元々スポーツ全般について詳しくもない上に、この競技についてもせいぜい五輪の度に何度か見た程度(よーするに、「キャンデローロみたいなオモロイ人、また出て来ないかなぁ」「カタリーナ・ビット、美しかったなー」「今回のプルシェンコもよかったけど、それでもやっぱり、ヤグディンこそ史上最強!」「ロシア人のエキシヴィジョンはいつ観てもよーやるなぁ、ホント」だとか、その程度の関心と知識)で、演技の技術的な側面だの新得点方式の詳細がどうこうなどといったことは全くわからない。
ただ、観ていてともかく面白かったので、少し雑感を書いてみる。
安藤美姫〜試されるのは、選手個人だけではなくそのバックアップを含めた総体としての力
当然のことだけれど、スポーツに限らず、舞台で最終的に一人がスポットライトを浴びて演じるにしても、それは同時に、バックアップする人々を含めた総体としての力が試されているのだと思う。
演技云々以前に、衣装だとか(前から見ればまだマシだけど、後ろから見るとアレは一体なんなんだ)、選曲だとか、その前のうんざりさせられるゴタゴタの数々だとか、あまりにもバックアップの態勢が酷過ぎるのは素人目にも明らか。
「そういう諸々のことを乗り越えてこそ真のトップ」という見方もあるとはいえ、少し可哀想だ。むしろ、あれだけ周り中から足を引っ張られてここまでやっているというのは、確かに凄い力を持っていることの証明だとすらいえると思う。
イリーナ・スルツカヤ〜洗練された《型》とそれが表現にもたらす深みと多様性。
跳躍から氷上に下りるときには、既に次の滑りが始まっている。滑り始めた時には、もうそのステップに続くターンの予兆を孕んでいる------。つまり、一流どころのスケーターは皆多かれ少なかれそうだが、この人の滑りはずば抜けて《一つの流れとしての演技》という印象が強い。ジャンプ、スケーティング、スピンといったことの組み合わせではなく、完全に一つの《型》として洗練された一連の表現を見せられたと思わされる。
そして、この人の演技は、《一人の優れた個人が滑っている》というだけでなく、《「ロシアのフィギュアスケート」という一つの磨きぬかれた伝統の精華が、一人の人間の姿をとって滑っている》というように思える。《型》というのは、多くの先人の意志・工夫・努力・個性の結晶だ。それを踏まえて独自の表現をするこの人の滑りからは、この人自身の表現は勿論、その《型》に込められた多くのスケーター達の姿も滲み出さずにはいられないと思う。それが、他のスケーターに比べ、より深みと多様性のある表現となってこの人の滑りを輝かせている。
好きにならずにはいられない、洗練の極みの滑りだ。
荒川静香〜優れた《個人》の職人芸の精華
スルツカヤ同様、ともかく全てにおいて満遍なく高い基本技術に支えられながら、この人の滑りからは全く対照的に《優れた《個人》が職人的に磨きぬいた数々の技を組み合わせて築き上げた演技》といった印象を受ける。共に恐ろしく整った演技だが、それを支える根本のイメージは全く異なるだろうと思わされる。
個々の技のキレと鮮やかさという点からいえば、ジャンプはやや劣っても、他の面ではスルツカヤをも上回るのではないかと素人目には思う。ただ、出された点数として、スルツカヤにほぼ並びながらやや劣る、という評価は個人的には妥当だと思えた。
カロリナ・コストナー〜跳ねる《風の精》のイメージを選択した戦略
最初のジャンプで転倒し、優勝戦線から脱落してしまった。
ただ、他の上位陣が、リンクを《滑る》イメージなのに対して、氷上を《跳ね回る》イメージを打ち出したのは見事だったと思う。
例えば、スルツカヤがアーサー王伝説の《湖の精》で、荒川静香が《オンディーヌ》(水の精。ウンディーネ)だとすれば、《ジルフェ》(風の精。シルフィード)を思わせる表現だといえる。素人目にも基本的な技術ではスルツカヤや荒川に洗練の度合いにおいて劣るものがあっても、それすらも魅力に変えるような鮮やかなコンセプトに全てをまとめる戦略は、素晴らしいものだったと思う。