2018年冬アニメの各話の感想その他のまとめです。
今期は他に先日取り上げたこちら。
2クール目のこちら。
あと、
BEATLESS
からかい上手の高木さん
三ツ星カラーズ
刻刻
Fate/EXTRA Last Encore
だがしかし2
オーバーロード2
りゅうおうのおしごと!
封神演義
といった作品を毎週観ています。
2018年冬アニメの各話の感想その他のまとめです。
今期は他に先日取り上げたこちら。
2クール目のこちら。
あと、
BEATLESS
からかい上手の高木さん
三ツ星カラーズ
刻刻
Fate/EXTRA Last Encore
だがしかし2
オーバーロード2
りゅうおうのおしごと!
封神演義
といった作品を毎週観ています。
※『ヴェネツィア便り』収録各作品の内容に大きく触れます。
未読で、いわゆるネタバレを避けたい方はご注意ください。
現在、この作品を課題本とした「「贅沢な読書会 第二十二回」北村薫×瀧井朝世」という企画に一読者として参加させて頂いています。
2月4日(日)17:30-19:30 瀧井朝世さんと参加者による読書会
を終え。
2月11日(日)17:30-19:30 北村薫さんを囲んでの読書会
を控えている中で。
2月4日の回に色々他の読者の方の感想などを伺い、自分も幾らか語らせて頂く中で諸々考えたことなどをとりあえずまとめさせて頂き。
11日への準備の一環としたいと思えました。
大学二年の頃に『秋の花』で初めてその作品に出会って以来、北村先生は常に最も好きな作家であり続けてきているのですが。
北村作品を課題本とした読書会は初体験で、諸々、大いに参考にも刺激にもなりました。
11日にまたお会いすることになりますが、読書会のモデレーターを務められている瀧井さんはじめ、まず参加者の皆さんへの感謝を記しておきたいと思います。
改めて、ありがとうございました。
4日の読書会ではまず瀧井さんによるレジュメ。
・北村先生の略歴
・主な作品と主なシリーズ
・簡単な作風の紹介
・『ヴェネツィア便り』の特徴
・「モデレーター・瀧井さんからみなさんに訊いてみたいこと」
を簡潔にまとめた資料が配布されました。
ここで本ブログ記事をまとめさせて頂く上で、そのレジュメをこちらでも添付し参照しつつ書き進められると良いかと思ったのですが。
お伺いを立てた所。
「あれは参加された方たちだけのものとして、そのままアップするのはご遠慮いただけないか」
「私の設問に沿ってお話ししてくださいましたし、その部分を引用するのはかまいません」
とのお話でしたので、そのようにさせて頂ければと思います。
<モデレーター・瀧井さんからみなさんに訊いてみたいこと>
・北村作品を読んだことがあるか、好きな作品は?
・愛読者にとってこの本の位置づけ。
(特に日常の謎系が好きな方は、それ以外の北村作品をどう読んでいるのでしょうか?)
◎本作の中で好きな短篇、気になった短篇とその感想&疑問
・北村作品の女性像についての思うことは?(何かあれば)
読書会でも上記の設問に沿って、一参加者としていろいろ話させて頂きました。
このメモも、その流れで記していきたいと思いますが、多少長くなりますので。
まずは以下、最初にポイントとなりそうな事項を箇条書きで示します。
では、先述の設問に沿って、続けます。
大学二年の時にたまたま『秋の花』に出会って以来、北村先生は常に一番好きな作家であり続けています。
書籍化されたものは全て、雑誌掲載のものなども幾らかは読んでいます。
縁があり、これまでに『ミステリ十二か月』 (中公文庫) 、『紙魚家崩壊 九つの謎』(講談社文庫)では一読者として解説を書かせても頂きました。
ですので、とりあえず愛読者であるとは思いますが。
特に出版業界等とも取り立てて縁もなく、ライター活動などもしておりませんので、(こうわざわざ断るのも変な話なのですが)読書会で話させて頂いた諸々の感想も、こちらのメモも当然に一読者として個人的なものとして出させて頂いています。
まず「(愛)読者にとって」という設問とややズレる観もあるのですが。
『ヴェネツィア便り』は一冊の本としてまとめて刊行されることで《時と人》シリーズに属する一冊と位置づけられているかと思えます。
外形的にはまず、版元さんからの紹介末尾にも「プリズムの燦めきを放つ《時と人》の15篇」とあり。
『ターン』『スキップ』『リセット』の《時と人》三部作と同じ新潮社からの刊行であり。
担当編集者はおなじみ、新潮社で刊行される北村薫作品は全て携わってきている北村暁子さんであるといった話があったりします
一方で、巻末の記載を見れば分かる通り、出典は2008年~17年の広い期間に渡り、掲載誌等もまちまち。
しかし、勿論当然に重要なのは内容です。
これがいずれも、まさに《時と人》の物語であるのだと思えます。
物語の中で解ける謎、たどり着く、あるいは抱くことになる思い。
それは各々の登場人物が作中で人生を歩み、時にその中で短くない年を重ねたりもしつつ、<その歩みを経たその時>だからこそ解ける謎、抱く思いとなっています。
それがわかりやすい作品もあれば、わかりにくいものも。
そして、一冊の本としてまとめられ、この並びとして読者に提示されることで生まれてきている何ものかもあるのだとも思えます。
なお、並び・構成については後でより詳しく観ていきますが……
とりあえず触りだけ。目次がこうで。
「くしゅん」(「白い本」)「大ぼけ 小ぼけ」「道」のひとかたまりが(「白い本」を除き)"夫婦の話"。
「指」「開く」「岡本さん」「ほたるぶくろ」は"不思議な力や幻想(が絡みつつそれぞれ何ごとかの暗喩だったり象徴していそうだったりする)の話”。
「機知の戦い」「黒い手帳」「白い蛇、赤い鳥」は"学問や創作の世界での対抗心や妄念執念、才能とプライドといったものの話"。
「高み」「ヴェネツィア便り」は"これまで歩んできた《時》を振り返り人生を受け入れる話"。
