谷地恵美子『明日の王様』読了をきっかけに、蜷川幸雄、野田秀樹、尾上菊之助、藤原竜也、Studio Lifeと演出家・倉田淳、井上ひさしなどについて少し。

野田秀樹〜動きの演出への感嘆と、演じられるテーマの底の浅さ


まず、野田秀樹国立劇場でのオペラ『マクベス』、歌舞伎座での『野田版・研辰の討たれ』を観て、《なんて動きの演出の上手さだろう!(特に後者)》という感想と、それ以上に強く、《世界を一度引っ繰り返す"だけ"で満足できるのかな。"それがもう一度引っ繰り返されるかもしれない"ということは考えないのかな。どうしても、そうとしか見えない。だとしたら、それは余りに-------救いようがないくらい------浅すぎはしないか》と思った。今も、その感想は全く変わらない。
ただ、どちらの時も感じた、「一度、野田秀樹が演出するだけでなく、彼自身が出演する舞台を観てみたい」という思いを、『明日の王様』を読んで「観に行かなくては」に変えさせられてしまった。

NINAGAWA『十二夜』〜幕開けの美


それと、菊之助蜷川幸雄が出てくれば、当然、連想されるのが『NINAGAWA「十二夜」』。幕開けのあの美術効果は間違いなく歴史に残るものだろう。そして、あれだけの美しさと存在感をもって、女形と立役双方を一時にこなせるのは今の若手ではただ一人、五代目尾上菊之助であること、あの作品が正に彼のために演出されたものであったことは誰の目に明らかだったろう。
しかし、それにも関わらず、冒頭の陶酔の後は、二度とその高みまで作品の波が戻ることは無かったことも、残酷なほど明白だったと思う。それがなぜなのかは、私には分からない。『明日の王様』の主人公、小竹谷有なら、きっと分かったんだろうな……。

『明日の王様』と藤原竜也〜仮構をなぞる現実

そして、『明日の王様』の連載開始は96年6月というから、その時はまだ、藤原竜也はデビューしていない。あの天才はまだその時、十四歳だ。……作品と現実との関係という視点において、それはむしろより一層、面白い事実だと思う。

また、蜷川幸雄藤原竜也といえば、『ロミオとジュリエット』『近代能楽集』『天保十二年のシェイクスピア』が思い浮かぶ。これらについては、それぞれ分けて書いてみる。


蜷川幸雄演出『ロミオとジュリエット』〜《情》のロミオと《知》のジュリエット


ロミオとジュリエット』は、《ロミオ VS ジュリエット》、藤原竜也 VS 鈴木杏だった。休憩を挟んで前半はロミオ=藤原竜也のものであり、ジュリエットの独白で再び幕を開く後半は、ジュリエット=鈴木杏のためのもの。

前半はロミオの情熱、その歓喜、その墜落が全てを覆う。

「この胸は美というものを知っていたのか?眼よ、否というがいい!
本当に美しいものをみたのはこれがはじめてだったのだ!」


(上記は劇中のものとは違い、井上ひさし『青葉繁れる』での訳)


という純粋な恋の喜び。
それが叶った時、「嬉しいよぉ!!」と絶叫して転げまわる藤原竜也から、理屈を越えて放射されたものは到底言葉にし難い。それに一歩譲るものの、ティボルトを殺してしまった------《運命》を刺してしまった------彼の姿(バズ・ラーマン監督、レオナルド・ディカプリオ主演の傑作映画『ロミオ+ジュリエット』ではここがみどころ)も忘れ難い。


一方、後半は、一般的なジュリエットと根本的に異なる、鈴木杏のジュリエットが空間を支配する。
前半では、病的な幼さをひたすらに強調された------抱えた巨大なぬいぐるみがそれを象徴した------十四歳の春を迎えようというジュリエットが、恋を知り、自らの未来を見出し、自らの足で立つことを覚える。それは、まるで三重苦から立ち上がったヘレン・ケラーのような、自らを囲う檻から飛び出し、蛹から羽化していくジュリエット。


