オペラ『マクベス』(ヴェルディ)野田秀樹演出

2004年5月初めに、野田秀樹演出・オペラ『マクベス』を観た。
すると、「砂糖合戦」で《私》が、イタリア統一の空気と重なり「結びのところが一層華やか」と語ったそのフィナーレにおいて、《称えられるのは王となるマルカムではなく、マクダフである》ことがわかった。


そしてそれが幕開けの、ダンカン王ではなくマクベスが称えられたシーンに重なること、そういえば、ポランスキーの映画『マクベス』では、極めて明確にそうした終わらぬ連鎖を示していたこと、そして、魔女の予言は「バンクオゥは子孫がいずれ王になる」であったのに、マルカムもマクダフも勿論、バンクオゥの子孫ではない、すると、「更にその後」があるのではないか…といったこともただちに連想された。


そうなると、むしろ、そのフィナーレは華やかに統一を称える賛歌ではなく、当時の現実世界のガリバルディとヴィットリオ・エマヌエーレ二世&カヴールの間の緊張関係を暗示する、魔女の哄笑に聞こえては来ないか。自然、そんな考えが生まれてくる。


しかし、更に調べれば、そもそも、オペラ『マクベス』のフィナーレは、初演から18年後の脚本改訂で追加されたものだということが分かる。
即ち、イタリア統一の時期とは、時間的にもずれてしまっている。
《私》がどのような演出のオペラ『マクベス』を観たのかはわからない(『空飛ぶ馬』が刊行された1990年に近い年に、新聞に劇評が出るような有名劇場で『マクベス』が上演されたのはいつか、と調べていけばおそらくわかるのだろうけれど)。しかし、脚本改訂の経過は事実として存在し、当時の演出も、改訂後のフィナーレの歌詞の人名は同じだったのではないだろうか。
ならば、《私》の語ったことは、二重の意味で、問題がある。


そして、ここまで調べ、考えてきて、今更ながら、それが「ヴェルディのオペラ」の話であったことに思い至ることになる。
即ち、もともとそれでなくても、「北村薫北村薫である以上、そうした諸々のことを当然分かった上で《私》にそう語らせたのだろう」と推定できるが、それが「ヴェルディのオペラ」のこととなれば……それは推定ではなく、もう、事実といっていい。『冬のオペラ』の作者が、そうしたことを知らなかったわけがない。


……かくして、紆余曲折を経て、「北村薫は、全てわかった上でそのように《私》に語らせることで、『空飛ぶ馬』の他の幾つかの場面と同様に、極めて才気がある少女だとしても、《私》はあくまで《19歳》であることを表現しているのではないか」という結論に辿りつく。
こうしてまた一つ、北村作品が《正にそうして描かれるべきやり方で》描かれているのだということがわかることになる。


しかし、以上のように、《私》のオペラ『マクベス』に対する感想は幾つか前提に間違いがあると思われるのだけれど、何かの作品について語るとき、最も重要なのは、作者の意図や作品の性質を正確に捉えることではない。作品に接し、それについて語ることで、読み手自身がどのように現われてくるかこそが大切なのだ。
そして、《私》はオペラ『マクベス』に対して、円紫さんが「独創性を賛美」するほどの、痛快な画を描いてみせた。その画は、きっかけとなった読みの正否に関わらず、独自の生命を以って存在し得るし、価値を持つ。評論とは、そういうものだろう。


しかし、《どんな読みも、その人らしい表現になっているならば価値を持つ》というわけでは決して無い。
更に言えば、それが《自己を賭けた表現》であっても、それが本人自身にとってはともかく、作品として公の場に出すだけの《価値あるもの》になることは稀だ。
当たり前だ!!
何に対してであれ、必死にやれば《価値あるもの》が出来るというのであれば、人は何を迷うだろう。


野田演出『マクベス』は、そうした「その人らしい表現ではあるけれど、《価値あるもの》ではない」作品の典型だと思う。
野田演出の最大の特徴は、魔女を骸骨の集団とし、彼らを死者の想念・怨念の集合体として捉えたこと。
そして、死者たちは仲間を欲する。権力や《正義》のせめぎ合い、ぶつかり合いの中であらゆる階層の老若男女が彼らの仲間入りをしていく。
マクベスマクベス夫人も、この劇の主役ではない。彼らも、彼らの野心も、死者たちの怨念の連鎖に操られ、引きずられる道化に過ぎない…。

 
おそらくそれは、野田秀樹という人が追い続けるテーマに加え、現代の政治情勢---特に、アメリカのイラク侵攻やイスラエル問題など---に対する問題意識が色濃く重ねられた結果なのだろう。それは、野田秀樹という才能ある演出家の、いかにもその人らしい作品であるのかもしれない。しかし、その観方は、現在においては当たり前な、あまりに当たり前なものでしかない。
「Fair is faul,faul is fair」の『マクベス』を題材にして、舞台上で《常識》を表現するというのは、何かひどく性質の悪い冗談としか思えない。
大体、マクベスマクベス夫人も小物でしかない『マクベス』など、面白いわけがない。
これだけひどい演出では、音楽も良いものになりようがなく、そちらの方面でも問題外の出来だったと思う。
ようするに、野田秀樹という演出家、オペラ『マクベス』、現在という《時》の三点セットは、絶望的に相性が悪かったのだろう。それぞれが別の要素とくっつけば、恐らく違う結果が生まれただろうとも思う。