……と、まずは例えばそんな風にそれぞれのかたまりを見立てることもできそうです。
また、それ以外にも前後の繋がりなどで面白く思えるものがいくつもありますので、順次触れてもいきます。
ただ、ここではともかく「意味もなく作品がこう並んでいるなど、決してあるわけがない」ということだけでも感じて頂けると大変ありがたく思います。
以下、順に観ていきます。
語り手には逃れ難い死病(当時不治かつ致死的な病とされていた結核かと思います)か空襲による死が迫っています。
双子である彼とその兄に名前をつけた父も、もうこの世にはいません。
長らく葛藤の種となっていた家督の行方も、定められた通り既に兄が継いでいます。
しかし、「雷のようにある考えが落ち掛か」り解けた積年の謎、名付けと出生の秘密はきっと、正にその状況の中でこそ解かれることを待っていて。
だからこそ、その日は「誕生日」であり「記念日」となった。なることができた。それは明らかと思えます。
こちらは、ややわかりにくい作品かとも思えます。
しかし、その前に置かれた「誕生日 アニヴェルセール」があるいはその謎を見出し、解(ほど)く補助線になるのかとも思えます。
あくまで私見なのですが……
読書会に参加されていた他の方が「病んでしまった人の、なにか要を得ない、ぐるぐるとした喋りの感じがよく出ている」と感想を出されていた、この作品の語りについて。
冒頭。
「結婚式の日はよく晴れてて、あれが十一月の今頃で、結婚記念日がこの間、過ぎたんだから、もう一年とちょっと経つわけだよね」
なぜ、結婚から1年ばかりが過ぎたというまだ新婚気分が残っていたって良さそうな時期だと言うのに。
その後ずっと、こうもぐるぐると、こんなにも辛そうに。
しかし、何がそんなにもつらいのか芯がぼやけたような感じのまま語りが続くのか。
私には最後の2ページ。
p48-49の語り手の夢の中での。
「出かけて、止まってしまうクシャミ」
についてのやりとりが核心だと思えます。
なぜ、
「男の人は、はっとして、それから、ちょっと苦しそうにいった」
のか。
「そういうクシャミはどこに行くの」
ちょっと間を置いて、答があったわ。
「生まれなかったクシャミの国に行くんだよ」
なぜ「ちょっと間を」置いたのか。
「青白い空気に閉ざされたその国、赤ん坊の格好をした、生まれなかった、いいえ、生まれることの出来なかったクシャミ達が寒そうに震えながら、手を握りあっているんだ。
「その子達を、《はっくしょんっ!》という、大きなクシャミにならせてあげたいよう。はじけるようなクシャミに」
男の人の髭は、いつの間にか、どこかに消えていたよ。やさしい懐かしい顔が、哀しそうに頷いている。そしてね、鼻の詰まったような声が、答えてくれたんだ。
「……そうかい、……そうかい」
もう、上の引用部分などでは全文が。
言葉の端々が読者が見出すべき「謎」を語っているように思えもします。
「赤ん坊の格好をした」
「いいえ、生まれることの出来なかった」
「寒そうに震えながら」
そして、
「大きなクシャミにならせてあげたいよう」
この「あげたいよう」という語尾、そのニュアンス、きっと込められた万感の思い。
なぜ「哀しそうに頷いている」のか。
「鼻の詰まったような声」。
なぜ、まるで泣くこともできない語り手の代わりをするように泣いてくれているのか。
あまりにも耐え難く辛いことを抱えてしまった時。
人はそれに目を向けることも、直接それについて語ることも。
そして、しっかりと向き合うこともできなくなったりするものかと思います。
語り手は四年前に深く愛し愛されていたのだろう父を失い、しかし「一年とちょっと」前に伴侶を得て、そして新しい祝福されるべき生命を家族に迎え、愛猫にゃおりも寄り添い、皆で共に歩んでいくはずだったのが……それなのに……そういうことがあったのだと、暗に示されているのだと思えます。
語り手は夢の中で四年前に死んだ父と出会い、きっと久しぶりに心が解(ほど)けて厳しい枷が緩んで。
しかし、それでもなお、どうしても、こういう形でしか語れない。
そんなことがあったのだと思えます。
更に言うならば。
誰かの、いえ、どちらかのせいであったなら。
まだしも恨みや怒りをぶつけたり、ぶつけられたり出来たのかもしれず。
しかし、どちらのせいでもなく。
掛け替えのないものが「出かけて、止まって」喪われてしまったなら。
悲しみは行き場さえ失ってしまうのではないかとも思えます。
でも、きっと「くしゅん」の語り手はこの語りを通じて。
それでも、どうしても向き合わないといけないものに、こんな形ではあっても向き合うことができたのだと思えます。
「大きなクシャミにならせてあげた」かった、「はじけるようなクシャミに」ならせてあげたかった。なのに「生まれなかった、いいえ、生まれることの出来なかったクシャミ達」のためにも、そうして向き合ってやらなければならないものに向き合えたのだと思えます。
これは、ある種の葬儀であったのかもしれません。
ここで。
ようやく喪失に向き合えたからといって、喪われたものは帰っては来てくれません。
壊れてしまった夫婦の関係も、元には戻り得ないのかもしれません。
その心も、今共に暮らす相手との関係も……いまだ深く傷ついたままではあるのだと思います。
しかし、例えば「誕生日 アニヴェルセール」の語り手も死病を抱え、空襲で明日にも焼かれるかもしれず。
いずれにせよ余命幾ばくもなく、家督は兄が継いでおり死ぬまでにせめて果たすべき責務もない中でも。
あるいはそれだからこそ、積年の謎を解き、その日を誕生日/記念日とすることができたことは、彼にとってあまりにも大切であったことは疑い得ません。
「くしゅん」の語り手もまた、それでも今日を明日に向けて歩むために、どうしても必要な儀式をやり遂げることができたのだと思えます。
この物語の中にも四年前の父の死、一年ちょっと前の結婚、そして今……いずれも必然としてそこにある《時》と、その中に生きる《人》との、こういう形でしか描き得ない姿があるのだと思えます。
