キャラメルボックス『スキップ』

※この後、計三回観ての感想を、12/19付で書いています。ここで書いた内容のリライトも含んでいますので、「一回観ての感想」ということでこの12/11の文章も残しておきますが、できればそちらを読んでください。

 遅めですが、キャラメルボックス『SKIP(スキップ)』(東京公演12/11昼)を観てきました。
 …一言でいって、凄くいいです。
 驚かされ、そして面白い、三つの「凄い!」がありました。
 細かい感想や疑問点は、あと何度か観るつもりですので、その後もしまとめられれば、改めてまとめたいと思います。
 今回は、その三つの「凄い!」についてだけ、おおまかに書きます。
 即ち、

(1)必要であるべき「間」を取る余裕が無く、殆どろくに取っていない。それなのに、確かにその場面に見える。凄い!
(2)「広い劇場中に声を張り上げて行き渡らせ、演技を見せる分、抑揚・緩急が利きにくいのに、真理子の感情の微妙な動きをどう表現するか」その課題に二つの工夫で応えた。凄い!
(3)『スキップ』は「ファンタジー」ではなく、「誰にでもあること」を描いた話。それを劇でうまく表現した。凄い!

 ということです。

 以下、ざっと書いていきます。

※区別のため、今後、劇『スキップ』は今後『SKIP』、原作『スキップ』は『スキップ』と表記します。



必要であるべき「間」を取る余裕が無く、取っていない。それなのに、確かにその場面に見える。


 劇の原作にするにしては、とてもとても長い『スキップ』を、できるだけ忠実に、そのまま台詞にしている劇。登場人物がお互いに口にする言葉だけでなく、地の文もナレーションとして、俳優が喋っていきます。
 勿論、幾つもの場面はカットされていますが、それでも膨大な数の場面と台詞を、僅か二時間という枠の中で展開させなくてはいけない。結果、『SKIP』は、台詞、台詞、台詞と途切れなく続く言葉の洪水で溢れ返ることになります。

 でも、『スキップ』の中では、のべつまくなしに言葉が続いてくるわけではありません。言葉と言葉の合間に、ちょっと考える、じっと考え込む、もっと大きいのになると美也子さんが間を取るために紅茶を淹れる、真理子がカレーをゆっくりと食べ終える…。
 そうした「間」は、どんな文芸作品でも極めて重要な要素です。特に、それが北村作品なら、なおさらです。
 でも、はっきりいえば、この作品の分量を二時間の劇にするには、そうした「間」を取る余裕は殆ど無い。また、原作にそれほど思い入れをもたない、あるいは原作を読んだことが無い人にも飽きさせずに見せるためには、ジェットコースターのようなスピード感が必要---結果、『SKIP』において、それらは、とことん削られています。
 そして当然、それを削ってしまえば場面が場面として成り立たない----その筈なんですが、それらが、どうしても、確かに「その場面」に見え、感じられる。不思議です。信じられない魔法をみせられたようです。

 これを実現させたのは、もう、何より、作品への愛情であり、こだわりだと思えました。これだけの分量のテキストを、劇として立ち上げつつ、それを損なわないように削って削って削り抜きつつ、繋ぎ合わせていく。一度覚えた台詞を入れ直し、演出も付け直していく…。
 それは、ただ間尺にあわせるだけでも気の遠くなるような作業を、熱意と敬意を込めて繰り返し繰り返し、公演中の今もやり続けている結果でしかありえません。

 細かい個々の場面がどうこうというより、眼前で演じられている『SKIP』は、確かにあの『スキップ』の劇だ、と思わされる。そのことにまず、脱帽です。



広い劇場中に声を張り上げて行き渡らせ、演技を見せる分、抑揚・緩急が利きにくいのに、真理子の感情の微妙な動きをどう表現するか。

 サンシャイン劇場は800席を超える広い劇場。
 その客席に十分に声を響かせるためには、どうしても声を張り上げたり、演技を誇張する必要があります。
 その中で、現代小説である『スキップ』の登場人物---特に主人公・真理子の微妙な感情を表現する。それは、役者一人では、まずもってできない相談です。では、どうすればいいか---この劇では、それは大きく二つの方法で解決されています。

 一つ目は、この公演の演出の目玉である、「17歳の真理子と42歳の真理子をそれぞれ異なる役者が演じ、かつ、同時に舞台上に立つ」という手法。


(以下、しばらくネタバレ。反転文字で表示)


