山田風太郎『戦中派動乱日記』〜日付を追っての点描(1)

以前の日記についてと同様、日付を追っての点描を試みる。

昭和24年1月4日。徳富蘇峰『近世日本国民史』の感想二つ。

「一、家康、秀吉、若き日より後年の大をおもんばかりて自愛自重これ努めたるが如き形跡なし。信長のため、即ち他人のため(特に家康の場合然り)、千死に一生をも予期する能わざる苦難の死地に自らとびこみ、力戦せること無数なり」。

続く「二」では、信玄亡き後の日本最高の精鋭たる甲軍の長篠での大敗の原因を新式軍備の波への乗り遅れ、軍神・謙信の無敵の戦歴とその成果の乏しさの理由を外交の拙劣さに求め、いずれも旧日本軍と重ね合わせて振り返っている。

……"忍法帖における《忍者》の局地的な圧倒的優位と、大半の物語においてあるいは虚しく滅び、あるいは何も得ることなく去り行くその結末とは、旧日本軍の運命の影を帯びているものである"ということは、少なくとも『戦中派不戦日記』が知られるようになって後には、風太郎論の常識だろう。更に、こうした記述や他の日の類似の記述を思うに、《忍者》には機山没後の武田軍や、摩利支天にも例えられた不毛の軍神たる不識庵の姿も投影されていたのか、と思う。
ちなみに、一応追記をしておくと、家康については後に彼が若年から食事など健康面に極めて気を使っていた面を取り上げ、感心してもいる。無論、家康のその細心と、献身的で時には無謀な勇気とは相反しない。


また、この日の日記の感想ということからは離れるが、《忍者》とは、「山田、列外へ!」の声が生涯脳裏を離れず、自らの人生を「仮の生」とうそぶいて生きざるを得なかった山田風太郎自身を託した存在であることもいうまでもない。
中でも、『忍法忠臣蔵』の無明綱太郎は、その色合いが例外的な位に濃い人物だろう(『忍法忠臣蔵』はその構成と設定の妙味、凄惨な描写の迫力、無明綱太郎を初めとする登場人物の魅力、「忠臣蔵」のパロディとしての完成度、斬新で何より恐るべきイメージ喚起力を備えた忍術の面白さ、風太郎作品全体を見渡す中での作品の持つ意義------いずれにおいても、忍法帖中の白眉というに相応しい作品ではないかと思う。個人的には、一般的に最高傑作とされる『魔界転生』よりも更に上位に置きたい偏愛の作品)。柳生十兵衛も(無明綱太郎ほどではないにせよ)、また然り。
なお、《作品への作者自身の明らかな投影》という点では『八犬傳』が、滝沢馬琴と、それよりもなお濃く作者の影が滲む鶴屋南北の二人を描くことで、自身の相克する両面を描いた快作だろう。塩野七生『わが友マキアヴェッリ』、沢木耕太郎『一瞬の夏』などについても言えることだが、どんなジャンルであれ、真に優れた作家が、彼らの他の作品に比しても明らかに直球の形で、何かに仮託して自らを描いた作品というものは、独自の力を持って読むものに迫ってくる。

1月8日。大谷崎の『細雪』を絶賛。
「『細雪』中巻読。
 最近、谷崎に深く傾倒す。谷崎こそ日本開闢以来最大の作家なりとすら思う。日本文の解読者外人にすくなければ知られずとはいえ、或点に於ては世界に於ても屈指の作家にあらずやとすら思う」

こうした風太郎の谷崎絶賛は晩年のエッセイに至っても変わらない。他の多くの作家についても、これらの日記でその時その時に為されている若き日の評価が、ほぼ後々までも変わっていない様子なのには驚かされる。
……なお、私が最も尊敬する北村薫も"大谷崎"に常に賛辞を惜しまない。やっぱり、これは一通り読むべきだな、と思う…。

1月14日。信長・秀吉・家康について。江戸幕府の切支丹迫害の異常な残虐性について。

「いずれも別個の意味に於て偉大なり。されど、信長秀吉は時により、見方によりては、何となくカリカチュア的相貌を呈することあり、特に秀吉に於て然りとす。唯家康のみはカリカチュア的なる点毫もなし」

……こうした認識が、風太郎作品に於いて、家康本人がしばしば敬して遠ざけられ、出てくればその周辺人物の異常性をより拡大する鏡や照明となりがちな理由なのだろう。
一方で最も戯画的な人物たちというのが、由比正雪であり、森宗意軒であり、天草四郎といった面々だということだろう。
全く戯画的な要素のない家康とその遺志の後継者たる幕府による、冷酷な意志に貫かれた切支丹の悪魔的弾圧。それに戯画的な人物である由比正雪がしばしば絡む、というのが忍法帖などで頻出する構図になるわけだ。

1月22日。この日から『カラマーゾフ』(の兄弟)を丁度一ヶ月に渡って(2月22日読了)読み進めている。

しかし、遂に最後まで感想めいたものは出てこない。
……むしろ、それは余りに大きな感銘の反映のように思える。読了までの期間も実に例外的に長い。

1月25日。初の選集を出す話について。

……風太郎は既に出版済みの単行本に収録された数作品の最初として「厨子家の悪霊」、未収録作品の先頭に「地獄太夫」を置いて提案している。なるほど、並べられた作品を思い返しても、傑作揃いのそのリストの中ではこの二作品が抜けた出来のようにも思う。「笛を吹く犯罪」も優れ、「笑う道化師」もいいけれど。

2月11日。医学書にある「精神分裂病患者の心的特徴」の描写と自己分析の結果があまりに似通っていることに慄然としている。

2月20日。「辰野隆『思い出すことなど』読、ねむるを忘れる」

……破格の評価。
何より恐るべき弟子を多く育てた------小林秀雄を初め綺羅星の如き面々------偉大な学者のこの本も、読んでおかなくちゃ駄目だろうな。

2月26日。大乱歩とのやりとり。
「余の作に情熱ありといえど余は情熱なし未だ曾て情熱カンじたことなしというに、江戸川氏君は明治型のニヒルなりという」

……"何かに熱狂的に何かに《殉ずる》者の、その殉ずる《正義》をひっくり返す視点を提示し、時には何重にも裏返し続けながら、決してそうは出来ない自分がたどり着けない《殉ずる》が故の高みをも描く。《殉ずる》人々の視野の狭さを克明に描きつつも決してそれを一刀両断になど出来ない姿勢。自らはどれほど望んでも《殉ずる》べき何ものをも見出せないという《認識》"。
以上のことは、探偵小説、忍法帖、明治ものと、風太郎作品においてジャンルを問わず共通して見られる最も顕著な特徴の一つだろう。
自己の情熱に関しては4月12日に関してより真情に近い吐露があり、大乱歩の情熱に関しては後に最大級の賛辞を送っている。





・・・とりあえず、今日はここで中断。
このやり方、いい加減疲れてきたので方法を改めよう・・・。