時事ネタ・「ライブドア事件」ほか

川崎TOHOシネマで映画『プルーフ・オブ・マイ・ライフ』(故・瀬戸川猛資が怒り狂いそうな最悪のカタカナ邦題だなぁ)を観る。
同じく現在上映中の『博士の愛した数式』も観た上で、あわせて書いた方が面白そうだ。


逢坂みえこ火消し屋小町』1〜4巻(全巻)読了。
ベル・エポック』や『永遠の野原』ほどではないけれど、相変わらずユーモアと健康なバランス感覚に満ちた大好きな作風。
この漫画家に関しては、一度まとめて何か書いてみたい。


そして、たまには時事ネタも書いてみる。ライブドア問題について。


検察によるワンマン会社の社長のいきなりの逮捕、強制査察による内部資料の押収というのは、司法権の在り方として大問題なのではないか、というお話。
なお、念のため書いておくが、別にこれはライブドア堀江貴文を擁護する議論ではない。その疑惑を追及する司法権力の行使のされ方の危険性に関する話である。
これについては、アメリカでのこうした事例の比較とも含め、「ふぉーりん・あとにーの憂鬱」というサイトの1/23のコラム、「「正義」のコスト」に詳しい。そして、そこで表明されている懸念にほぼ全面的に賛成だ。


(以下は、その記事の私なりの解釈を交えた話。なので、実際にリンク先に書かれている内容とは大きく異なるかも知れないので注意)


要するに、この事件では「疑惑がある」という段階でワンマン会社の社長をほとんど何の折衝も経ずにいきなり逮捕、内部資料をまとめて押収、そこでマスコミの煽りを受けて株価は大暴落、《疑惑が事実かどうかすら判明しないうちに》、実質上会社は崩壊してしまった。


(1)仮に、ライブドアの疑惑の中から、はっきりとした違法の事例が発見出来なかったらどうか。あるいは、あったとしても経営を揺るがすような規模の事例が証明できなかっなら、どうか。その場合、司法権力は許された権力以上の力を振るい、一つの企業を一瞬にして捻り潰してしまったことになる
そのリスクを緩和するために、司法は捜査を受ける側にも、それなりの対策の猶予を与えるという手続きを経る必要がある。勿論、その猶予=リスクの緩和は、捜査を受ける側が違法行為の証拠隠滅を図るリスクと比較衡量される必要があるが、今回のケースでは明らかにバランスを欠いているだろう。
これでは、ある程度法のグレーゾーンに足を踏み入れたことのある企業については、その会社を潰すある程度の社会的、政治的土壌---世間のなんとはなしの反感や、"事件"後の対応の政治・経済面での根回し---が整ったら、検察の動き次第でその企業を叩き潰せるということになる。


(2)以上のような見地から、法律においては、捜査を受ける側が決定的な捜査活動の開始の前に事前に対策の猶予を与えられるという「手続き」そのものを被疑者の権利として認める考えがある。即ち、実際の違法行為の有無という「結果」に関わらず、その「手続き」を要求する権利を被疑者は持つという発想である。これは少なくともローマ法以来、「法」というものの在り方における、最も重要な基本的概念の一つとなっている。
(1)の議論に対し、「検察は絶対の自信と根拠があって動いたんだ」という反論へのこれが再反論となる。
大体、「検察の絶対の自信と根拠」は一体誰が判定するのか。そもそも、「手続き」の保障はそういった司法権の恣意的な判断への抑制として重要視される概念であり、ここの判断を権力を行使する側に任せては実質上何の歯止めにもならない。「抑制なき権力」というのは法の精神に根本から反するものなのだ。

注:
しかし、より正確にいうと、今回の強制捜査のような事例において、日本の法律にはそもそも捜査される側にも一定の対策の猶予を与える手続きの保障がろくに整備されていないという大欠陥があるのだという。つまり法制度的に司法権力がバランスを欠いた異常なパワーを持つに至っているわけで、これは法の濫用といよりも、立法権による司法権の抑制の緩さ(三権分立という大原則の軽視)という欠陥がモロに現れている事件といえるかもしれない。



(3)今回の検察の動きに反応したマスコミは、その動きの詳細をほぼ検討することなく「ライブドアは終わりだ!」「堀江前社長の傲慢さが招いた当然の結果」と煽り立てた。具体的な法律違反の内容とその証拠も確定しないうちから、最悪の予想を並べ立てて一つの企業に徹底的にダメージを加え続けているのがひどい。法はバランスを定めるもので、ある基準を超えた行為をしたものを絶対悪と定めるような代物ではない。カトリックにおける教皇による破門ではあるまいし、連中にはバランス感覚というものがないのだろうか。ただ無責任に囃し立てて視聴者の歓心を買いたいようにしか見えない。



要するに、司法権力の当事者たる検察も、その動きを報道するマスコミも、およそバランス感覚というものが無い。というか、バランス感覚の元になる、まっとうな法の精神というものの理解に全く欠けているとしか思えない。
「悪・即・斬!怪しいと思えばいちかバチか踏み込んでしまえ。悪党のアジトで逃れぬ証拠を見つけ出し、白洲に引き据え一刀両断! さて、それでは一件落着……」という感覚で法律を運用されてはたまらない。手続きの重視、それによる被疑者の権利の保護は、少なくとも古代ローマの法体系以来の法理念の中核だ。そうでなくては法はその公正さと、行為規範としての役割を保てない!
何度でも繰り返したいが、それを軽視して安易に「目前の"悪"を討つ」というのは法の恣意的な運用、抑制の無い権力の在り方そのものであり、法を司るものとして最低のやり口だ。「結果としてやっぱり悪いことをやっていたと証明されたからいいだろう」というのは法の精神の対極にある考えなのである。


それはまあ、検察だって人間だ。もっといえば極めて極めてプライドの高い"エリート"集団だ。ただでさえあまりの杜撰さに切歯扼腕している法の不備に付け込んで、やりたい放題、いいたい放題の奴がいれば、そのプライドを踏みにじられた上にその上で歌いながらタップダンスをされているようなもので、それこそ怒髪天を衝いても止まらず突き破る……という思いなのは当たり前だ。
ただ、だからといって今度は検察が世論に乗って、それこそ法のグレーゾーンに流れる川を騎兵隊で押し渡るような乱暴狼藉をされてはたまらない。正義の喇叭の音を聞け、蹴散らせ野蛮なヒルズ族!!とでもいいたいのだろうか。検察の"エリート"な皆さんは、余りに安易にルビコンを渡ってしまっていると思う。


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ちなみに、こうした話をある人としたところ、事件のより深刻な前例が、リクルート事件だったという話を聞かされた。
あの事件でも、司法権力と第四権力たるマスコミが共同して、法で定められた以上の痛撃を一企業に与えたという。そして、確かに違法行為を犯したとはいえ、リクルート元会長の江副浩正という人がいかに優れた経営者であったかは、事件であれだけのダメージを受けたリクルートの今を見れば余りに明らかだ、と。
しかも、彼はライブドアの堀江と異なり、実質的に社会を大きく改善するサービスを新たに生み出し、それの発展の道筋を見事に作った。それへの既成権力の反動に乗って過剰な制裁を行った司法権力とマスコミが、その後の日本経済の発展をどれだけ阻害したことか、と。


こうした法の精神に関する司法権力自身やマスコミの理解のどうしようもない程度の低さは、昔も今も変わらぬ問題であるらしい。はっきりいえば、日本にはおよそ法の精神なるものへの歴史的な理解がろくに根付いていないのだろう。所詮、まだまだ輸入物の付け焼刃なのだろう。
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