最近、小川一水の基本的に前向きな箱庭シミュレーションものを随分読んできたので、少しバランスを、ということで有名なディストピアものの代表作に手を出してみた。
北村薫「朧夜の底」で、《私》が、
「私、イギリスっていわれて、すぐ浮かぶ小説家はオルダス・ハックスレーなんです」
というのがこの作家だが、現在だと、『恋愛対位法』とこの作品以外は、どれだけ読まれているのだろうか?
ともあれ、この作品の狂言廻しであるバーナード・マルクスという登場人物(この作品の登場人物の名前は他の面々もそれだけ見て行くだけでも面白い)について読み進めていくことには、マゾヒスティックな快感がある(『恋愛対位法』では、あらゆる意味でその感覚が遥かに強烈だったが)。特に次の下りなんかもう、たまらない。
「それにも関わらず、バーナードには、虫の好かないところがあった。たとえば、こういった自慢話だった。それからまた、これにとって代わって、不意におこって来るなさけない自己憐憫だった。それに事の終わった後で大胆になるという哀れな癖や、その場に臨まないかぎり異常なくらいの沈着ぶりを発揮することだった。彼はこういった点がいやだった------」
……確かに、なんだかもう、とてもとても《イギリス》である作品だと思う。
作中の焦点の片方となる野蛮人・サヴェジはああした最期を迎えるが、作者自身がより多分に反映されているのはおそらくバーナードであり、ため息をつき、情けなく屈折しつつ、なんだかんだいって現実と折り合いをつけ、それなりに格好をつけて生きていけそうだ(解説によると、実際の作者は第二次世界大戦で強烈な衝撃を受けた結果、(宗教方面に傾斜していってしまったというが、いかにも頷ける話だと思う。アーサー・C・クラークみたいだ)。
フロベールやモーパッサンのようにとことん観察に観察を重ねて描くのでもなく。
ドイツの皆さんのように演繹的・徹底的に世界を解き明かそうとしたり、逆にその中で強烈な矛盾に突き当たっての大衝突を描いてみせるわけでもなく。
イプセンやストリンドベリーやスウィフト(アイルランドはイギリス本土とはまた随分と違う文学的風土がある)のように、突き詰めれば発狂や自殺に至らざるを得なさそうな暗い暗い思考の深淵に沈むのでもなく。
多面的・並列的に様々な見方を組み上げ、とことん傍観者的で観念的で、強烈な自尊心と同じくらい激しい自嘲の苦さと、それでも平衡感覚を失わせないブラックなユーモア精神を併せ持ち、他の国の文学者に比べて遥かに優れた《時間の縦軸の中での現在》ということに関する感覚と視野の広さを備えている。
強く惹かれもすれば、最も共感も出来もするが------しかし、だからこそ、どうしようもなく忌々しくもある。