即ち、前半で藤原竜也のロミオが見せたものが、純粋な《情》の喜びと絶望であるのに対し、鈴木杏のジュリエットが謳い、走り、叫び示すのは、恋の喜びという《情》であるよりも更に強く、遂に自らを見出した《知》の歓喜だ。
そのジュリエット像は、舞台装置に色濃く映された演出家・蜷川幸雄のもともとの発想にはほとんど無いか、あってもごく薄いものだったのではないか。あのジュリエットは、鈴木杏という女優が自らの個性に合わせて生み出し、認めさせたものではないかと思う。そして、それは彼女に良く似合う。彼女(少なくとも2005年の彼女)には正直言って《色気》というのはおよそ縁遠く、半面、若い《知》の輝きは他に比すべきもののないものだったから。
しかし、あえて《ロミオ VS ジュリエット》の勝敗をつけるなら、藤原竜也のロミオに明確に軍配があがるのは、『ロミオとジュリエット』という元々の劇の持つ性質上、仕方が無いことだったろう。
あのロミオは、未来の本人自身も含めて、そうそう簡単には越えることのできない出来栄えだったろうと思う。


藤原竜也主演『近代能楽集』〜《巧く》はなったのだろうけれど


「弱法師(よろぼし)」の、2000年の上演は見逃している。だから、2005年の藤原竜也がどれくらい5年前に比べて《巧く》なっていたのかは知らない。ただ、それでも、「《巧く》なったのは、むしろマイナスに働いたのだろう」とはどうしたって思わずにはいられなかった。これもまた、仕方の無いことだ。


卒塔婆小町」の高橋洋については、この人も《巧い》役者なんだと思う。藤原竜也以外の蜷川組の若手では抜け出た存在であるのも明らか。ただ、『ロミオとジュリエット』のマーキューシオ役でもこの役でも、演出の要求する大きさよりも一回り、二回りほど小さい印象があるのは、これもどうしようもないことだと思う。
しかし、あるいは父の襲名と弟の不祥事を機に、まさしく生まれ変わったように《化けた》------そうとしかいいようがない。とてもそれ以前と役者として同一人物だとは思えない。あの飛躍をほぼリアルタイムで観れたのは実に幸運だったと思う------中村勘太郎の如く、《何か》を境にそれが変わることがあるのかもしれない。


なお、ついでに蜷川演劇を十本強観た程度の範囲で感想を書くと、脇役・端役に至るまで《自らの演出と闘わせる》ことで、緊迫感ある舞台を成立させるという手法のマイナス面として、どの劇でもいつも数人ほど、演出が生み出す流れとは別の、低レベルの《個性》を鬱陶しく訴える役者が出てきてしまっていると思う。例えば、抑えてこそ強く伝わるところや、集団として塊として訴えるべきところでも、身振りも台詞も鵞鳥がわめくようにただ派手にやかましく演じてしまう役者。……あえて個人名を出してしまうと、鈴木豊という役者は中でも突出して嫌に思えてしまう。それはそれで、強い《個性》だといえるのかもしれないが。


演出家・倉田淳が君臨し統治する「Studio Life」の美と快感


更に少し脱線すると、《原作を尊重する》という基本線(蜷川幸雄は原作の台詞を恣意的に変えようとしないことで有名)では共通しつつ、蜷川演劇と対照的に思えたのが、演出家・倉田淳が君臨し統治する、Studio Lifeの『『白夜行』第二部』だった。