なお、こうも長々と書いてきてなんなのですが。
冒頭に私見と断った通り、この読みはあくまで私の作品読解であって。
それが「正しい」かどうかなど、私にはわかりません。
ただし、北村作品はしばしば、読者に多くを委ね、託すものだと思えます。
私は「くしゅん」についてはこのように謎を見出し、読みました。
例えばこういったものが、一ファンとしての北村作品との付き合い方の一例となります。
さて。
こう見てくると「誕生日 アニヴェルセール」「くしゅん」という序盤は、なかなかに重苦しいものにもなってきてもいますので。
続く「白い本」「大ぼけ 小ぼけ」そして「道」が、暗く沈みそうになるものを温かくすくい上げてくれるように並んでいるのは実に相応しくもてなしの良い並びとも思えます。
「大ぼけ 小ぼけ」では温かく積み重ねられていく時の中での人と人……互いに互いを選んで家族となった夫婦の歩みが描かれ。
「道」は「くしゅん」「大ぼけ 小ぼけ」と続く"夫婦の話"に連なるものでありつつ、より広く"家族の話"として「誕生日 アニヴェルセール」の重さ痛ましさも併せて引き受けつつ、大きく温かい時の流れの中で見事に受け止めてくれている物語のようにも思えます。
なお、ここで。
「白い本」は人と人が出会って夫婦になるという関係同様、人と本の出会いもまた……といった流れの中で。
どのような時に出会ったかも含め、一つの運命といえると描いているかと思えます(《時と人》と本の話ですね)。
そして、これは"時に、人と本の出会いは夫婦の出会いと同じくらい意味も重みもあるものなのです"と言わんばかりの配置と見て取れなくもなく。
もしもそうであるととしたなら、実に北村作品の並び・構成らしい話だと思えてならなくもあります。
ただ、ここで『ヴェネツィア便り』という一冊の本でもうひとつ面白いと思えるのは「白い本」と「黒い手帳」が共に収録されていることです。
人と人の出会いには良いものも悪いものもあれば、望んで自ら求めるものもあれば望まずして逃れ得ないものもある、というように。
人と本の出会いもまた複雑で多面的であり、良いものばかりでもなく、時には本の方から悪意をもって人を襲いにくることだってあるのかもしれません。
2017年11月14日に下北沢本屋B&Bで開催された「北村薫トークイベント「時を越えて届けられるもの」『ヴェネツィア便り』刊行記念」に参加させていただいた時。
アンケートで参加者が好きな作品を挙げていき、集計するという内容もありました。
そこで掌編ながら「白い本」も人気を集めていたかと記憶しています。
人気のある収録作の名前が幾つか挙げられる……ということになり、逆にあまり名前が挙がらない作品は何か、という話は(それはそうだろうとも思いますが)出てはきませんでした。
ただ、「黒い手帳」はきっと不人気なのだろうなあ、とは思えました。
ですが、しかし。
「黒い手帳」もまた疑いなく北村作品です。
(それが「正しい」かどうかなど勿論およそ保証の限りなどではありませんし、そもそも保証の必要を感じませんが)例えば「白い本」と「黒い手帳」を対になる作品として読む時。
それによりいや増す興趣というのはあるのではないかと思えます。
「白い本」は古書店の平台に「読まれることなく、ここに来た」歌集を語り手が「間違った人のところに行ったんだね」とつぶやき。
「そして、その白い本を抱きながら、《わたしは読む。------わたしが読む》と、思った」
と締めくくれられ。
「黒い手帳」は、語り手にとってみれば、その人については嫌な思い出ばかりの小学生時代の担任から何十年ぶりかの同窓会での再会で(きっと押しつけるように)配布された句集について。押しつけた側からすれば「わたしの俳句生活の結晶だ。生涯の総決算だ」というものについて。"お前は読まなかったな。------お前は読まないまま、売り払い、あまつさえそのことを隠そうとしたのだな"と逃れ得ぬ証拠(実際に売り払ったのは事情など知らない語り手の妻であるわけですが)を突きつけられ、締めくくられているわけです。
なお、件の句集が「蚊柱」と題されているところも、北村ファンとしてはすこし面白いところで。
「中学生の時『奉教人の死』を読み、まことに中学生らしく感動し、何冊か読み続けた。そして彼が、池西言水の鬼趣を得た句として、これをあげているのにぶつかった。
------蚊柱のいしずえとなる捨て子かな。
恐かった。思わず本を閉じてしまい、しばらくそのままでいた。句を作った人については中学生では何も分からない。ただ、それを《芥川という作家が引いた》ことが、忘れられなかった」
(『秋の花』創元推理文庫版p38)
があるためですね。
そんな題名の句集を同窓会でかつての教え子たちに配ったかつての嫌われ者の担任教師、ということになります。
また、直前の「機知の戦い」では結局、疑いは誤解であったとして(互いに心は晴れないけれど)ともあれ、穏便に幕は下りたその後で。
「黒い手帳」ではまさに逃れ難い証拠がつきつけられたその時、そこしかない、という場面で終わる。
そんな流れも面白いと感じます。
ここで続けて話題を「機知の戦い」に移すと。
この作品については本編の流れに言及されている作品を重ねてみると、すこし、面白いところがあります。
たとばDVDの字幕表示の話で語り手が同僚を追い込もうとしている時。
「今の君の顔は、まるで不思議なことの書いてある本のようだよ」(p180)
と口に出すのは『マクベス』の台詞です。
第1幕第5場、マクベス夫人。
「Your face, my thane, is as a book where men May read strange matters.」
続けて王の殺害を唆し、そんなことでは気取られてしまう、気づかれぬよう、何食わぬ顔をし歓迎の素振りで……と勧めていく場面。
(英文学、アメリカ文学と専門こと違え)文学部教授同士らしい?あてこすり方、追い込み方で読んでいてなんとも楽しくなります。
