和田誠『にっぽんほら話』〜和田誠&25人の名イラストレーター。豪華極まる短篇集

和田誠の25の掌篇に横尾忠則真鍋博をはじめとする名イラストレーター25人がそれぞれ挿絵を付けた豪華極まる短篇集『にっぽんほら話』---それが380円!講談社文庫---を本棚から取り出して読む。

他の多くの本同様、北村薫の推薦によってしばらく前にまとめて買った本のうちの一冊。なんとなく、まだ読んでいなかった。

各篇感想その1:「おさる日記」〜"最後の一行"もの

「また和田誠『にっぽんほら話』の「おさる日記」などを、アンソロジイの目次で見つけてしまった時には、それぞれ胸が痛みましたね」(『謎のギャラリー 名作館本館』より)

他にどこかで、「最後の一行」もの、ということで取り上げていたようにも思う。また、解説に出てくる、「絵本を作っている出版社の人」の心意気も北村薫で触れていたような記憶がある。ともあれ、確かに「おさる日記」が25篇の白眉。その「最後の一行」が文字通り圧巻。嬉しくもあり、一番おいしいところに既に半分誰かが手を付けてしまったコース料理を食べているような、寂しさもあり…。


しかし、他の作品も断じて「残り物」どころの話ではない。幸せ満足福袋。思わず感想が妙なノリの文章になるくらいの、素敵な楽しさ馬鹿らしさ。そして、軽させつなさいじらしさ。

各篇感想その2:「太郎とキツネ」(挿絵:横尾忠則)〜正に破格

例えば、本の真ん中、12作目で手ぐすね引いて待受けている、横尾忠則挿絵の「太郎とキツネ」。
まず1ページ目のタイトルイラストから、どかんと一発。それまでの作品の並びが作ってきた流れをいきなり一撃でひっくり返すどギツイ一枚。どれくらい凄いかというと、小津安二郎映画の家庭の風景に障子を突き破ってバイクでターミネーターが突貫してくるか、ジュリアン・ディヴィヴィエのオムニバス映画の中に、突然ねずみのジェリーと踊るジーン・ケリーが出現する位の打撃力。
そして、ページをめくって2ページ目、3ページ目で襲い来るフック、アッパーのコンビネーション。右と左のページで手を組んで吹っ飛んでくる絵の力(これから先も右と左で絵はペアの効果で迫ってくる)。何これ。異常。やっぱり変だよ、この人。言葉での説明などあまりに虚しい破壊力は、一度ご自身の目でお確かめあれ。その後も、全ページ挿絵付き。なんとその数、全18枚。
何が凄いって、この絵、見た瞬間、首根っこを引っつかまれて絵の中に引きずり込んで絵の中の視点を強制してくる。現代に生きる少年の前に、ただ一匹生き残った化けキツネが現れて、いろいろと化けてみせる。キツネがもわぁーっと少年にのしかかるように大入道に化ければ、ぐーっと下から見上げさせられるし、少年の隣にアトムが寝ていれば、こっちもいつの間にか横たわって寝息が聞こえてくる。漫画でおなじみの作用ではあるが、なんだかその威力がちっとも"おなじみ”ではない。そして、その絵と文章の相性も無論最高。まさに破格、という作品。

各篇感想その3:「第三の忍者」〜風太郎ファン必読。

この作品は山田風太郎ファンなら必読。とにかく必読。読もう。読むべき。読め。

各篇感想その4:「ロボット」(挿絵:林恭三)〜イラストならではの盛り上がり、文章ならではのオチ。

「ロボット」は、林恭三の絵が文章が生み出す雰囲気をぐぐにゅぅーっという感じで引き上げるが、ページをめくって最後になると、まさに文章ならではのオチが待っているというのが洒落ている。

各篇感想その5:「亡霊」〜よくもまあ、ぬけぬけと。

「亡霊」ほど、ぬけぬけとした一篇にはそう巡り合えない。初読は貴重な体験。だから、読み終えたあと、どこかもしくは誰か、手ごろな殴る対象……およそ言葉にならない思いをぶつける対象を探す前に、ゆっくり深呼吸してその感覚をよく味わおう。行きの通勤電車の中で読んだりするのは厳禁。出鼻をくじかれて一日のやる気がなくなります。とにかく気持ちに余裕があるときにどうぞ。

各篇感想その6:「空海の棺」〜柔らかアタマ、してますか。

空海の棺」。落語風掌編。「こういうサゲは●●オチといって(ネタバレというほどではないけど一応伏せ字)、一番ダメなんだって!」なんていわない。柔らかアタマ、してますか。馬鹿馬鹿しさを楽しもう。