パンフレットやポスターを見るだけで、劇団の性格が実にわかりやすく伝わってくる。まず劇=原作の題名が何よりも大きく大書され、続いてその下に原作者の名前と「演出・倉田淳」が同格で大きく並び示される。役者達の名前はその下に小さく揃って並んでいく。
とことん役者を《駒》とする演出家と、深くその意図を理解し、極めて積極的に《駒》たらんとする賢さを備えた役者達。個々の役者ではなく、《演出》される《劇》を強く観客に刻み付けることに特化した舞台。その統一された意識が生み出す、夾雑物が徹底して排除された濃密な空間と、特に女役を演じる役者達の立ち姿にある様式美------あれはおそらく、英国仕込みの相当優れたメソッドを持っているに違いない。一方で女役の台詞術はそれに比べて遥かに劣るのは、元にしたメソッドが英語を前提にしているところを日本語に移植するのに苦しんでいるからではないかなどとも思わされてしまう------には、独特の美しさと、空間に浸る快感を感じさせられずにはいられない。


一方で、「それって《演劇》かよ」という反発も-------特に、どんな立場にせよ、《作る側》から演劇に深く関わっている人の場合------出てくるのでは、とも思った。しかし、その思いを正当化するためには、自らの舞台をこの劇団が与える感銘を越えるものとしなければならない。それは実に高いハードルだろうと思う。いわば、Studio Lifeの舞台は、ドラマ性を重視するタイプの演劇が越えるべき、一つの指標となるのではとすら思えてしまう。


部外者の気楽な立場から、無責任かつ陳腐な意見を言えば、この演出家の意図を誰より深く理解しつつ、それに逆らうことを認めさせるに足るだけの役者------理想は、新たに加入する《たった一人の女優》だろう------が出てくれば、現状を遥かに越える舞台が生まれるだろうとは思う。
しかし、今でもこれだけの高いレベルにあり、しかもおそらくはまだまだ発展進化しつつある《今》を全て賭け金として危険なギャンブルに挑むのは、これだけ無責任な門外漢が想像するだけでも、《勿体ない》という思いが先立ってしまう。
倉田淳という人がドン・キ・ホーテ的な勇気を備えた大女傑で、かつ、その想いにとことん身を任せる大決断をしない限り、この劇団はこのままその手法を深化させていくことになるんだろう。それはそれで、女役の台詞術が向上するだけでも、今より相当《上》の舞台が作られていくことだろうし、実に楽しみなことだと思う。


それと、全てが高いレベルにあったその舞台の中でも、一際鮮やかだったのは照明の効果。あの明暗の効果の素晴らしさ!!森田三郎という人の技術は、ちょっと異常なくらい凄いのでは……。役者よりも演出が目立つこの劇団だが、実はこの人の照明の技は、その演出よりも更に一段高いレベルにあるのではないかとすら思う。


井上ひさし原作・蜷川幸雄演出『天保十二年のシェイクスピア


あれだけの豪華キャストを揃え、役者のそれまでの限界を超えた力を引き出すことの達人たる蜷川幸雄が全力を傾けて演出してなお、まだ役者達の大きさが原作の要求する大きさに及ばない-------正にリヴァイアサン的な、とんでもない戯曲だった。特に藤原竜也演じる「きじるしの王次」が退場する終盤までの流れには、天才戯作者・井上ひさしの才を感じずにはいられない。
そして、その無謀なまでの要求に------その全身から発散される呪術的・祝祭的熱気をもって------最も良く応えたのは、やはり藤原竜也だったと思う。篠原涼子と演じた人形振りの場面が、その少し前に観た玉三郎菊之助------おそらく、現役の歌舞伎役者中、最も美しい組み合わせ------による『日高川入相花王(ひだかがわいりあいざくら)』でのものよりも一層印象深く感じられたのも驚きだった。原作の力と、それぞれ大上昇気流の中にいる役者二人のエネルギーの合算が、到底勝り得ない相手に勝ったということか。