またダールの傑作「味」「南から来た男」はどちらも、非常にスリルのある展開が描かれ、しかし、最後には……という話です。
そのイメージは「機知の戦い」の流れとも重なるところがあり、ダールの短編を読む、あるいは再読する……それに作中で言及されているロアルド・ダール劇場やヒッチコック劇場での映像翻案を見て観るのもお勧めです。
なるほど、こういうイメージが本編に重ねられているのか、とそんな楽しみもきっとできるかと思います。
また、作中人物の語る通り、ダールの名作の翻案としてもたいへん面白いものですので、せっかくですのでここで少し紹介もしておきます。
ところで、北村薫先生の『ヴェネツィア便り』収録の「機知の戦い」を読むと、当然にヒッチコック劇場の「指」、新ヒッチコック劇場の「小指切断ゲーム」(ひどい改題)、ダール劇場の「南から来た男」「ワインの味」を観ることになるわけだけども。感想を外に出したことなかったので、少しだけ。
— 相楽 (@sagara1) 2017年11月14日
やはりダール劇場が面白くて。原作の"味"を他よりずっと尊重した上で工夫を重ねていて。「南から来た男」だと例えば原作で視点人物だった男が、口では良識的に止めながら話を進める様子、イギリス娘は本当に止めようとするけどそれがアメリカ青年をより意固地にも強がらせもする流れなどが見事だった。
— 相楽 (@sagara1) 2017年11月14日
なお、「機知の戦い」ではある人物が字幕が原語からのイメージを損なってひどく嫌がるという話があったわけだけど(あった、どころではないのだけど)。たしかに、(自分の拙い英語力でも)そういうところはあるのかな、とは一応なんとかぼんやりと。
— 相楽 (@sagara1) 2017年11月14日
口調や単語の響きとか全てと言えば全てなのだけれど。例を挙げれば「南から来た男」ではlittle fingerに掛けwe have little drinkとか事ある毎にlittleを繰り返す圧力等は字幕は拾ってくれない。賭けをするしないの駆け引きにおいてaccept(受け入れる)という単語が連呼されるニュアンスなんかも。 pic.twitter.com/h9KS3WfC07
— 相楽 (@sagara1) 2017年11月14日
南から来た男がアメリカの水兵である青年を挑発する際、字幕部分に加え「most American not」と加えるのも(制限の中で当然ではあるけど)拾ってはくれない。
— 相楽 (@sagara1) 2017年11月14日
なるほどなあ、と、少し。 pic.twitter.com/So3HDK8ImM
ダール劇場「ワインの味」。「機知の戦い」でも触れられている通り、結末の翻案が楽しい。それこそ大傑作である原作の"味"を、観終えたその後味を一変させつつ<それもまた大いに結構なのでは>と思わせてくれる。この愉しさから「機知の戦い」という作品自体生まれたのでは?と思えてしまうくらいに。
— 相楽 (@sagara1) 2017年11月14日
あと、これは自分が読み手として情けなく鈍かったせいもあるのだろうけど。映像にされてみて初めてプラット氏が勝負のテイスティングの際にワインについて語りつつお目当ての娘も重ねて語っている……その上で「三級というのはありえるだろうがそれも疑わしい」云々とも語っているのかと腑に落ちた。
— 相楽 (@sagara1) 2017年11月14日
本当に酷い男であるわけで。その酷さの描写があまりにも見事であるからこそ原作「味」もドラマ「ワインの味」の映像も結末の味が活きるのだけど。
— 相楽 (@sagara1) 2017年11月14日
それを踏まえても、やはり個人的に「ダール劇場」の翻案にも大きな拍手を送り、好意を向けたいと改めて思った。
「ワインの味」においても「南から来た男」と同じく原作で視点人物だった作家(とその妻)の扱いが見事で。二人への態度を通じプラット氏の嫌らしさを活写すると共に。何度も(ホストに促される前に)料理の蓋を開けようとして妻に止められる作家、といった細かい人物描写が実に映像的な愉快さだった。
— 相楽 (@sagara1) 2017年11月14日
ちなみに自分で読み返してみても「なにやら細かくて面倒でこれみよがしな鬱陶しい手つきだな」という"味"は否めない観のある連投感想だったわけだけれども。
— 相楽 (@sagara1) 2017年11月14日
それもまた、この「機知の戦い」という短編に関する感想としては作品の性質上、悪くはないものなのでは、とぼんやり思えたりもする。
実は続く最後の3篇「白い蛇、赤い鳥」「高み」「ヴェネツィア便り」はそれぞれに、またこの並びがこの本の中でも私としてはもっとも心に残ったものなのですが。
逆に、だからこそ、それらを読んで何を思ったかは軽く語るのは難しいと思えたりもします。すみません。
ただ、そこについてはこんなことがあったりもしました。
代官山蔦屋書店『ヴェネツィア便り』イベントでサインを頂く際、小島政二郎のあの言葉が在る「白い蛇、赤い鳥」があり。そこから目次の紙の上でもすっと上がりつつ、「高み」の"高み"が実は本当には高くもなく、あまりに寂しくもあるものだったhttps://t.co/VsCnjI5AZQことが示された上で。(続く
— 相楽 (@sagara1) 2017年11月15日
"いずれ沈む"とも語られた美しい街を訪れる<時と人>の、「沈んではいません」と締められる物語が待つ。その流れが美しく、好きだと伝えさせて頂いていて。
— 相楽 (@sagara1) 2017年11月15日
その話を下北沢B&Bでのイベント冒頭でご紹介頂き、ひたすら恐縮するとともに勿論、嬉しかった。文字通りの意味で「有り難い」と思えた。
ただ、このまま投げ出してしまうのもなんですので、すこしだけ書きますと。
「白い蛇、赤い鳥」の小島政二郎のあの言葉については、そしてそれを綴り、心に抱いた作家は今は文学史なり世評なりの中でどのような位置づけになっているか。
