小川一水『強救戦艦メデューシン』〜シミュレーションとして設定が良くない。


強救戦艦メデューシン〈下〉 (ソノラマ文庫)

はっきりいえば、この人の作品の中では非常に出来が悪い作品だと思う。

まず、大前提として、この人の基本的な志向は箱庭シミュレーションであり、その目指すところは「条件を単純化し、ある程度理想化した上で、《それでも発生する問題》を検討することで、本質的な課題とそれに向かう上でのあるべき姿勢を考え、描き出す」ことだろう。

故に、その作品全般において、登場人物のほぼ全てが、軍人・技術者・科学者・政治家・ボランティア・官僚といった類型にきっちりと収まり、かつ、その類型の範囲で求められる限りにおいて非常に望ましい人物として存在するのは当然であり、そうあるべきことだ。その枠を越えて描かれるというならば、それは個人としてその鋳型を超えるというのではなく、人々が嵌め込まれるべき新しい鋳型の創出を意味しなければならない。
また、描かれる物語の詳細のかなりの部分が、イメージの元となる資料の引き写しのような印象を与えるのも、事実そういう面は多分にあると思うので、当然だと思う。あくまでディティールはシミュレーションの条件設定なので、特にこだわりがある《飛ぶ》ということなどを除いては、むしろ過剰に文学的な描写などはマイナスに働きかねない。どの作品でも変わらない作者の手法は実に正しいと思う。


さて、その上で、話を『強救戦艦メデューシン』に戻す。
ようするに、この作品には、基本的なシミュレーションとしての条件設定において、他の作品に比べ無理がありすぎ、面白みに欠け、センス・オブ・ワンダーよりずっとあくどく《現実の悲惨さ》を訴えることを重視する傾向があるのだと思う。
幾らなんでも、悪役のプランが杜撰過ぎ、主人公達のやり方も行き当たりばったり過ぎ、それにしては上手く行き過ぎる。《現実》を印象付けるにしては、ディティールの設定が甘すぎる。
この作者の特質はセンス・オブ・ワンダーに向かう時に優れて発揮されるのであって、間違っても《社会派》の方向になど進んで欲しくない。そういったことには高村薫のような正にそれに向いた人がいるわけで(でも、『新リア王』はひどかった。あんな読者を完全に置いてきぼりにした新聞小説をやられた日経の編集の人、泣いてたんじゃないかな……。それと、確かに現代日本の作家の中では圧倒的な真正面からの描写力がある人だろうけど、シェイクスピアよりもむしろドストエフスキーに正面から対抗するようなコンセプトはさすがに手に余ったのでは・・・)、良くも悪くもこの人の出る幕ではないと思う。あとがきも、言わぬが花のことをわざわざ書いてしまっている。全体的に、なんだかなー、というため息が出ずにはいられない作品。

だが、それでももしこれが別の作家の作品だとしたら、相当いい作品だと思っただろう。たとえ失敗していても、この人の打ち出す基本的なコンセプトは、とにもかくにも好きでたまらない。
つまり、小川一水というのは自分にとって、滅茶苦茶贔屓したくなる作家なのだ。それぞれ少し違った意味でその最良の作といえそうな『老ヴォールの惑星』『導きの星』など、どうにも何を書いていいか分からなくなってしまうくらい好きだ。それだけに、こういう方向性はちょっと違うなぁ、と思わされてしまう。


ゼロックス・スーパーカップ『浦和レッズVSガンバ大阪』を観る。

3-1で浦和の完勝。
浦和のポンテ、小野、長谷部、ガンバの遠藤、播戸といった(少なくともサッカーというスポーツの上で)頭の良い選手のプレーの連鎖を観るのは素人目にも気持ちが良かった。特にポンテ。調子が良くても悪くても、チームが勝てても勝てなくても、そのやろうとしているプレーの合理性が、いつでも好きにならずにはいられない。
……そして、せっかく相馬という選手を取ってきたんだから、いい加減、サントスをレギュラーから外してくれればいいのにと思う。サントスとか、フランス代表やリヴァプールでのシセとかいった選手は、いかにボールを扱う技術や身体能力が素晴らしかろうと、観ていて苛々して来てしまう。なんだかなあ。