたいこと>
・北村作品を読んだことがあるか、好きな作品は?
・愛読者にとってこの本の位置づけ。
(特に日常の謎系が好きな方は、それ以外の北村作品をどう読んでいるのでしょうか?)
◎本作の中で好きな短篇、気になった短篇とその感想&疑問
・北村作品の女性像についての思うことは?(何かあれば)
読書会でも上記の設問に沿って、一参加者としていろいろ話させて頂きました。
このメモも、その流れで記していきたいと思いますが、多少長くなりますので。
まずは以下、最初にポイントとなりそうな事項を箇条書きで示します。
- 《時と人》シリーズの一冊としての『ヴェネツィア便り』
- 読者に多くを託す作風/一ファン、一読者としての読み方の例示を幾つか。「くしゅん」「黒い手帳」他。
- 一冊の本としての流れ。構成から見て取れるもの
- 北村作品の怖さ。断じて一面的でない複雑さ、あえて言うならば「意地の悪さ」について
- 「高み」について(雑誌初出時の感想紹介)
では、先述の設問に沿って、続けます。
・北村作品を読んだことがあるか、好きな作品は?
大学二年の時にたまたま『秋の花』に出会って以来、北村先生は常に一番好きな作家であり続けています。
書籍化されたものは全て、雑誌掲載のものなども幾らかは読んでいます。
縁があり、これまでに『ミステリ十二か月』 (中公文庫) 、『紙魚家崩壊 九つの謎』(講談社文庫)では一読者として解説を書かせても頂きました。
ですので、とりあえず愛読者であるとは思いますが。
特に出版業界等とも取り立てて縁もなく、ライター活動などもしておりませんので、(こうわざわざ断るのも変な話なのですが)読書会で話させて頂いた諸々の感想も、こちらのメモも当然に一読者として個人的なものとして出させて頂いています。
・愛読者にとってこの本の位置づけ。
まず「(愛)読者にとって」という設問とややズレる観もあるのですが。
『ヴェネツィア便り』は一冊の本としてまとめて刊行されることで《時と人》シリーズに属する一冊と位置づけられているかと思えます。
外形的にはまず、版元さんからの紹介末尾にも「プリズムの燦めきを放つ《時と人》の15篇」とあり。
『ターン』『スキップ』『リセット』の《時と人》三部作と同じ新潮社からの刊行であり。
担当編集者はおなじみ、新潮社で刊行される北村薫作品は全て携わってきている北村暁子さんであるといった話があったりします
一方で、巻末の記載を見れば分かる通り、出典は2008年~17年の広い期間に渡り、掲載誌等もまちまち。
しかし、勿論当然に重要なのは内容です。
これがいずれも、まさに《時と人》の物語であるのだと思えます。
物語の中で解ける謎、たどり着く、あるいは抱くことになる思い。
それは各々の登場人物が作中で人生を歩み、時にその中で短くない年を重ねたりもしつつ、<その歩みを経たその時>だからこそ解ける謎、抱く思いとなっています。
それがわかりやすい作品もあれば、わかりにくいものも。
そして、一冊の本としてまとめられ、この並びとして読者に提示されることで生まれてきている何ものかもあるのだとも思えます。
なお、並び・構成については後でより詳しく観ていきますが……
とりあえず触りだけ。目次がこうで。
「くしゅん」(「白い本」)「大ぼけ 小ぼけ」「道」のひとかたまりが(「白い本」を除き)"夫婦の話"。
「指」「開く」「岡本さん」「ほたるぶくろ」は"不思議な力や幻想(が絡みつつそれぞれ何ごとかの暗喩だったり象徴していそうだったりする)の話”。
「機知の戦い」「黒い手帳」「白い蛇、赤い鳥」は"学問や創作の世界での対抗心や妄念執念、才能とプライドといったものの話"。
「高み」「ヴェネツィア便り」は"これまで歩んできた《時》を振り返り人生を受け入れる話"。
……と、まずは例えばそんな風にそれぞれのかたまりを見立てることもできそうです。
また、それ以外にも前後の繋がりなどで面白く思えるものがいくつもありますので、順次触れてもいきます。
ただ、ここではともかく「意味もなく作品がこう並んでいるなど、決してあるわけがない」ということだけでも感じて頂けると大変ありがたく思います。
以下、順に観ていきます。
「誕生日 アニヴェルセール」
語り手には逃れ難い死病(当時不治かつ致死的な病とされていた結核かと思います)か空襲による死が迫っています。