語り手はその作家や作品について、どのような印象を語っているか。
そこがまず、多くを思わされずにはいられないところです。
また、語り手が最初にその言葉に出会い、捕まり……そして、再会した今はそれから四十年が過ぎていた。
そんな《時と人》の姿にやはり多くを思いましたが……すみません、簡単には言葉にまとめられそうもありません。
なお、「高み」については、先ほどのtweet引用でも触れていますが。
雑誌初出時の感想記事がありますので、お気が向くようでしたらそちらも読んで頂ければ幸いです。
あと、本当に雑然としたまとまりのないメモとなってしまっていて申し訳ないのですが。
せっかくですので最後にもう一度、モデレーターの瀧井さんの問いかけに立ち戻って少し提示しておきたいこともあります。
設問の中に
「(特に日常の謎系が好きな方は、それ以外の北村作品をどう読んでいるのでしょうか?)」
というものがありました。
書くべきかどうか、悩みもしたのですが。
私はごく個人的に、だいぶ以前から「日常の謎」というしっかりかっちりと広く認められた定義もないようなあやふやな用語は、いろいろと便利だったり諸々の良い役割を果たしてきたのだろうとも思いつつ。しかし、しばしばあまりに宜しくない「レッテル」としても働いてしまっているのでは?と。強い疑念なり忌避感なりを覚え続けてしまってもいます。
北村作品に対しても、他の「日常の謎」に属するとされる作家の諸作に対しても。
むしろそれぞれについてあまり親しんではいない読者の人が「日常の謎」というあやふやな用語に各々に更に偏ったイメージ……例えばハートウォーミングですとか、人が死なないですとか、警察沙汰にならないですとか、極悪人がいないですとかをレッテルなり色眼鏡のようなものとして貼り付けてしまい。
「目の前のその作品」でなく「勝手につけたレッテル」を読んでしまっているように見えてしまうことが、ネット上の感想にせよ、他の場で目にしたり聴いたりするものにせよ、少しばかり目立ちすぎるようにも思えます。
やや極端な例示ではありますが。
例えば北村薫作品といえば日常の謎、日常の謎といえばハートウォーミング……などと思い込みレッテルを貼り付けた状態で読んでしまうと。
『ヴェネツィア便り』でいえば「くしゅん」や「黒い手帳」などは「え?なんで。暗い。怖い。なんでこんなの入れてるのかわからない。あ、でも他のあったかい気持ちになれる作品は楽しい。そうそう、こういうの読みたかった」といったように、まず「その作品」として真っ直ぐに接してもらえていないのでは。
そんな疑問と……あえていえば、憤りや悲しみのようなものも、一ファンとして強くあります。
この話題については過去にも触れていますので、もし気になる方がいるようでしたら、見てやってください。
また、
・北村作品の女性像についての思うことは?(何かあれば)
という設問について。
北村作品の女性像といえば、きっと、まず代表として真っ先に挙げられ、語られるのは《私》であるのだろうと思います。
その彼女については約10年前に『ミステリ十二か月』の解説の中で次のように書かせて頂きました。
今も、一字一句違わずそう思えます。
その人物像を捉えることは難事であり、それは《私》が意図的にそうしているのだと思えます。
ここで、私が知る最も優れた《私》という謎を追う名探偵の歩みは『太宰治の辞書』創元推理文庫版に寄せられた、米澤穂信さんによる解説です。
そのような歩みの上で語られる《私》の人物像、作品像は心から素晴らしいものだと思えました。
余談ですが。
ここで米澤穂信さんの名前も出て。
また「贅沢な読書会」の来月は米澤穂信さんをゲストに迎え、『満願』を課題本として行われるということで。
悔やんでも悔やみきれないことながら、私はチケット申し込みについうっかり出遅れてしまい参加できないのですが。
せっかくなので、関連とも言えそうな過去記事を幾つか挙げておきます。
1話からいろいろ凄くて怖いですね、この作品。
物語の導入が本当に無類に柔らかく綺麗で。
模様/文様を織り込んだ帯が人を包んだり誘ったりする独特な音楽の表現も、必見の面白さです。
まずは1巻だけでも、ぜひ。
そして3巻も。実に美しい流れでした。
渋谷HMV BOOKSでの『宝石の国』スタッフトークイベントを聴いてきました。
出演者は以下の皆さん。
約2時間たっぷり、濃い内容の会でした。
・プロデュース 武井克弘(東宝株式会社)
・制作プロデューサー 和氣澄賢(有限会社オレンジ)
・OP楽曲プロデューサー 照井順政
・OP映像ディレクター 天野清之(面白法人カヤック)
・ビデオグラムパッケージデザイナー 山田知子(合同会社チコルズ)・歌手YURiKA(OP曲「鏡面の波」)
満員御礼!『 #宝石の国 』スタッフトークショー (in HMV&BOOKS渋谷)をお届けしました。BD/DVDご購入の上に真剣に聞き入っていただいた前方の皆様、長時間に渡り立ち見でご覧いただいた後方の皆様、皆々様ありがとうございました。アニメ本編以外のスタッフの愛と情熱が少しでも伝わったならば幸いです pic.twitter.com/iJperahbB1
— 武井克弘 (@takei_katsuhiro) 2017年12月23日
※写真二枚目。
前列左が山田知子さん、右がYURiKAさん。
後列左から和氣澄賢さん、天野清之さん、謎ポーズの照井順政さん、武井克弘さん。
まずは東宝の武井克弘プロデューサーと有限会社オレンジの制作プロデューサー和氣澄賢さんのお二人が登場。
アニメ企画は13年頃から原作に強く惹かれた武井プロデューサーが企画。
その後2年くらいほぼ1人で各方面と折衝(いろいろと大変だったらしい)。
15年に和氣さんが加わり、本格的に始動したといった流れとのことです。
『宝石の国』は各所で度々発信されている通り、有限会社オレンジ初の元請け作品。
