『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の発展進化版
端的にいって、この作品は2/8に読んだ『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』と非常に似通ったものだが、小説としても、ミステリとしても、こちらの方が遥かに整っていると思う。
つまり、この作品でも、作中のトリックや挿話はありがちではあっても、正に描かれる人物達に相応しいものとして在る。《ミステリ》であることと小説であることがうまく結びついている。そして、過剰な記号が排除された方が、作品はその精度を増す。その点において『少女には向かない職業』は相当の程度『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』よりも優り、丁度その分だけ優れた作品だ。特に、東京創元社からの発行ということで、この作品に相応しく、挿絵を排除することができた事が素晴らしい。そうあるべきだ。
まずは《ミステリ》としての評価を離れて《小説》として〜どこまでも《だから》であり、《それでも》が無い。
ただ、二冊読んでの感想は、《ミステリ》としての評価は別として、とにもかくにも両作品とも《だから》の小説だということ。
「ふたりの少女の凄絶な《闘い》の記録」とはいうが、二つの作品の題名「撃ちぬけない」「向かない」が象徴するように、正直言ってかなりあっさりと彼女達が《負ける》ことが前提として作者の中に在るように思え、作中人物にとってどうかはともかくとして、小説として作者が「凄絶な《闘い》」をしているとは思えない。《それでも》を含まない意志は、心を打たない。
これは私の偏った主義主張であるのを承知で言うが、特に《ミステリ》であることが物語そのものと密接に繋がる作品において、その中における《闘い》とは、「《論理》と《認識》をその力の柱とし、《世界》に対し、それが不条理に満ち、様々なる意味でフェアでなく、解かれざる疑問と苦悩に満ち満ちていると知りつつ、《それでも》、あるいは《それだからこそ》、それに凛然と抗するに足るものを描くもの」であって欲しい。もっといえば、《あるべきだ》と思う。それゆえにこそ、その世界を貫く《論理》は強烈に読者を打つ。
「状況が多少《凄絶》なだけであって、その描写やそれに立ち向かう意志はおよそ《凄絶》というのには値しない。
この作品について言えば、この作品で描かれている《論理》は、《子供の論理》としても、極めて不徹底で、決して《凄絶》ではない。即ち、状況が多少《凄絶》なだけであって、その描写やそれに立ち向かう意志はおよそ《凄絶》というのには値しない。《凄絶》というのは、例えば、あくまで《大人の知恵と分別》をはっきりと意識的に排除しつつ、《子供の論理》を描きぬいた三原順『はみだしっ子』のような物語のことを言う。あの名作には、強烈な《それでも》がある。
その一つの現れとして、物語を一色に濃く染め上げようとする工夫として、この作者の二作品ではいずれも、《大人》、特にその代表たる《親》の描写を明らかに意図的に薄っぺらいものにしているが------あるいはそもそも薄っぺらい人物を配しているが------、それは読者へ与える効果としてはそれなりに有効ではあっても、小説として拙劣な在り方だと思う。《大人》⇒《親》をまともに書かずに《子供》⇒《少女》を書くことが出来るだろうか?「凄絶な《闘い》」というならば、一方の《少女》だけでなく、《世界》の代表たる《親》もまた、リングの片方に上るに相応しい扱いを受けなければ、試合は面白くならない。なお、必ずしも、《大人》自身を書く必要はない。《子供》の側から、《大人》とは何であるかについての強烈な意識があり、それによってその存在が描かれなくとも浮かび上がればいい。しかし、桜庭一樹の二作品には、いずれもその要素がひどく浅くしか存在しない。《親》に関してあれだけ浅くしか踏み込まない《子供の論理》は、およそ《凄絶》というに値する強度も輝きも持ち得ない。
タイプは随分異なるが、『フリッカー式』『エナメルを塗った魂の比重』『水没ピアノ』と三作ほど読んだ佐藤友哉の作品からも、似たような印象しか持てなかったことを思い出す。即ち、いくら構成に凝ったり、多くのガジェットを巧みに用いたり、純粋さや狂気を麗々しく謳ってみても、《だから》に留まり、《それでも》を志向しない作品は、《物語》=《虚》として《現実》に抗するだけの力を極めて弱々しくしか持ち得ない。従って、読むものの心を打たない。
《ミステリ》として見た場合の欠点〜《大人が考えた》子供の限界に縛られたトリックと論理
また、《ミステリ》としての評価をいえば、筋と登場人物との分かち難い関係性において優れるものの、用いられるトリックの一つ一つを切り離して見た時、いずれもいかにもありがちで意外性を持たないことは、言うまでもない欠点。
描きたい世界ゆえの、《決して特別に優れてはいない子供の持つ、知識と知恵の範囲で》という縛りのため、避けるのは大変困難といえる課題だが、はっきりいえば、その内容はその縛りから必然的にもたらされるもの以上に、「《大人が考える》子供の考え」に基づいているように見える。「大人の眼から見れば「やはり子供だな」と思われる」というものであり、「《大人には到底思いもつかない》子供だからこその意外性」というものに欠けている。その意味でも、正に筋と登場人物は《ミステリ》の要素と一体化しているといえる。
ちなみに、「ウサギの頭」のエピソードは、そここそが最も欠点が目立つ「大人から見た子供の残酷さ」を強調した場面なのか、「子供本来の残酷さを見事に描いた」場面であるのかの評価が難しい。ただ、他の場面と合わせて考えると、どうしても前者に傾いてしまう。