双子である彼とその兄に名前をつけた父も、もうこの世にはいません。
長らく葛藤の種となっていた家督の行方も、定められた通り既に兄が継いでいます。
しかし、「雷のようにある考えが落ち掛か」り解けた積年の謎、名付けと出生の秘密はきっと、正にその状況の中でこそ解かれることを待っていて。
だからこそ、その日は「誕生日」であり「記念日」となった。なることができた。それは明らかと思えます。
「くしゅん」
こちらは、ややわかりにくい作品かとも思えます。
しかし、その前に置かれた「誕生日 アニヴェルセール」があるいはその謎を見出し、解(ほど)く補助線になるのかとも思えます。
あくまで私見なのですが……
読書会に参加されていた他の方が「病んでしまった人の、なにか要を得ない、ぐるぐるとした喋りの感じがよく出ている」と感想を出されていた、この作品の語りについて。
冒頭。
「結婚式の日はよく晴れてて、あれが十一月の今頃で、結婚記念日がこの間、過ぎたんだから、もう一年とちょっと経つわけだよね」
なぜ、結婚から1年ばかりが過ぎたというまだ新婚気分が残っていたって良さそうな時期だと言うのに。
その後ずっと、こうもぐるぐると、こんなにも辛そうに。
しかし、何がそんなにもつらいのか芯がぼやけたような感じのまま語りが続くのか。
私には最後の2ページ。
p48-49の語り手の夢の中での。
「出かけて、止まってしまうクシャミ」
についてのやりとりが核心だと思えます。
なぜ、
「男の人は、はっとして、それから、ちょっと苦しそうにいった」
のか。
「そういうクシャミはどこに行くの」
ちょっと間を置いて、答があったわ。
「生まれなかったクシャミの国に行くんだよ」
なぜ「ちょっと間を」置いたのか。
「青白い空気に閉ざされたその国、赤ん坊の格好をした、生まれなかった、いいえ、生まれることの出来なかったクシャミ達が寒そうに震えながら、手を握りあっているんだ。
「その子達を、《はっくしょんっ!》という、大きなクシャミにならせてあげたいよう。はじけるようなクシャミに」
男の人の髭は、いつの間にか、どこかに消えていたよ。やさしい懐かしい顔が、哀しそうに頷いている。そしてね、鼻の詰まったような声が、答えてくれたんだ。
「……そうかい、……そうかい」
もう、上の引用部分などでは全文が。
言葉の端々が読者が見出すべき「謎」を語っているように思えもします。
「赤ん坊の格好をした」
「いいえ、生まれることの出来なかった」
「寒そうに震えながら」
そして、
「大きなクシャミにならせてあげたいよう」
この「あげたいよう」という語尾、そのニュアンス、きっと込められた万感の思い。
なぜ「哀しそうに頷いている」のか。
「鼻の詰まったような声」。
なぜ、まるで泣くこともできない語り手の代わりをするように泣いてくれているのか。
あまりにも耐え難く辛いことを抱えてしまった時。
人はそれに目を向けることも、直接それについて語ることも。
そして、しっかりと向き合うこともできなくなったりするものかと思います。
語り手は四年前に深く愛し愛されていたのだろう父を失い、しかし「一年とちょっと」前に伴侶を得て、そして新しい祝福されるべき生命を家族に迎え、愛猫にゃおりも寄り添い、皆で共に歩んでいくはずだったのが……それなのに……そういうことがあったのだと、暗に示されているのだと思えます。
語り手は夢の中で四年前に死んだ父と出会い、きっと久しぶりに心が解(ほど)けて厳しい枷が緩んで。
しかし、それでもなお、どうしても、こういう形でしか語れない。
そんなことがあったのだと思えます。
更に言うならば。
誰かの、いえ、どちらかのせいであったなら。
まだしも恨みや怒りをぶつけたり、ぶつけられたり出来たのかもしれず。
しかし、どちらのせいでもなく。
掛け替えのないものが「出かけて、止まって」喪われてしまったなら。
悲しみは行き場さえ失ってしまうのではないかとも思えます。
でも、きっと「くしゅん」の語り手はこの語りを通じて。
それでも、どうしても向き合わないといけないものに、こんな形ではあっても向き合うことができたのだと思えます。
「大きなクシャミにならせてあげた」かった、「はじけるようなクシャミに」ならせてあげたかった。なのに「生まれなかった、いいえ、生まれることの出来なかったクシャミ達」のためにも、そうして向き合ってやらなければならないものに向き合えたのだと思えます。
