小川一水『群青神殿』〜アニメの原作にぴったり

珍しく、箱庭シミュレーションものではない作品。
読んでの印象は、「アニメの原作にぴったり」。
あとがきの末尾にもアニメの話がちょっと出てくるが(女性主人公ががんばるシーンでは、『魔法使いtai』というアニメの「背伸びをしてFollow You」という曲を思い浮かべて欲しいのだとか)、イメージとしては、むしろ、『宇宙のステルヴィア』の佐藤竜雄なんじゃないかなと思う(といっても作者が挙げたアニメの方はよく知らないけれど)。まあ、間違っても『ガラクタ通りのステイン』『ポピー・ザ・ぱフォーマー』の増田龍二ではなさそうだ。
でも、この作者って、増田龍二が監督した方が楽しくなりそうな、アニメの原作っぽい小説書いても意外に面白いんじゃないだろうか。たまには「真面目な中のユーモア」ではなく、「(かなりブラックな)ユーモアの中のマジメさ」で行ってみるのもいいのでは、などと無責任に思う。まあ、ただ単にステインとポピーが無闇やたらと好きだから言ってみただけなのだけど。


あと、作中やあとがきで、《自衛隊》という軍隊の存在の危険性に危惧が表明されているが、当然だろう。自衛隊は《軍隊》と公式に認められていないが故に、《軍隊》を厳しく律する法や指揮系統の統制、その運用に関する諸条件の整備が他国に比べて極めて甘いと言われる。それは即ち、一度、現場で一線を越えてしまえば、それを掣肘する鎖があまりにも弱いという、危険極まりない構造を意味する。
従って、自衛隊を正式に軍隊として認め、一方で彼らの向かうべき方向性を明確にし、一方で暴力装置としての彼らを抑制する仕組みを整えないことには、余りにも危険な状況が続いてしまうことになる。外国から自国を守るということよりも更に深刻なこととして、《「自衛隊=軍隊=日本という国家に於ける最大の暴力装置」が抑制なく暴走する危険性から自国を守るために》、それはどうしても必要なことだ。

厳しく整備された抑制の仕組みを持たない権力は、必然的に暴走する。例えば、マルクス主義は、何よりも、どんな組織でも必ず権力構造を必要とすることを概念的・理論的に認めようとしなかったがために、遥か古代にプラトンが喝破していた《権力》という巨獣に対して、それを縛る鎖をろくに用意できず、それが好き放題に暴れるにまかせることになってしまった。だからこそ、いざそうした人々が組織を作り、実際に権力構造が生まれると、上は旧ソ連から、下は日本の学生運動内ゲバまで、悲惨としかいいようがない事態が発生したのは必然の結果だとすらいえると思う。
軍隊を持たない《平和国家》、人々を抑圧する《権力構造を持たない労働者のための社会》などといったものは、それぞれ実に御立派な理想ではあるが、現実を見ずにそれを真っ正直に目指すことが何を意味するかを、歴史に学びもせず、想像もしない態度を保つ人々には、ただただ呆れる他ない。
戦時中の極端な愛国主義終戦後の丁度それを裏返しにした極端な自虐主義、現代のどこまでも無責任で現実性も想像力も欠いた一部の平和運動や、科学的な裏付けを求めないどころかしばしば拒みすらする一部の非科学的な環境保護運動といったことのお先棒を担ぐような人々は、要するにいずれもほぼ全く同じ精神構造を持っているのであり、外部の環境の違いによって違う現れ方をしているだけなのだと思う。