各篇感想その7:「うははのへ」(挿絵:長新太)〜頭の中で「おとうさん」、といってみる。

「うははのへ」。長新太による4枚の挿絵。一度読み終えた後、文章を読み返すと、向こうから迫ってくる強さがありすぎるから、2枚目、3枚目、4枚目と挿絵を見返す。頭の中で「おとうさん」といってみる。そんな話。なお、最後の場面に挿絵はつかないのは、無論大正解。

各篇感想その8:「日本ほらばなし」〜野暮を承知の詳細解説

最後に触れるのは冒頭の一篇、「日本ほらばなし」。
解説するのは野暮にしかならない話。だけど、それでも何か書いてしまいたくなる作品。
だから、これ以降の部分を誰かが読む時には、出来ればこの表題作を読んだあとにして欲しい。


(以下、未読の時に読んでしまうと話がつまらなくなる内容を含むので、しばらく背景色と同色で記述。読む際にはマウス等で選択反転で)



なぜ、妻は「別れようかと思った」のか。それは自分で続いて語る通り、時間が経ったから。変わってしまったから。結婚から、7年か8年という月日が経ち、昔のままではいられなかったのだ。他愛のないほら話ひとつで、一年間幸せに愛する人を信じることが出来、一年だまされていたこと知っていても、(おそらくはまたもう一つのほら話で)すぐにまた許せた《その頃》は戻らない。今はもう、静かなやり取り一つで、次のほら話、その次の、更に次のを引き出せるようになり、そしてそれだけのほら話を必要とするようになってしまった。今も昔も、愛すべき彼の愛すべきいい加減さもその口車も変わらないのに。
"時"を刻印するタイムレコーダー、髪を"縛る"輪ゴム、唇に"塗り重ねる"口紅、"姿を映す"三面鏡、"悩みを忘れさせる"酒、"入れ替わりながら"も昔の細胞と新しい細胞とが"申し送りを続けて"今を保ち続ける人の体。そして、言葉を止めるキス。一つ一つのほら話の題材が、こうして妻の思いに沿って計算され、演出されているのである。そして、これだけ狙った小道具を置きながら、故意にこうした鬱陶しい読み方をしたり、どうにもすれっからしになってしまった読み手を除いては、楽屋裏を感じさせずに情感を染み込ませながらも軽やかに読ませるのが、こんな解説の野暮ったさの対極に位置する作者の腕なのである。
確かな腕を持つ才人達が楽しく組んで作り上げた一冊の幕を開けるのに、まさに相応しい一篇。




…しかし、北村薫関連ということで読んだり観たりした本、映画、演劇、落語、歌舞伎だのなんだのは北村作品に出会ってからの七年間で一体、何冊、何本、何公演、何席になるのだろう。本だけ、かつ、直接言及があったり書名が挙がったものだけでも300冊以下ということは無さそうだ。それをきっかけに、となると全体の半分を越えてしまうかもしれない。さすがに偏り過ぎかもしれないと思う。読むものも見るものも、もちろん、いざそれらの作品や舞台を前にすればそれはそれ自体として観て、その後で北村薫と絡めて見ようという姿勢ではいるけれど。
だが、それでもまだまだ未読、未見のものも多く、かつ、どんどん増えていく。例えば今連載中の『ひとがた流し』でも、映画『舞踏会の手帖』や細江英公鎌鼬』の赤子を抱えて疾走する土方巽の写真は既に手に入れ、目にしていても、金毘羅歌舞伎となるとちょっとつらい。『ミステリ十二ヶ月』関連は殆ど手をつけられていない。『詩歌の待ち伏せ』もまだちょっと敷居が越えられないものが多い。『六の宮の姫君』周辺もまだまだ苦しい。今日には宮本和男名義のショートショート集……『空飛ぶ馬』に先立つこと数年、その挿絵を通じて北村薫が天才漫画家高野文子と出会った記念すべき作品……が掲載された『綺譚 第4号』が届いた…。まだまだとても離れられそうに無い。第一、面白くて離れられない。




……それはともあれ、予想外にこの本の感想が長くなってしまったので、山田風太郎『戦中派闇市日記』の点描は更に明日に延期。
他にも、15日に1日かけて観た坂田藤十郎襲名披露興行(最高!周り中見事なまでに逆風の中で凄い!)や、昨日少し触れた逢坂みえこ作品、リメイク映画『キング・コング』(傑作!)、ここ半年でまとめてみた黄金期のMGMミュージカル映画の数々と、いざ何か書き始めると、書きたいことも無数にありすぎる。TSUTAYAの郵送DVDレンタルの予約リストも70件以上溜まってしまっている。1月公開の映画で観たいものも数本残っている。せっかく買った柳家小さんのDVD全集も半分くらいしか観ていない。円生百席も随分聞いてないのがある。仕事もそろそろもう一つくらい企画当てないと後が怖い。ああ、もっと時間が欲しい…。