 時を《スキップ》した後、真理子が喋る時は、場面場面に応じて、時に17歳の真理子が語り、時に42歳の真理子が語る。そして、一人の真理子が語る間も、もう一人の真理子は舞台から消えず、その傍らにいて、その心を表現するのです。
 例えば「教師・桜木真理子」として42歳の真理子が他の教師と話すとき、いつもの日常会話を平然としているような姿の42歳の真理子の隣で、17歳の真理子は驚きや困惑の表情をあらわにする。いわば、外面と内面のキャラクター化です。
 
 この手法がもっとも興味深くなるのは、真理子がもう一人の真理子に視線を向ける時、そして、二人の真理子が劇中何度か、お互いに見つめ合う時です。
 42歳の肉体が出会う出来事やその行動を、17歳の心はどのような眼で、どのような表情で見つめるのか。17歳の心の動きに、42歳の肉体の眼は寂しく、悲しく何を告げるのか。一度、それにだけ注目してこの劇をみることも、面白いだろうと思わされます。

 
(以下、数行後はネタバレ度大)





 そして、勿論この仕掛けは、ラストにおいても大きく利いてくるわけです。
・・・ネタバレ終了・・・


 二つ目は、地の文も役者がナレーションとして口にすること。主に真理子の心理や分析・洞察を劇の上でもそうして出してくることで、心理描写の大きな部分をそれに任せています。
 これについては、「そうした手法は、演劇的手法としてレベルが低いのではないか。微妙な感情をも、言葉に頼りすぎることなく表現して見せてこそ、舞台にする意味があるのではないか」という考え方もあるでしょう。実際、今回の公演ではそうした批判も多いそうです。しかし、少なくともこの公演では、次の項で書く通り、このナレーションには、明確な別の目的もあるのであり、それを考えれば、これは実に納得のいく手法なのではないか、と思うのです。
 また、北村先生の文章、北村先生の作品世界をできるだけ忠実に舞台に再現したい、そのためにはその描写を体の演技や演出でなく、その言葉をもって為したいという思いも、強くあるに違いありません。
 



『スキップ』は「ファンタジー」ではなく、「誰にでもあること」を描いた話。それをどう示すか。


 北村先生が事あるごとに何度も言明されている通り、『スキップ』は「ファンタジー」ではなく、「誰にでもあること」を描いた作品。
 これほど何度も語られるのは、それがこの物語の核心であるから。
 その作品を劇として表現するとき、それをなんとか示したいと思うのは、とてもよくわかる想いです。
 そして、『SKIP』におけるナレーションは、何より、その手段として活きているのではないかと思います。




(以下、しばらくネタバレ。反転文字で表示) 

 この劇は、とある教室の風景から始まります。
 そこでは現代文の授業中。教師の指示の下、生徒たちが教科書を朗読する。
 そこで読み上げられる作品は、北村薫『スキップ』。
 即ち、『SKIP』は、ある授業での朗読によって生徒たちの脳裏に描かれる『スキップ』の世界として、ある種の入れ子構造の劇中劇として演じられるのです。

 その設定の下、地の文のナレーションはしばしば、17歳と42歳の二人の真理子役以外の幾人もの人間によって読まれることになります。
 そうして、真理子の想いは、様々な人によって、心を込めて読み語られます。まるで、自分自身のことのように。まるで、自分自身が真理子になったように。

 やや飛躍しますが、それはこの物語が一ノ瀬(桜木)真理子という、「特別に強い心をもった女性の現代のお伽ばなし」ではないということを示しているのだと思います。
 無常な時の流れの中で地団駄を踏みたいような思いをしつつ。失って二度と還らぬものや、遂に求めて得られぬものがあることを知り、受け止めつつ。《余儀ない》ことを経験しつつ。《それでも》「だが、私には今がある」と前を向くとき。少なくとも《その時》には、その人は真理子と同じ《スキップ》の足取りをしている。
 『SKIP』をそういう劇として、真理子をそういう主人公として舞台の上に描きたい。願わくば、原作よりも更に、真理子の物語が、観る人それぞれの物語でもあると感じられるように---それが、この劇の核心ではないか。そう思うのです。
 

・・・ネタバレ終了・・・

以上。