様々なアニメのCGパートを主に担当してきたオレンジには(中心になって作品制作を回すために必須の)「制作」に携わる人が一人も居なくて。
外部から和氣さんを初の制作兼プロデューサーとして迎え、なんとか企画をやっていくことに。
そして和氣さんはCG方面はこれといった経験がなく未知のことばかり。
この作品をやっていくにあたり、CGに強い他社にいろいろと教えを請うていったのだというエピソードも。
「(作品が最後まで)出来たことが奇跡」とのコメントもイベント内で出されてきたりしました。
※ここらへんの事情は以下の記事でも触れられています。
続いて現れ話に加わったのは、OP楽曲プロデューサーの照井順政さん。
参加は武井克弘プロデューサーの勧誘によるもの。
なんでも、武井さんが「sora tob sakana」というアイドルグループにハマっていて。
いわゆる「楽曲派」といわれるアーティスト色が濃い芸風、そしてそのプロデューサーである照井順政さんは気になる存在だったとのことです。
そして『宝石の国』原作の奥深く時に難解とも思えるテーマを扱いつつ、キャラクターの魅力(や少年漫画的な熱さなど)キャッチーな面も両立させている(と思える)作風と、ポップと前衛を往復するような照井さんの音楽の性質(ロックバンド「ハイスイノナサ」の一員としての活動も参考にしたとのこと)に通じるものを感じたそうで。
初めての顔合わせで依頼が行われ、照井さんはその日の内に原作漫画を読み。
すぐに気に入り、快諾したのだそうで。
好きな作品でもあり、確かに自分の作風にも合い、「これならできるのでは」と。
その後、発注側には和氣さんも加わり、だいぶ抽象的なイメージ中心で行われ。
"(なにかが)形をなしていないところから始まり、バラバラから形をなしていくイメージ"といった感じだったそうです。
※こちらのYURiKAさんのインタビューで語られているような話だったのかなと。
位置づけとしては、極めて抑制された描写で「余白」が大きく読者に行間を読ませるタイプの原作に対し、アニメ本編は「わかりやすい」方向に翻案を行う一方で。
OP・EDはキャッチーというよりアーティスティックに……原作のイメージにより近い形で行きたかったとのこと。
発注の方向も「やっちゃっていい」「かなり前衛に振っていい」とのものだったそうで。
ただ、請けた照井さんの方は「そうはいっても間口も広く」しないとと大いに悩み。
結果、「ややキャッチーさが強すぎるかな」とは思いつつ第一稿を提出したところ好評で、以後、概ねその線で話が進んだとのこと。
このあたりで、そのOP曲を歌ったYURiKAさんも登場、話題に参加。
第一稿から最終的の形になるまでの間の変更が諸々話題に。
当初、チェロは入れられてなかったり。YURiKAさんに渡されたデモの時点の指示では歌のキーが半音高かったとのこと。
プリプロの時点でキーの高低を三種類試し、真ん中の半音下げに落ち着いたのだとか。
歌い方もどれくらい"声を張る"かいわゆる"ウィスパー"にするかも悩みどころだったそうで。
YURiKAさんとしては"感情を殺す""自分を殺す"覚悟で無機質にやるイメージで最終版よりずっとウィスパー寄りでまずやってみたとのことです。
歌手として「鏡面の波」は三作目にあたり、これまで元気で明るいイメージがあったかと自分でも思えていたところ(イベント内では他アニメ作品関連ということもあってか触れられませんでしたが過去二曲は『リトルウィッチアカデミア』一クール目ニクール目の各OP曲(『Shiny Ray』『MIND CONDUCTOR』)で。確かにどちらも「元気なイメージ」です)。
あえてそれを崩してでも、という決意があったのだとか。
ただ、そこら辺は織り込んだ上での依頼でもあり、うまいこと調整して現行の形に落ち着いたのだとも。
YURiKAさん「ああ、そういうの思ってたより配慮して貰えているものなんですね」
武井さん「当たり前でしょう。(そういうのが)プロデューサー(の仕事)ですよ?」
照井さん「かなり時間をかけリテイクも多めに調整させて貰えたのが助かった」
武井さん「ああ、そちら方面から「大変なんですよ」と声も出ていました(笑)」「この作品はそれぞれの方面で「こだわる」人が集まった、集めた観もありますね」
和氣さん(出来上がってきての印象は)「(従来のいわゆる)アニメっぽくないな、と。依頼としては(さきほども言ったように)「なにもないところから音楽構築されていくイメージ」とか出していて。でも「言うは簡単」だけど!作るのは大変なわけで。イメージ通りに仕上げて頂いてありがたいな、と」
ここで、五人目の登場はOP映像ディレクター 天野清之(面白法人カヤック)さん。
参加の経緯は和氣さんの提案から。
アニメ関連はだいぶ畑違い、経験も少ない方ということで話を持ち込まれた武井さんはすこし戸惑いもしたそうで。
和氣さんは以前携わった『バケモノの子』イベントでカヤックにイベント展示関連で仕事を投げてみたところ。
普通は提供した素材を元に編集や加工を施して対応するものであるところ、提供素材を「資料」にしてプログラムを組んだりあれやこれやでインタラクティブな展示を行う案が返って来て、そして実施されたそうで。
「この相手となら、ゼロベースから。アニメでよくあるものでない全く違う全然異なるものが作れるのでは」
と思えたのだとか。
そして『宝石の国』では正にそれを求めたかった、と。
和氣さんの発注としては当初、原作表紙のビジュアルのイメージを出したかったのだということでした。
バウハウス(イベント中この後何度も重ねてイメージ参照先としてこの名前が出ました)
バウハウス - Wikipedia
あたりの、絵画を3D的に加工してみせた映像作品あたりを参考に???という話だっとか。
※ここらへん。
例えば、名画が動くこちらの動画ですとか。
「全編が動く油絵で構成された」映画『ゴッホ 最期の手紙』あたりが最近話題にもなりました。例えばこういう?
