Theater1010『ベルナルダ・アルバの家』〜凝縮された一場面への長い助走

劇本来の要求とは異なり、この劇を制したのは一家の中心たる《母》=ベルナルダでも、その娘達でもなく------

物語が長い助走を経て、一つの場面に見事に収束、昇華される、個人的に偏愛するタイプの整い方をした優れた劇だった。


ただ、この舞台は当初予定されていた演出とは異なる劇に仕上がっていたのではないだろうか。
『ベルナルダ・アルバの家』はその題名の通り、一家を独裁的に支配する"母"=ベルナルダ・アルバとその五人の娘達を描く物語とされている。この劇のポスターでも、ベルナルダを演じる小川眞由美が恒星の如く中心に立ち、五人の娘がその惑星のように並ぶ。
しかし、今日の舞台において、その核心部分をかっさらい、自らのものにしたのはベルナルダの母、マリア・ホセファを演じた竹田恵子だった。


劇も終幕に近づいた頃、末娘・アデーレがわずかの間みせた鮮やかな緑のドレスとその赤い裏地の他、黒い喪服と白い下着が支配してきた空間に、目を奪う赤の衣装をまとった老婆が現れる。老婆が長い独白を始めた時、それまでの劇は全て、その登場とそれに続く場面のために助走としか見えなくなってしまった。
即ち、その独白とその後、《家》の外に全力で駆けていくアデーレ、その後を追おうとして追いきれない四女マルティーリオの姿に、この舞台における《劇的なるもの》の殆ど全てが、怖ろしいほどの密度で凝縮されていた。その凄まじさ、その迫力には、その言葉での表現など嘲笑らずにはおかない《舞台》固有の魔力としかいいようのないものが宿っていた。朝倉摂による、抽象的で静謐なくせに妙に華麗な舞台装置(しかしまあ、およそ頭が年を取らない凄い人だ……)も、この場面においてこそ、その効果を十全に発揮した。この舞台の魅力はただただ、この一場面に凝縮されていたと思う。
それまでの物語はその飛翔のための助走であり、後に続く展開は、あえていうなら、物語の筋を一応収束させるための後始末に過ぎなかったとすら思う。

ベルナルダという役と、小川眞由美という役者について

一方、本来の主演たる、ベルナルダを演じた小川眞由美は、存在感・演技力共に極めて優れた女優であることは強く感じられたが、元々主演に予定されていた三田和代の急病による代役ということで、この役に必ずしも向いた人選では無かったと思う。つまり、この女優には舞台の上の世界を支配するに足る引力は十分にあったが、その力はどうしても《前》に向かうものに見えてしまう。過去と因習を体現し、《後ろ》へ向かう力の象徴たるべきベルナルダにはどうしても似合わない。

要するに、この女主人を見ていると、過去から続く《家》を防衛することなどおよそ彼女本来の姿であるように見えず、一家を率いて《世界》へと進撃していく姿をしきりに空想させられてしまう。ベルナルダが持つ杖は彼女の象徴であるが、その杖はよろめく体を支えるものではなく、確かな足取りの拍子を取る指揮棒になってしまう。それは劇の向かう方向とはおよそ反するものだろう。


……少し気になったのだけれど、この人は、チェーホフ『かもめ』でアルカージナ役を演じたことなどはあったのだろうか?最初にこの役を予定されていたという「三田和代」で検索すると、アルカージナ役を高く評価された文章などがあり、「ああ、やっぱり」と思わされたのだけれど。

脱線になるが、これも北村薫の作品中に言及があったために読んだ、池田健太郎『「かもめ」評釈』はとにもかくにも凄い本だった。トレープレフとニーナの絶望的なすれ違いを描いた部分などは、その文章自体が一つの見事な劇だと思えた。自分の愛する作品、愛する作家についてあれほどの文章を書ける人がたまらなく羨ましい。
しかし、それに触発されて2004年に観た、ロシア国立アカデミー・マールイ劇場の来日公演『かもめ』は、役者がそれぞれ《巧い》ものの、どうにもそれ以上のものとは感じられない舞台で、ひどく失望させられた。いつか、本当に面白い『かもめ』を観てみたいと思う。


末娘・アデーレを演じた占部房子の名演技


ただ、同じく他の女優の代役として最も重要な末娘・アデーレを演じる占部房子は、見事な名演だった。五人の娘たちの中で際立つ、その若さ、その情熱、その美しさ。
彼女に要求されたのは、ベルナルダの影が築く淀んだ世界------ベルナルダが舞台に姿を見せている時、世界はその迫力に支えられるが、彼女が舞台上におらず、しかしその影は強く場を覆う時、世界は重く淀んだ姿でそこに在る------を前に、それに抗して燃え盛り、やがて気流を巻き起こす火で在ることであり、それによく応えた演技だった。
生意気な言い方だが、この人はいい役を得たと思う。おそらく、それまで持っていた実力以上の演技であり、これからはこの役で得た何ものかを加えたものが、新たな実力になるのではないだろうか。

舞台から思い描いた、空想の『ベルナルダ・アルバの家』について


……ただ、本当に《恐るべき天才》という類の役者なら、アデーレについては《情熱をよく演じる》というのではなく、《情熱の塊がたまたま人の皮を被っている》というような、ロルカの操る言葉の呪術性の具現として舞台の上に現れるのかもしれない。


一方でベルナルダを『かもめ』のアルカージナ役を十八番とする類の名女優が演じ、一方にロルカならではの情熱の化身となれる若い天才がいれば、この舞台はその本来予定する《母と娘》を中心にした物語の構成を見せ、今回の舞台以上の魅力を発揮しただろう。
文章の形で読んだときには、ロルカの三大悲劇と呼ばれる作品群の中でははっきり三番目と思ってしまったが、この舞台を機に思い描いた空想の『ベルナルダ・アルバの家』には強く惹かれる。


……なるほど、これは凄い戯曲なのかもしれない。