『スタア誕生』〜極めてプライベートでありながら、どこまでも普遍的。二人の主役どちらにも重ねられる、当時にして既に伝説のスター、ジュディ・ガーランドの物語

ジョージ・キューカー監督、製作シド・ラフト、ジュディ・ガーランド主演のDVD『スタア誕生』を観て、圧倒される。

物語と現実の交錯。エスターとメイン、二人の人物どちらにもに重ねられる女優自身の人生。その流れに沿って、あくまでジュディ・ガーランドを立てるジェームズ・メイソンの名演。
王道そのものの筋でありながら、製作:シドニー・ラフトから女優:ジュディ・ガーランドに、そして夫から妻に贈られた個人的な物語でもある。極めてプライベートでありながら、どこまでも普遍的だという神業。
そして、《それでも》託されたものを守り、明日へと歩む《虚》の幕切れと、それがこれだけの作品に結実しながら、オスカーも逃し、ジュディ・ガーランドの人生を明るく照らしていくことも出来なかったという《実》の結末の対比も、物語に陰影を添えると思う(ただ、《実》の物語としても、傑作『スタア誕生』だけでなく、それで再起を果たしたジュディ・ガーランドの足跡はテレビシリーズや数々の舞台として残されたのだともいうけれど)。

作品中、特に好きなのは二人の結婚の前、スターとなったエスターが歌うのを階段からメインが眺める場面。苦悩や悲劇はメインの予感の裡に留まり、男の胸には歓喜がにじみ、女の胸には幸福が溢れ出している。だからこそ、そのシーンはその後の物語のどの場面よりも一層、哀しいものに見える。

(以下、20006/1/24に追記。)
補足:ジュディ・ガーランドについて。

彼女は1939年『オズの魔法使い』でドロシー役を演じ、主題歌『虹の彼方に(Over the rainbow)』と共にアメリカ最大のアイドル、"ミス・ショービジネス"となった。
だから、1954年の映画『スタア誕生』の観客は皆、以下のような彼女の略歴を多かれ少なかれ知っていたということになる。

・・・・・・1922年、ヴォードヴィリアンの父とピアニストの母の三女として生まれる。本名、フランシス・エセル・ガム。
姉二人と共に幼少から舞台に出演、わずか二歳で父母の舞台に飛び入り、『ジングル・ベルズ』を唄い大歓声を受けたとも。
やがてフランシスが12歳のとき、ガム家の三姉妹は「ガム・シスターズ」として、芸人としての本格的な出発をする。やがて彼女たちは人気ヴォードヴィリアン、ジョージ・ジェッセルからの「君達はガーランド(花輪)のように可愛くて綺麗だ。でもガム・シスターズという名称はよくないな」とのアドバイスから、「ガーランド・シスターズ」と改名(異説あり)。フランシスは彼女が愛するホーギー・カーマイケルの歌「ジュディ」の名に因んで、ジュディ・ガーランドを名乗るようになる。しかし、それから間もない35年、姉の結婚を機にガーランド・シスターズは解散。ガーランドは単身、ハリウッドにその将来を賭ける。

ジェッセルの助力もあり、ガーランドは14歳でMGM映画と契約。数本の映画を経て、39年、永遠の名作『オズの魔法使い』が公開。大喝采を受け、アカデミー特別賞を受賞したガーランドは一躍トップ・スターに上りつめ、MGMの大スターとして次々と大作に出演する。そして始まる、華やかな女優としての活躍と、その裏での苦しみと挫折。MGMとの契約時から、生涯逃れられなかった容貌コンプレックス。14歳のデビュー時からの睡眠剤・肥満抑制剤の常用。殺人的なスケジュールの連続。
41年、19歳での作曲家デヴィッド・ローズとの結婚。ドル箱スターの結婚を一大イベントにしようともくろむMGMの意向に逆らい、映画撮影中に二人で抜け出してラスベガスで密やかに挙式したことは、MGMの総帥ルイス・B・メイヤー(MGM=メトロ・ゴールドウィン・メイヤーのメイヤー)を激昂させ、その後の悲劇の遠因を作る。42年には映画撮影のため、中絶を強いられたとも。43年にはローズとも衝突、最初の離婚を経験する。
48年『踊る海賊』の頃には薬物中毒とノイローゼとに悩まされ、破滅的な素行の乱れを見せ始める。135日の撮影期間中、彼女が現場に姿を現したのはわずか36日。延長に延長を重ねてようやく完成したこの作品は興行的にも振るわず、MGMの苛立ちは高まっていく。彼女自身も薬物中毒の治療のため、撮影後、二週間の療養生活を余儀なくされる。