一方、「きじるしの王次」が去ったあたりから、劇は役者の力の上でも、原作の持つ力の上でも、急速に勢いを失ってしまった。
まず、役者。佐渡の三世次を演じた唐沢寿明は非常に巧く、演技者として極めて優れた頭の良さがあり(三谷幸喜監督の映画『THE 有頂天ホテル』でも、宛書された配役のイメージに必死の抵抗を行っていた)、いわゆる《華》も相当のレベルでその身に備わった役者だ。しかし、こと《華》の面では、異常なエネルギーを発散させる藤原竜也、その更に一回り上をゆく野村萬斎、更にそれに限ってはともかく別格としかいいようがない(あれ、本当に人間か?)市川海老蔵などにはとても敵わない。《知》の面でも《情》の面でも飛びぬけた《悪の華》たること、ただ立っているだけでも他の全てを圧しきることを要求されるとなると、どうしたって苦しい。舞台上の佐渡の三世次の顔に意識を集中させるときにはその演技に引き込まれても、他の要素と並んでしまうと、それに決して沈みはしないが、圧しきってしまうことも出来ないように感じられるのは、どうしようもなかった。


原作については-------これはもう、井上ひさしという大天才に憑りついて離れない、日本文学史の一大悲劇とでもいうべき妄執が、この劇でも多くのものをぶち壊しにしてしまっていたということ。
ずっと疑問でならないのだが、創作の上でも評論の上でも、ともかく他のことならあれだけ理も知も情も兼ね備えた人が、なぜ反権力だとか、共産党だとか、自民党だとかといった問題絡みになるとその全てを失ってしまうのか。そして、多くの作品にそうした要素を入れ込んできてしまうのか……。つくづく、人間というのは複雑だと思う。
蜷川幸雄もそういう面が無いではないが、そこらへんは遥かにバランスが取れているので、その演出によって原作の瑕疵は多少は緩和されるものの、どうしたって限界というものがある。余りにも惜しくて諦めきれない部分が有り過ぎるが、これもまた、仕方の無いことだったのだろう。心から残念。


しかし、それでもなお、この劇が圧倒的な大傑作であったことは揺るがない。ただ、キャストの面でも、演出の面でも、更に優れた《超傑作》ともいうべき作品に成り得たかもしれないのに、と思うだけで。
もっとも、蜷川幸雄蜷川幸雄である以上、ある部分から原作を完全に打ち壊して作り直すような演出は出来ないし、あくまで《商業演劇》を志向するスタイルからも、『子午線の祀り』のような完全採算無視のキャスト(その中でも、嵐広也演ずる義経が最高だった!!)------この場合なら、大竹しのぶ西田敏行野村萬斎真田広之麻実れいといった面々にまで大召集をかけるといった暴挙------も望めない。物事には、望める限界というものがある。《理想》など叶わない《現実》の中で、《それでも》どこまで《理想》に近づくものを生み出すか。そこにこそ、本当のドラマがあるのかもしれない。

諸々のこと。


最後に、北村薫(『ひとがた流し』)も、関容子(幾つもの歌舞伎関係の聞き書き)も、谷地恵美子も、何もそんなに口を揃えて「金毘羅歌舞伎ッ!!」と揃って叫ばなくたっていいじゃないか!そんなことをされると、どうしたって行きたくなってしまう・・・。
なんだか知らないが、こういうものって、揃ってやって来ることが多い。北村薫も、山田風太郎も、椎名高志も声を揃えて「大谷崎ッ!!」と言って来るのも、いい加減気になり過ぎる・・・。この流れだと、"谷崎源氏"(これがあるから、『絶対可憐チルドレン』で椎名高志は他の誰でもなく、大谷崎をゲストに呼んで来ているわけだ)あたりまで手を出す破目になるんだろうか。二人で合唱程度なら、少し前だって、北村薫ひとがた流し』と山田風太郎『戦中派焼け跡日記』が「ジュリアン・ディヴィヴィエ最高ッ!『舞踏会の手帖』を観ろッ!!」とやって来たりと(ちなみにこのケースでは北村薫が叫んだ時点ですぐに買って、すぐに観た。……素晴らしかったし、毎度のことながら、なぜ作中のそこに置かれたかもよくわかった。いつもいつも、見事なまでに《教師》である作風。しかし、そこがたまらなく嬉しい)数え切れないほどあり、それならまだ抵抗できないことも無いが、三人揃うともう時間の問題という気もする。