これは、ある種の葬儀であったのかもしれません。
ここで。
ようやく喪失に向き合えたからといって、喪われたものは帰っては来てくれません。
壊れてしまった夫婦の関係も、元には戻り得ないのかもしれません。
その心も、今共に暮らす相手との関係も……いまだ深く傷ついたままではあるのだと思います。
しかし、例えば「誕生日 アニヴェルセール」の語り手も死病を抱え、空襲で明日にも焼かれるかもしれず。
いずれにせよ余命幾ばくもなく、家督は兄が継いでおり死ぬまでにせめて果たすべき責務もない中でも。
あるいはそれだからこそ、積年の謎を解き、その日を誕生日/記念日とすることができたことは、彼にとってあまりにも大切であったことは疑い得ません。
「くしゅん」の語り手もまた、それでも今日を明日に向けて歩むために、どうしても必要な儀式をやり遂げることができたのだと思えます。
この物語の中にも四年前の父の死、一年ちょっと前の結婚、そして今……いずれも必然としてそこにある《時》と、その中に生きる《人》との、こういう形でしか描き得ない姿があるのだと思えます。
なお、こうも長々と書いてきてなんなのですが。
冒頭に私見と断った通り、この読みはあくまで私の作品読解であって。
それが「正しい」かどうかなど、私にはわかりません。
ただし、北村作品はしばしば、読者に多くを委ね、託すものだと思えます。
私は「くしゅん」についてはこのように謎を見出し、読みました。
例えばこういったものが、一ファンとしての北村作品との付き合い方の一例となります。
「白い本」「大ぼけ 小ぼけ」「道」
さて。
こう見てくると「誕生日 アニヴェルセール」「くしゅん」という序盤は、なかなかに重苦しいものにもなってきてもいますので。
続く「白い本」「大ぼけ 小ぼけ」そして「道」が、暗く沈みそうになるものを温かくすくい上げてくれるように並んでいるのは実に相応しくもてなしの良い並びとも思えます。
「大ぼけ 小ぼけ」では温かく積み重ねられていく時の中での人と人……互いに互いを選んで家族となった夫婦の歩みが描かれ。
「道」は「くしゅん」「大ぼけ 小ぼけ」と続く"夫婦の話"に連なるものでありつつ、より広く"家族の話"として「誕生日 アニヴェルセール」の重さ痛ましさも併せて引き受けつつ、大きく温かい時の流れの中で見事に受け止めてくれている物語のようにも思えます。
なお、ここで。
「白い本」は人と人が出会って夫婦になるという関係同様、人と本の出会いもまた……といった流れの中で。
どのような時に出会ったかも含め、一つの運命といえると描いているかと思えます(《時と人》と本の話ですね)。
そして、これは"時に、人と本の出会いは夫婦の出会いと同じくらい意味も重みもあるものなのです"と言わんばかりの配置と見て取れなくもなく。
もしもそうであるととしたなら、実に北村作品の並び・構成らしい話だと思えてならなくもあります。
ただ、ここで『ヴェネツィア便り』という一冊の本でもうひとつ面白いと思えるのは「白い本」と「黒い手帳」が共に収録されていることです。
「黒い手帳」
人と人の出会いには良いものも悪いものもあれば、望んで自ら求めるものもあれば望まずして逃れ得ないものもある、というように。
人と本の出会いもまた複雑で多面的であり、良いものばかりでもなく、時には本の方から悪意をもって人を襲いにくることだってあるのかもしれません。
2017年11月14日に下北沢本屋B&Bで開催された「北村薫トークイベント「時を越えて届けられるもの」『ヴェネツィア便り』刊行記念」に参加させていただいた時。
アンケートで参加者が好きな作品を挙げていき、集計するという内容もありました。
そこで掌編ながら「白い本」も人気を集めていたかと記憶しています。
人気のある収録作の名前が幾つか挙げられる……ということになり、逆にあまり名前が挙がらない作品は何か、という話は(それはそうだろうとも思いますが)出てはきませんでした。
ただ、「黒い手帳」はきっと不人気なのだろうなあ、とは思えました。
ですが、しかし。
「黒い手帳」もまた疑いなく北村作品です。
(それが「正しい」かどうかなど勿論およそ保証の限りなどではありませんし、そもそも保証の必要を感じませんが)例えば「白い本」と「黒い手帳」を対になる作品として読む時。
