吉野朔実の作風〜突き詰められる《だから》と、安易な《それでも》の否定。桜庭一樹の二つの小説への感想の流れから。

《それでも》を志向しなくても、認めざるを得ない力を持つ作品と作家たち

ここまで、「《だから》に留まり、《それでも》を志向しない作品は人の心を打たない」という原則を延々と書いてきたが、勿論、なんにでも例外というものはある。
例えば、舞城王太郎煙か土か食い物』あたりになると、それがいかに個人的には気に食わない作品であろうとも、確かに力のある作品なのであろうことは認めざるを得ない。村上龍コインロッカー・ベイビーズ』などは、その気に食わなさも、それでも認めざるを得ない迫力も共に桁外れだ。


……ただ、村上龍というのは「《現実》を前提にそれに寄りかかる」作家なのであって、決して「《現実》に《抗する》」存在ではない、もっとはっきりいえば「《現実》に寄生する」作家なのだという印象は、『コインロッカー・ベイビーズ』においても変わらないが(だからこそ、村上龍は最も嫌いな作家の一人だ)。


吉野朔実〜《だから》を突き詰め、安易な《それでも》を全力を以って否定する作家


少年は荒野をめざす (1) (集英社文庫―コミック版) 少年は荒野をめざす (2) (集英社文庫―コミック版) 少年は荒野をめざす (3) (集英社文庫―コミック版) 少年は荒野をめざす (4) (集英社文庫―コミック版)


しかし、そうした「認めざるを得ない」例外ではなく、「積極的に認めたい」例外もある。吉野朔実の作品こそ、その《良き例外》というに相応しい。
少女には向かない職業』は言うまでもなく『女には向かない職業』から取られた題名だが、それは同様の名付け方をされた『少年は荒野をめざす』(⇒五木寛之『青年は荒野をめざす』から。最近の作品はともかくとして、『風の王国』などは理屈を越えた力に満ちた傑作だった)を連想させもした。
吉野朔実の作品には、《だから》を突き詰め、安易な《それでも》を全力を以って否定する強烈な力がある。その結末において、大島弓子『バナナブレッドのプティング』とはっきりと対称を成す『ECCENTRICS』はその最たるものだろうし、白泉社文庫版『ECCENTRICS』に併録された短篇『カプートの別荘においで』はその結晶とでもいうべきものだろう。
これらの作品は心を打たないのか?-----無論、打つ。このレベルにまで高められた意志は、その荒れ狂わんばかりの思いを端正で繊細な線に閉じ込める描き方-----作品毎に画風が大きく画風が変化もするが、《抑制》というその本質は変わらないだろう-----と不即不離に結びつき、固有の輝きを放っている。
この人の作品の主な登場人物たちは皆、自身の心理を覗き込む時にも、頭部から斜め上方1mくらいの少し離れたところから、自身を突き放してみているような印象がある。単純な主観の洪水や感傷を異常なほどに拒もうとする、その徹底したやり口には強く興味を惹かれずにはいられない。

……ちなみに、そういう人だからこそ、この人が天童荒太永遠の仔』を評した漫画(『弟の家には本棚がない』収録、「『永遠の仔』か『家族狩り』か」)は実に面白かった。
弟の家には本棚がない―吉野朔実劇場
あの作品に向けられた、今まで自分が知る中で最良の評であり、静かに、しかし断固として、自己を刀として作品に向かいあう、その切れ味に感嘆させられた。まさに、《この人だからこそ》の表現。三部作(他の二作は、『お父さんは時代小説が大好き』『お母さんは「赤毛のアン」が大好き」)中の白眉といえる一作だと思う。