請けた天野さんの方ではというと。
表紙を幾何学的に捉え色彩を強調しつつ、数学的(思考)やプログラムを活用して表現しようと考えたのこと。
従来のアニメ映像のアプローチだと自分はただあまりに経験(も技術も)欠き、やれることが少なくもあり。
幾何学、数学、プログラムといった強みを活かしたかったとのこと。
ただ、天野さんには他分野の映像の仕事での「コンテを切る」経験はあっても、「アニメの絵コンテ」というのはだいぶ特殊なものであったらしく。
「アニメーションの設計図である」ともしばしば解説されるアニメの絵コンテは構図からタイミングから意図から動きから、およそその場面が描くべき全てが指示されているべきもので、ラフにイメージを記した他方面の「コンテ」とはあまりに趣が異なるそうで。
そこのギャップでは発注した和氣さんも請けた天野さんも大いに苦労し、互いに「意図が伝わっていない!」と悩んだのだとか。
「これだと誤解を招く可能性が……!」と和氣さんも思い悩み、提出された「コンテ」をなかなか武井さんにも見せようとしなかった、といったエピソードも。
ともあれ。
その天野さんが、最終版よりはだいぶ前のバージョンのVコンテを披露。
※少し、余談。
肝心の映像を出せないのが苦しいんですが……。
個人的な雑感を書くと。基本構成は現OPにそのまま繋がりはしつつ。
とことん「フォスとシンシャを軸」にしたVコンテのように見えました。
浮かぶフォス。砕ける。青緑に輝く破片が「宝石の国」のロゴを形作る。
破片が吹き流れていく。その先に赤く輝く水たまりのようなもの。現れるシンシャ。
シンシャも砕け、青緑と赤のきらめく破片が絡まり合うように流れていき……。
その二人の欠片を鏡面として次々と他の宝石たちが映り込む。
なお、実際に放映されたOPはこちら。
両手両足を広げて笑顔のフォスは京極監督が足したとかなんとか話が出ていたかも?
鏡面に映り込む宝石キャラたちは「どの宝石にどの宝石キャラが映り込んでいるか」もたぶんとても面白いものになっているはず。
以上、余談終わり。
天野さん「フォントは何を使っているの、と質問されたりもするんですが。クレジットにも名前を出してもらっているdotMPの堀内秀さんに適時作って頂いてます。明朝体ベースでところどころくるくるっと巻くような装飾を入れてみたり」
武井さん「そのフォントはOPでしか使われてないので声優さんたちが「ずるい」と(笑)「私たちのキャスト表記もあんな風にして欲しかった」って(笑)」
続いて、今度はOPの最終版に極めて近い、しかし、ほぼ最後がちょっとだけ違うバージョンが披露されて。
その版ではほぼ最後のフォスの体の各所にノイズのような揺らぎが入って。
なんでも、それはフォスが作中で喪い、入れ替えて変貌していく箇所に対応していたのだとか。
気づく人は気づく、そんな演出を意図しようともしていたそうで。
(没になったけれども)面白い試みだったのだけれど、とのこと。
また、天野さんは実はOP以外にもこの作品で幾つか面白い仕事を手がけていて。
まず「鏡面の波」のアニメ版ジャケットの一部を担当。
そして、ブルーレイ/DVDの各宝石バージョンのCMも天野さんによるもの。
面白いのは「実はこれはCGではない」こと。
宝石を模したオブジェを実際につくり、そこにプロジェクションマッピングでアニメ本編映像や絵コンテの一部や各種素材など……つまり制作過程が映し出されているそうで。
ユニークだった制作過程も込みでぜひ注目してください、観てください、という思いもあったのだとか。
そして、公式サイトの「アンタークカウントダウン」も天野さんのアイディア。
作品が好きになったあまり、頼まれた仕事の他にも何かしたくてたまらなくなり。
なんと1話放送の前々日になって「こんなのをやりませんか?」と提案していったのだとか。
提案する方もする方なら、受ける方も受ける方で。
武井さんは「やりましょう」ということで凄い速度で各方面に調整に動いて……。
武井さん「天野さんも数時間の間に(イベント会場のプロジェクターにカウントダウンページを映しつつ)これの制作をどんどん進めていて」
和氣さん「また凄い単位の時間感覚ですね」
武井さん「普通あり得ませんね(苦笑)」
なお四分割の結晶部分はそれぞれ放送局を示していたそうで(放送時間が異なるため)。
それぞれの放送時刻が訪れると、その部分が解放されて。
「アンタークチサイト」という名前。
キャスト名(伊瀬茉莉也さん)。
「スペシャル壁紙ダウンロード」のリンク。
が段々と明らかになっていくという。
カウントダウンの直接の対象は登場した7話だけども。
非常に力を入れた、作品のターニングポイントともなる8話に向かって、少しでも盛り上げて行きたかったのだということだったそうで。
OP楽曲を手掛けた照井さんと天野さんの初顔合わせは、正にその放送前々日あたりだったそうですが(折角なので互いに会ってみては、ということだったそうで)。
そんな時期なのにまだ新たにそんな試みをしている様子には、照井さんもだいぶ驚かされたのだとか。
そして、このあたりから最後に加わったのが、ビデオグラムパッケージデザイナー 山田知子(合同会社チコルズ)さん。
起用は武井さんによるものだそうで。
なんでも、原作漫画の装丁はデザイナーでもある作者の市川春子先生自身が手がけている美麗なもの。
ブルーレイ/DVDのデザインもそれと比べても恥ずかしくないものにしなければ、絶対に失敗できないししたくない……と人選に悩みに悩み、TV放送が始まった数か月前に至ってもまだ発注先を決めかねていたのだとか。
そんな時に時講談社に行った際。
ものすごく美しい見事な印刷の『宝石の国』のダイヤが大写しになったポスターを見掛け、「これはなんですか」と。
※こちらに画像が掲載されています。
二年前に印刷会社とデザイナーによる、印刷技術のプレゼンテーション企画(上記リンク先で紹介されている「INK DE JET!JET!JET!」)があり。
それに参加することになった、エディトリアルデザイナーの山田さん。
「できるなら、大好きな『宝石の国』の大好きなダイヤでやりたい!」と思ったのだそうで。