それによりいや増す興趣というのはあるのではないかと思えます。
「白い本」は古書店の平台に「読まれることなく、ここに来た」歌集を語り手が「間違った人のところに行ったんだね」とつぶやき。
「そして、その白い本を抱きながら、《わたしは読む。------わたしが読む》と、思った」
と締めくくれられ。
「黒い手帳」は、語り手にとってみれば、その人については嫌な思い出ばかりの小学生時代の担任から何十年ぶりかの同窓会での再会で(きっと押しつけるように)配布された句集について。押しつけた側からすれば「わたしの俳句生活の結晶だ。生涯の総決算だ」というものについて。"お前は読まなかったな。------お前は読まないまま、売り払い、あまつさえそのことを隠そうとしたのだな"と逃れ得ぬ証拠(実際に売り払ったのは事情など知らない語り手の妻であるわけですが)を突きつけられ、締めくくられているわけです。
なお、件の句集が「蚊柱」と題されているところも、北村ファンとしてはすこし面白いところで。
「中学生の時『奉教人の死』を読み、まことに中学生らしく感動し、何冊か読み続けた。そして彼が、池西言水の鬼趣を得た句として、これをあげているのにぶつかった。
------蚊柱のいしずえとなる捨て子かな。
恐かった。思わず本を閉じてしまい、しばらくそのままでいた。句を作った人については中学生では何も分からない。ただ、それを《芥川という作家が引いた》ことが、忘れられなかった」
(『秋の花』創元推理文庫版p38)
があるためですね。
そんな題名の句集を同窓会でかつての教え子たちに配ったかつての嫌われ者の担任教師、ということになります。
また、直前の「機知の戦い」では結局、疑いは誤解であったとして(互いに心は晴れないけれど)ともあれ、穏便に幕は下りたその後で。
「黒い手帳」ではまさに逃れ難い証拠がつきつけられたその時、そこしかない、という場面で終わる。
そんな流れも面白いと感じます。
「機知の戦い」
ここで続けて話題を「機知の戦い」に移すと。
この作品については本編の流れに言及されている作品を重ねてみると、すこし、面白いところがあります。
たとばDVDの字幕表示の話で語り手が同僚を追い込もうとしている時。
「今の君の顔は、まるで不思議なことの書いてある本のようだよ」(p180)
と口に出すのは『マクベス』の台詞です。
第1幕第5場、マクベス夫人。
「Your face, my thane, is as a book where men May read strange matters.」
続けて王の殺害を唆し、そんなことでは気取られてしまう、気づかれぬよう、何食わぬ顔をし歓迎の素振りで……と勧めていく場面。
(英文学、アメリカ文学と専門こと違え)文学部教授同士らしい?あてこすり方、追い込み方で読んでいてなんとも楽しくなります。
またダールの傑作「味」「南から来た男」はどちらも、非常にスリルのある展開が描かれ、しかし、最後には……という話です。
そのイメージは「機知の戦い」の流れとも重なるところがあり、ダールの短編を読む、あるいは再読する……それに作中で言及されているロアルド・ダール劇場やヒッチコック劇場での映像翻案を見て観るのもお勧めです。
なるほど、こういうイメージが本編に重ねられているのか、とそんな楽しみもきっとできるかと思います。
また、作中人物の語る通り、ダールの名作の翻案としてもたいへん面白いものですので、せっかくですのでここで少し紹介もしておきます。
ところで、北村薫先生の『ヴェネツィア便り』収録の「機知の戦い」を読むと、当然にヒッチコック劇場の「指」、新ヒッチコック劇場の「小指切断ゲーム」(ひどい改題)、ダール劇場の「南から来た男」「ワインの味」を観ることになるわけだけども。感想を外に出したことなかったので、少しだけ。
— 相楽 (@sagara1) 2017年11月14日
やはりダール劇場が面白くて。原作の"味"を他よりずっと尊重した上で工夫を重ねていて。「南から来た男」だと例えば原作で視点人物だった男が、口では良識的に止めながら話を進める様子、イギリス娘は本当に止めようとするけどそれがアメリカ青年をより意固地にも強がらせもする流れなどが見事だった。
