桂枝雀七回忌追善公演〜二つの『代書』、小三治の今日この時限りの『一眼国』

【二つの『代書』】

生前の枝雀の姿をそのまま伝える、ビデオ落語『代書』。
この公演で映されたそれは、サゲが大食いの形であることから、DVD集に収録された形より古い、初期のものなのだと思われました。
その演出の差に驚かされます。サゲだけでなく、同じ噺に加えた工夫を、さして長くもないであろう期間であそこまで洗練させたのか、という驚きです。

まず、枝雀版『代書』の核心は、「一月の一日、太閤さんとおんなじ日、いずれ出世する…親なればこそ、やな」という下りが、決して単なる皮肉にも呆れにもならないところにあると独断します(…といっても、生で観たことすらなく、DVD版と今回の映像でしか知らないのですが、、、)。
そこを中心にした部分の伝わり方が、今回観た形からDVDに収められた形とでは段違いだと思ったのです。

洗練、というよりも噺の研磨とでもいうべきものはほぼ全編に及びます。
なかでも留五郎が語る父の言葉が一つの型のように繰り返されるようになった部分などは、観客の脳裏に描かれる父子の像を実に鮮やかなものにしているように思えました。
次に大きな変化は、代書屋がなんのかんのと振り回されながら、中盤あたりまでは辛うじて、比較的平静さを保っていられるようにしたことです。
そのことによって、代書屋は留五郎とそれを囲む今は亡き父、母、友人の姿を見事に映す、無類の鏡となっています。
また、それにより、太鼓焼、今川焼き、巴焼き…という部分などでの代書屋の性格描写もより生きることになります。
勿論、言葉のリズム、テンポの劇的な改善も導入からサゲに至るまで行き届いてきています。

努力とこだわりの人・枝雀の人物像はそのエッセイ等からも暖かく伝わってきます。
しかし、やはり噺そのものの変遷こそが、何より一人の噺家の姿を伝える、という当たり前過ぎる程当たり前のことを、再確認させられました。

柳家小三治の『一眼国』】

一度、図抜けた当たりをとった芸人は、客の「もっと、もっと」という声に圧され、より面白いものを、より凄いものを、と何時までも何処までも進まざるを得ません。
柳家小三治はこの追善公演において、『一眼国』を、枕で語ったそうした芸の業を描くものとして描いたのだと思いました。

小三治が故人についての思い出として、枝雀がまだ爆笑王「枝雀」となる以前の小米時代の《飾らず、さりげなく、なのに面白い》という芸こそ、枝雀という噺家の本当の凄さであり、本物の芸だと思い続けていたという意味のことを繰り返し語ったこと。
そして、そういう自分だからこそ、《生前話す機会は改めて数えても十指に満たず》、《楽屋で一緒になると、その端と端で二人、陰気に誰とも話さずぽつねんと座っていた》という関係なのに、《なぜか眼と眼がふと合ったりすると、なんとはなしに嬉しい気持ちになった。最近、枝雀の奥さんからも、彼の方でもそう感じていたのだということを伝えられた》ということ---つまるところ、同年齢でもあり、かたや東の小さんの一番弟子、かたや西の米朝最愛の弟子というライヴァルだった自分こそ、かの人の真の理解者の一人だったと語ったこと。

それらのことを思うとき、香具師が別れしなに六部にかける、《江戸に入ってくるときにはまた訪ねてきて下さいよ…》《お前さんの部屋はちゃんとこしらえとくよ…》といった言葉。
捕らえられ、這いつくばり、客席をうかがう眼は特別な意味をもって迫ってくるように思えました。

その他追加メモ。

「お楽しみ」となっていた米朝は『鹿政談』。
唐突ですが、この噺を改めて高座で聞いてしばらくして、唐突に久生十蘭の「顎十郎捕物帳」の中でも最も好きな「丹頂の鶴」はこれが元だったのか、と思い当たりました。
そういえば、いつだったか、山田風太郎の何かの短編のどこかの場面について「あ、これ、『一眼国』だ!」と思ったことがありましたが、題名を忘れてしまいました。
こういうのは、思ったときにどこかにメモでもしておくべきだとつくづく思います。

そういうわけで、続けて脱線のメモ。
小説に引き込まれるとき、自然と文字から声が響いてくることがあるのは、多くの人が経験することだと思います。
時にはそれが明確に「誰か」のものであることもあります。
それが、「丹頂の鶴」の見せ場の台詞は仁左衛門であり、山田風太郎「宗俊烏鷺合戦」(『地獄太夫』などに収録)では吉衛門(実際に観たことがある河内山は、仁座衛門が初役で挑んだものだけなのだけれど)となります。
そして、それは誰の声であるかはともかく、そのようにして読まれるべくして書かれたものだと感じます。

歌舞伎も落語も日本ミステリの古典も、全て北村薫の誘導に従って触れることになった世界ですけれども、ほんの少し踏み入っただけで、それらが幾重にも絡み、重なり始めていくのには驚かされ、楽しまされ、けれどため息も尽かされます。
そうした地層の上にこそ初めて、あの《私》シリーズの世界が築かれていること、本当にそれを「読む」にはどれだけのことが必要とされるのかが、漠然とながらも伝わってくるからです。


・・・もう、ぐちゃぐちゃでいいや、ということでもう少し続けてメモ。
「織部の霊」で円紫さんが「茶金」を演じるのはその別題が「はてなの茶碗」であるためですが、「円紫さんらしい、澄み切った明るさの出ている高座」とされるそのイメージは、米朝の「茶金」が近いのではないかと思います。


また、同じく「織部の霊」の中で夢と落語、ということで「夢金」と共に例に出される「鼠穴」は、サゲの「夢は・・・の疲れだ」というところからの出番かと思われますが、そこに相応しいのは、円生の緊張感に満ちた一席でしょう。
何度聞いても否応無く引き込まれる噺ですが、もしも「鼠穴」という噺を知らずに、初めて円生の映像(円生の「鼠穴」は音源だけでなく、動画で目にすることもできる)で触れることが出来る人は実に幸せだと思います。
もしそうならば、この噺で私が最も好きな次の場面(背景色と同色の文字で引用)などは、どんなに深く響くだろうと思うからです。


「火事で焼けて、俺んとこへ金ェ借りに来たら貸さねェ、うん、そんで… 首ィ括って死んだ……えれぇ夢見やがったなこの野郎」