しかし、49年、畏敬するフレッド・アステアとの競演では再び強い意欲をみせ、撮影も順調に進行。彼女のみならず、アステアの、そしてMGM黄金期を代表する傑作の一つ、『イースター・パレード』を生んだ。
だが、気を良くしたMGMが再びアステアとのコンビで直ちに企画した『ブロードウェーバークレー夫妻』の撮影中、薬物中毒が進行した彼女は撮影所に現れることすら出来ず、遂に堪忍袋の緒が切れたMGM経営陣の怒りが爆発。初の本格プロデュース作品であった『オズの魔法使』を彼女と共に大成功に導いて以来、常にガーランドを護り続けてきた超大物プロデューサー、アーサー・フリードも彼女を庇い切ることは出来ず、MGMは彼女の降板を決断、かつてアステアと名コンビを組んだジンジャー・ロジャースガーランドの二倍、2万2500ドルという破格の高給で呼び寄せる。そのMGMの怒りの決定を聞いたガーランドは突然、完全な衣装とメイクで突然撮影所に登場し、リハーサルを要求。その鬼気迫る形相の凄まじさに怯えきったロジャースは楽屋へ逃げ、ガーランドは監督のチャールズ・ウォルターズに腕を掴まれ追い出されたという凄惨なエピソードが残る。
ガーランドはその後も転落を続け、続く大作『アニーよ銃を取れ』(アメリカショービジネスのテーマソングとなった『ショウより素敵な商売は無い』を生む名作となった)、三たび企画されたアステアとの競演作『恋愛準決勝戦』の連続途中降板、50年6月19日には自殺未遂と、打ち続く破滅的な行動の繰り返しに耐えかねたMGMは1950年9月、とうとうジュディ・ガーランドを解雇。45年に再婚した名監督ヴィンセント・ミネリとも、後に『キャバレー』の名演で映画史に名を残した長女ライザ・ミネリを残し、51年に離婚。女優としても私生活でも、正にどん底を迎え、再び立ち上がることはないと思われた。

そこで現れたのが、プロデューサー、シド・ラフト。彼女の復活を信じ、献身的な看護で彼女を再び立ち上がらせ、ビング・クロスビーフランク・シナトラらの後押しも受け、51年4月にはロンドン、10月にはニューヨークで奇跡的なカムバックコンサートを大成功に導く。52年にガーランドとラフトは結婚。そして54年、ガーランドとラフトは、再びガーランドを映画スターの座へと導くべく、監督に名匠ジョージ・キューカー・・・・・・女優の魅力を引き出す手腕では右に出るもの無しといわれた、オードリー・ヘプバーンマイ・フェア・レディ』、グレタ・ガルボ『椿姫』などの監督・・・・・・、作曲にあの『虹の彼方へ』を生んだハロルド・アーレンを招き、ワーナー・ブラザースから150万ドルの予算を引き出し・・・全てを賭けて作られたのが『スタア誕生』だった。

・・・・・・即ち、彼女はエスターであり、メインでもある。メイン夫妻の苦しみは彼女の苦しみであり、それを支えたプロデューサーにして彼女の三人目の夫、シド・ラフトの苦しみ。メインがエスターに託した誇りは、彼ら自身の誇りでもあった。


しかし、『スタア誕生』の製作には、およそ500万ドルという当初の予算の三倍を超える予算と10ヶ月という余りに長い撮影期間がかかってしまった。その最大の原因は何よりもやはり、ジュディ・ガーランド。映画のノーマン・メインの如く、彼女もまた、どうしても自分を抑えることが出来なかった。幾度となく撮影をすっぽかし、現れたと思えば、数時間で帰ってしまうことも多かったという。
そして、観客も彼らに冷たかった。公開当初こそ話題となったものの、その一ヵ月後には興行成績は明らかな下降を示す惨状に、ワーナーの失望は余りに大きく、アカデミー賞の発表を前に彼らは『スタア誕生』とガーランドを見放した。ワーナーの支援を得られなかったガーランドは『喝采』のグレース・ケリーに破れ、熱望していたオスカーを逃し、客足も戻ることは無く、彼女のミュージカルスターとしての映画復帰の道は絶たれてしまった。

その後もジュディ・ガーランドは歌手として、また、興隆期を前にした夜明け前の時期にあったTVシリーズのスターとして、後にはアカデミー助演女優賞にもノミネートされた『ニュールンベルグ裁判』などの演技派女優として活動を続けていく。しかし、彼女が年々更に薬物とアルコールに溺れ、破滅へと傾斜してのを誰にも止めることは出来なかった。
65年にはラフトとも離婚。その後も4年間に二度の結婚を重ね、69年6月22日、ガーランド睡眠薬の過剰摂取でこの世を去る。47歳。



2001年3月、全米レコード協会と全米芸術基金が"Song Of The 20th Century"を発表。

3位、「我が祖国 (This Land Is Your land)」ウディ・ガスリー。
2位、「ホワイト・クリスマス(White Christmas)」ビング・クロスビー


1位、「虹の彼方に(Over the Rainbow)」ジュディ・ガーランド

以上、漠然とだけ知っていたジュディ・ガーランドの略歴についてのまとめ。
参考:
「素晴らしき哉、クラシック映画!」「ジュディ・ガーランド」
「素敵なあなた」「The One and only」等。

ちなみに、『アニーよ銃をとれ』のDVDでは特典として、一部が既に撮影されていたジュディ・ガーランド版の映像を観ることが出来る。完成されなかったことが惜しい。
イースター・パレード』はジュディ・ガーランドの傑作であると共に、『踊る結婚式』と並んで最も好きなアステア主演作品。『雨に唄えば』とセットになったサントラCDはi-podに入れて何度も聴き返している一枚。DVDの副音声の解説も素晴らしく、中でも「ジンジャーが女房役、パウエルがダンスのパートナーだとすれば、ガーランドはアステアに演じる喜びを引き出した」という歴史家、イーサン・モーデンの評は心から頷けた。


それと、「観客はわかった筈」ということでもう一つ。英語圏の観客ならば、幕開けにおいて酔っ払ったメインが口にする、「馬を持って来い! 馬を! 馬を持って来た者には国をやるぞ!」が『マクベス』ラスト近くの有名な台詞であり、メインが酔いながらも自分がどんな惨状に陥っているか良く理解もしている------それでも、堕ちることを止めることが出来ないのだ、というメッセージを発していることを読み取れる人が多いだろうし、製作側も読み取られることを期待もしているのだろう。