— 相楽 (@sagara1) 2017年11月14日
なお、「機知の戦い」ではある人物が字幕が原語からのイメージを損なってひどく嫌がるという話があったわけだけど(あった、どころではないのだけど)。たしかに、(自分の拙い英語力でも)そういうところはあるのかな、とは一応なんとかぼんやりと。
— 相楽 (@sagara1) 2017年11月14日
口調や単語の響きとか全てと言えば全てなのだけれど。例を挙げれば「南から来た男」ではlittle fingerに掛けwe have little drinkとか事ある毎にlittleを繰り返す圧力等は字幕は拾ってくれない。賭けをするしないの駆け引きにおいてaccept(受け入れる)という単語が連呼されるニュアンスなんかも。 pic.twitter.com/h9KS3WfC07
— 相楽 (@sagara1) 2017年11月14日
南から来た男がアメリカの水兵である青年を挑発する際、字幕部分に加え「most American not」と加えるのも(制限の中で当然ではあるけど)拾ってはくれない。
— 相楽 (@sagara1) 2017年11月14日
なるほどなあ、と、少し。 pic.twitter.com/So3HDK8ImM
ダール劇場「ワインの味」。「機知の戦い」でも触れられている通り、結末の翻案が楽しい。それこそ大傑作である原作の"味"を、観終えたその後味を一変させつつ<それもまた大いに結構なのでは>と思わせてくれる。この愉しさから「機知の戦い」という作品自体生まれたのでは?と思えてしまうくらいに。
— 相楽 (@sagara1) 2017年11月14日
あと、これは自分が読み手として情けなく鈍かったせいもあるのだろうけど。映像にされてみて初めてプラット氏が勝負のテイスティングの際にワインについて語りつつお目当ての娘も重ねて語っている……その上で「三級というのはありえるだろうがそれも疑わしい」云々とも語っているのかと腑に落ちた。
— 相楽 (@sagara1) 2017年11月14日
本当に酷い男であるわけで。その酷さの描写があまりにも見事であるからこそ原作「味」もドラマ「ワインの味」の映像も結末の味が活きるのだけど。
— 相楽 (@sagara1) 2017年11月14日
それを踏まえても、やはり個人的に「ダール劇場」の翻案にも大きな拍手を送り、好意を向けたいと改めて思った。
「ワインの味」においても「南から来た男」と同じく原作で視点人物だった作家(とその妻)の扱いが見事で。二人への態度を通じプラット氏の嫌らしさを活写すると共に。何度も(ホストに促される前に)料理の蓋を開けようとして妻に止められる作家、といった細かい人物描写が実に映像的な愉快さだった。
— 相楽 (@sagara1) 2017年11月14日
ちなみに自分で読み返してみても「なにやら細かくて面倒でこれみよがしな鬱陶しい手つきだな」という"味"は否めない観のある連投感想だったわけだけれども。
— 相楽 (@sagara1) 2017年11月14日
それもまた、この「機知の戦い」という短編に関する感想としては作品の性質上、悪くはないものなのでは、とぼんやり思えたりもする。
「白い蛇、赤い鳥」「高み」「ヴェネツィア便り」
実は続く最後の3篇「白い蛇、赤い鳥」「高み」「ヴェネツィア便り」はそれぞれに、またこの並びがこの本の中でも私としてはもっとも心に残ったものなのですが。
逆に、だからこそ、それらを読んで何を思ったかは軽く語るのは難しいと思えたりもします。すみません。
ただ、そこについてはこんなことがあったりもしました。
代官山蔦屋書店『ヴェネツィア便り』イベントでサインを頂く際、小島政二郎のあの言葉が在る「白い蛇、赤い鳥」があり。そこから目次の紙の上でもすっと上がりつつ、「高み」の"高み"が実は本当には高くもなく、あまりに寂しくもあるものだったhttps://t.co/VsCnjI5AZQことが示された上で。(続く
— 相楽 (@sagara1) 2017年11月15日
"いずれ沈む"とも語られた美しい街を訪れる<時と人>の、「沈んではいません」と締められる物語が待つ。その流れが美しく、好きだと伝えさせて頂いていて。
— 相楽 (@sagara1) 2017年11月15日
