玉三郎の舞踊の特徴〜熱狂的な受容か、拒絶かの二択になる理由


玉三郎の舞踊はこの演目に限らず、その世界にとことん引き込まれるか、位相が合わず、ずれたままで釈然とせず終わってしまうか、両極端に分かれがちだと思う。例えば、私であれば『京鹿子二人娘道成寺』『藤娘』が前者の、『船弁慶』が後者の代表例だ。
……なぜだろう、と、一応の理屈をもっともらしく考えてみた。それは、玉三郎の舞踊の背景にあるのが、伝統に培われた集合意識的な《美》の感覚であるよりも、遥かに強烈に、整然と隙なく統一された、実に近代的な《個人》による美意識だからではないだろうか。


舞踊を形作る方法論として、既にある《型》の中で、自分独自のハラをみせていくというのではなく、最初から動きの一つ一つ、そしてその連なりの中に、既にして相当色濃く玉三郎という個人の美的感覚が反映されている。
もっと根本的なことをいえば、他の役者が「これまで受け継がれ、これからも受け継がれていく」中での一過程たる役割を果たしているのに対して、玉三郎はこれまで受け継がれてきたものを素材として、それに、ほかのジャンルの持つ固有の《美》------たとえばバレエやコンテンポラリー・ダンス------の要素を極めて積極的に取り入れ、良くも悪くも彼一代の独自の《美》を生み出そうとしているのだと思う(だから、舞踊の中の回転からフレッド・アステアが連想されたりするのも、玉三郎の舞踊なればこそ、だろう)。


結果、玉三郎の舞踊を見る場合には、「坂東玉三郎という《個人》の美的世界を受容するか、しないか」の二択となる。受け入れることが出来た場合には彼の構築した異世界にただただ陶酔するという、純度の高い快感を味わうことが出来る。一方、それを受け入れられない場合には、とことん劇的世界の外部に弾き出され、外面的な華美流麗さを楽しむことは出来ても、およそ心を打たない代物に見えてしまう。
玉三郎の技量が超人的なものに高まれば高まるほど、その舞踊は玉三郎という稀有な個人の世界を純粋に表現するものとなっていく。それを楽しむ方法は、完全に白旗を上げて呑み込まれるか、真正面からその美的世界と対決する強大な幻想を脳裏に編み上げぶつける他ない。しかし、後者などは、到底凡人の手に負えるやり方ではなく、結局、玉三郎の舞踊は熱狂的な受容か、「退屈。眠い。早く終われ。まあ、キレイでゴーカではあるがね」と拒否するかに分かれるわけだ。


玉三郎の舞踊と歌舞伎の《型》〜《型》の持つ独自の意義と、異端と本流の関係について


一方、歌舞伎の所作事において、他の伝統的な《型》から離れ過ぎないタイプの、優れた演者の場合------例えば、勘三郎三津五郎-----、その舞踊からは、当の演者のみならず、その《型》が生まれ継がれてくる中で積み重ねられてきた、多くの演者の意思や意図が必然的に滲み出てくる。結果、必ずしも、当の演者がその《型》に込めようとした意思や意図と観客の内面とが呼応しなくとも、観客は《型》の含む多くの要素のなにものかに反応して、自分なりの《美》の世界を脳裏に描き出すことが出来る。勿論、それには観る側には《型》に込められた思いを脳裏である程度の指向性と密度を持って組み立てるだけの力と、演者には《型》が《型》として持つ力を損なわない技量の深さが在ることを前提にする。ただ、面白いのは、この場合には、演者という一個人の技量が高まれば高まるほど、その舞踊は演者一個人に留まらない、《型》に深く染み込まされた、より普遍的な幅と深みを表現するようになるということだ。それこそが、伝統芸能における《型》の持つ魔力の最たるものだろう。


従って、玉三郎の舞踊とは、伝統の《型》を《自らを表現する強力な武器の一つ》として作り上げた、極めて優れた独自の境地を見せる「ダンス」ではあるが、本質的に、《型》を受け継ぎ、これからも伝えていく------だからこそ《伝統芸能》という名に値する-----《歌舞伎》の所作事の中心に位置すべきものではないと思う。そして、玉三郎の舞踊=《伝統から生まれ伝統を離れた《異端者》の芸》は、例えば菊之助のような存在が、玉三郎という傑出した一個人の達成した独自の表現を再び《型》=《これまで受け継がれ、これからも伝えられていくもの》の中に吸収し取り込んでいくことで、初めて《歌舞伎》の芸のあるべき本流へと繋がっていくのではないか……とまあ、これが玉三郎の舞踊から受ける印象を元に考えてみた理屈である。


観客が持つべき力について。

「という理屈」というのは、その肝心の「《型》の持つ魔力」なるものが、まだ私などには実感として感じ取ることが出来ないからだ。
演じられる《型》が秘めた魅力を味わうには、観る側にもそれ相応の力量が必要とされる。
……その力が、どうにも私には不足しがちだ。

"こういう理屈だろう"と頭ではわかる。そして、勘三郎三津五郎の踊りの中に、深い魅力を秘めた《型》が備わっているのだということまでは漠然とながら感じられる。しかし、その《型》から描き出せるイメージが(特に所作事において)鮮やかさも鋭さも深さも欠いた、どうにも貧困なものにしかならない。所作事での老名優といわれる女形たちについては(本来、玉三郎に比すべきは彼らの芸なのだと思っていても誰を例に挙げていいかわからなかったくらい)、なおさらその良さをしみじみと感じとることが出来ない。
その最大の要因は元々の想像力のレベルの低さにあるのだろうが、「何とかそれを強化することは可能な筈」とも思う。つまり、元来の素質がイマイチでも、歌舞伎に限らず身体表現全般における優れた表現を眼にする経験を増やし、同時に知識として歌舞伎の《型》に関する情報を仕入れ、実際に眼前で演じられるものとそれとをリンクさせていく。そうすることでより深く、知りたいと思うものを知り、楽しみたいと思うものを楽しむことが出来るだろう。そうした語り難い要素を出来うる限り誠実・丁寧に語ろうとする渡辺保や、歌舞伎の理想的なファン代表といえるだろう、関容子の著作が、大きな道標になってくれそうだとも思う。


それは、突き詰めれば全ての芸術に対する興味の行き着く先である、「《個人》が、《個人を越える大きなもの》(それは伝統的な《美》であったり、積み重なれた《知》の体系であったりと、幾つもの形があるだろう)を前にして、果たして何を為し、何を加え、何を残すことが出来るのか」ということに繋がる。
私が最も関心を持つのは、どんな形にせよ、こうした疑問に対していく一助となるものだ。別の言い方をすれば《今》という平面だけを見て、《時間》という縦の軸を持たない考えは、その時点でもう、問題外に浅く、ツマラナイ。ミステリでも戯曲でも純文学でも落語でも、映画でも漫画でも歴史小説でもSFでも、ジャンルに関わらず、そういう視点を欠いた作家の作品は、あまり真剣に考えても仕方がないとすら思う。