講談社だかアフタヌーン編集部とはなにかしら過去に縁もあったということで、企画書を市川先生の担当編集者に持ち込んでみたところ……「(私には)なんだか(企画の)意味がわからない」との反応だったとか。
ただ「(私には分からないけど)デザイナー出身の市川先生なら意図が分かるなり何か感じることがあるかもしれませんので、お伝えします」となって。
そして、市川先生の手に届くと、その日に内にすぐ快諾の返事が届いたのだとか。
そんな経緯で講談社某所に貼られていたポスターを見掛けた武井プロデューサー、その時点で(大事なこの仕事を頼む相手をずっと探しあぐねていたけれど)この人だ!と思えたそうです。
ただ、武井さんはパッケージデザイン等をコンペ形式で募集していたこともあり。
山田さんにもその参加という形で企画案提出を求めることになったのだそうです。
で、山田さん。
「まさか、私が『宝石の国』にそんな形で関われるなんてある筈がない」
とこの期に及んでも思い込んでしまっていたそうで。
コンペに参加できる機会をもらったのを幸い、「せめて爪痕を残そう」と。
三案出した内、二案は「こんなものコスト的にできるわけがない!」と自身わかっている「やれたらいいな!」という夢想みたいな案を叩き込んでしまったのだとか。
実際にイベント会場のプロジェクターに企画案を映し出しつつの解説も。
例えばA案。
キャラクターたちは異なる硬度で、触れあえば硬度が落ちる側が割れてしまったりする。
それが象徴するように彼らの間には断絶がある。それを示したい。
出来る限り透明な素材でパッケージ。
蛇腹状に折りたたまれ、四分割された中にキャラクターを一人ずつ配置。
開封していない(折りたたまれた)状態でみるとピックアップされた4人(4体?)の宝石たちはごく近くに集い触れ合えているように見える。
しかしそれは透明なそれぞれの場に分かたれた四人四枚が重ね合わせられてそのように見えるのであり、本当は彼らは互いに隔てられている。
撮影・録画不可とのことで正確な引用とは程遠いけど、大体そんな感じだったかと。
やはり同様に大胆?なB案も解説され。
その上で、採用され商品の基本となったのがC案の「ジュエリーボックス案」。
シンプルに……そしてプリミティブさや、シンメトリーといったものを大事にしたかったとのこと。
各巻でピックアップされる宝石たちは、まず山田さんがデザインラフを提示(※コンセプトとして「抽象と具象の中間」「光と線で描く」といったものがあるそうです)。
キャラクターデザインの西田亜沙子さんがそれを元にイラストとし。
仕上げとして更に各種のエフェクトが載せられていく。
※現在出来上がっている数巻分、その過程の各段階の画をこのイベントでは目にすることが出来、眼福でした。
武井さん一押しのパッケージ四隅の箔押し……中央の宝石たちを狙う月人の矢束も、
「ああ、これ、シンメトリーを強化もしているんですね(武井さん)」
とのこと。
そしてエディトリアルデザイナーである山田さんはパッケージデザインに加え、ブックレットの構成も手がけていて。
むしろ、主に本の構成を手がけている山田さんにとってはこちらこそは更に本領発揮というところなのだそうで。
非常に多くの情報を(例えば1巻付属なら32ページという)限られたスペースにコンパクトかつ美しく、そして諸々意図を持って配置し構成してみせた手際は山田さんの自信作でもあり、武井さんも「ぜひ注目してみて欲しい」とのことでした。
※余談。
山田さん「パッケージデザインで、四隅をカットするデザインは強度も問題になり印刷会社さんと相談もして。あと、この形状だとブックレットの収納も問題になるんですがこの段階だとそもそもブックレットがあるのか無いのかも分からなくて」
武井さん「それはこちらの問題でしたね。すみません」
といったやり取りも。
そして、最後に和氣さん、武井さんの締めに近いところでのコメントから一部抜粋。
和氣「(CGと縁遠かった自分を始め)「はじめてだけどやりたい、挑戦したい」という人が集まった作品です」
武井「原作が好き、広めたいという初期衝動から始まった企画でした。結果として、(原作を大いにリスペクトして、そうであるからこそ)原作とは大きく異なる良さを持った作品になったかと」
イベントの総括及び作品のプレゼンテーションとしても見事なコメントかと思えました。
■幾つか個人的な感想。
◯気になる話が二つ
質疑応答の時間はなかったので聴くことはできなかったのですが、もしあれば聞いてたかったことが、二点ほど。
1:OPのコンセプト
天野清之さんが示した初期の?Vコンテは先述の通り「フォスとシンシャが軸」と現行より更に強調されていた観が。
それは発注元の指示だったのか、天野さんによる方針だったのか。
また、その部分が現行に移り変わっていった事情について、いろいろ伺えるなら伺ってみたいな、と。
2:ブルーレイ/DVDのパッケージデザイン
「ジュエルボックス案」とされ、実際その通りのイメージですが。
黒光りする色といい形状といい、同時に「墓石/墓碑のようでもある」と個人的に思えもします。
宝石たちの衣装が「喪服である」という市川春子先生のコメントからの連想でもありますが。
そこら辺、どうなんでしょうか。
◯8話「アンタークチサイト」の素晴らしさ
イベント中にも何度かその話題が出ましたが。
8話「アンタークチサイト」は素晴らしい傑作回でした。
ちょうど自分もこんな記事の中で取り上げてもいます。
こちらのまとめともども、ぜひ。
◯今後への期待
武井さんが半分冗談のように。
武井さん「まだまだ話したいことはたくさんあって。そう、ロフトプラスワンで「オレンジナイト!」とかやりましょうよ和氣さん」
和氣さん「一人だと場が持ちませんからそのときは一緒に出てください」
と口にした一幕がありましたが。
普通に本当に実現させて欲しいです。
勿論、それは一例で、別の形でもまったく構わないんですが。
例えば以前行われた「第30回 『CGWORLD CHANNEL』 TVアニメ『宝石の国』メイキングSP!!」の続編ですとか。
とりあえず、以上です。