その話を下北沢B&Bでのイベント冒頭でご紹介頂き、ひたすら恐縮するとともに勿論、嬉しかった。文字通りの意味で「有り難い」と思えた。
ただ、このまま投げ出してしまうのもなんですので、すこしだけ書きますと。
「白い蛇、赤い鳥」の小島政二郎のあの言葉については、そしてそれを綴り、心に抱いた作家は今は文学史なり世評なりの中でどのような位置づけになっているか。
語り手はその作家や作品について、どのような印象を語っているか。
そこがまず、多くを思わされずにはいられないところです。
また、語り手が最初にその言葉に出会い、捕まり……そして、再会した今はそれから四十年が過ぎていた。
そんな《時と人》の姿にやはり多くを思いましたが……すみません、簡単には言葉にまとめられそうもありません。
なお、「高み」については、先ほどのtweet引用でも触れていますが。
雑誌初出時の感想記事がありますので、お気が向くようでしたらそちらも読んで頂ければ幸いです。
あと、本当に雑然としたまとまりのないメモとなってしまっていて申し訳ないのですが。
せっかくですので最後にもう一度、モデレーターの瀧井さんの問いかけに立ち戻って少し提示しておきたいこともあります。
設問の中に
「(特に日常の謎系が好きな方は、それ以外の北村作品をどう読んでいるのでしょうか?)」
というものがありました。
書くべきかどうか、悩みもしたのですが。
私はごく個人的に、だいぶ以前から「日常の謎」というしっかりかっちりと広く認められた定義もないようなあやふやな用語は、いろいろと便利だったり諸々の良い役割を果たしてきたのだろうとも思いつつ。しかし、しばしばあまりに宜しくない「レッテル」としても働いてしまっているのでは?と。強い疑念なり忌避感なりを覚え続けてしまってもいます。
北村作品に対しても、他の「日常の謎」に属するとされる作家の諸作に対しても。
むしろそれぞれについてあまり親しんではいない読者の人が「日常の謎」というあやふやな用語に各々に更に偏ったイメージ……例えばハートウォーミングですとか、人が死なないですとか、警察沙汰にならないですとか、極悪人がいないですとかをレッテルなり色眼鏡のようなものとして貼り付けてしまい。
「目の前のその作品」でなく「勝手につけたレッテル」を読んでしまっているように見えてしまうことが、ネット上の感想にせよ、他の場で目にしたり聴いたりするものにせよ、少しばかり目立ちすぎるようにも思えます。
やや極端な例示ではありますが。
例えば北村薫作品といえば日常の謎、日常の謎といえばハートウォーミング……などと思い込みレッテルを貼り付けた状態で読んでしまうと。
『ヴェネツィア便り』でいえば「くしゅん」や「黒い手帳」などは「え?なんで。暗い。怖い。なんでこんなの入れてるのかわからない。あ、でも他のあったかい気持ちになれる作品は楽しい。そうそう、こういうの読みたかった」といったように、まず「その作品」として真っ直ぐに接してもらえていないのでは。
そんな疑問と……あえていえば、憤りや悲しみのようなものも、一ファンとして強くあります。
この話題については過去にも触れていますので、もし気になる方がいるようでしたら、見てやってください。
また、
・北村作品の女性像についての思うことは?(何かあれば)
という設問について。
北村作品の女性像といえば、きっと、まず代表として真っ先に挙げられ、語られるのは《私》であるのだろうと思います。
その彼女については約10年前に『ミステリ十二か月』の解説の中で次のように書かせて頂きました。
今も、一字一句違わずそう思えます。
その人物像を捉えることは難事であり、それは《私》が意図的にそうしているのだと思えます。
ここで、私が知る最も優れた《私》という謎を追う名探偵の歩みは『太宰治の辞書』創元推理文庫版に寄せられた、米澤穂信さんによる解説です。
そのような歩みの上で語られる《私》の人物像、作品像は心から素晴らしいものだと思えました。
余談ですが。
ここで米澤穂信さんの名前も出て。
また「贅沢な読書会」の来月は米澤穂信さんをゲストに迎え、『満願』を課題本として行われるということで。
悔やんでも悔やみきれないことながら、私はチケット申し込みについうっかり出遅れてしまい参加できないのですが。
せっかくなので、関連とも言えそうな過去記事を幾つか挙げておきます。