塚本邦雄『十二神将変』〜際どく捻れ歪みつつも傲岸に整った、噎せるような腥さい血潮の匂いを感じさせる《反世界》


十二神将変 (河出文庫)

容赦なく押し迫ってくる鮮やかな腥(なまぐさ)さ。付いて来れない者を容赦なく無視する突き放した態度。中学の頃、旧仮名遣いの岩波文庫版『ローマ帝国衰亡史』(村山勇三訳。あとで中野好夫訳の新版でも読み直した)を無理やり背伸びして読み進めた時のことが、久々に思い出された。
あえてこの作品の印象をまとめるならば、これは「ある種の《敗北》を悟りつつ、そして際どく捻れ歪みつつも傲岸に整った、噎せるような腥さい血潮の匂いを感じさせる《反世界》を築き上げる作品」なのだと思えた。

作品が描き出す《反世界》の性質〜中井英夫リラダン小栗虫太郎辻邦生の描く世界との比較でその印象の説明を試る。


以上は余りに抽象的に過ぎるかとも思う感想だが、そのイメージは他の作家の有名作品と比べていくと、よりその輪郭をはっきりとさせていくことが出来るかもしれない。


まず、「傲岸に整った」というのは、例えば同じく《反世界》を志向しても、中井英夫『虚無への供物』のように、《現実》に悲憤を抱き告発するのではなく、(作中の男達ではなく、それを描き操る作者自身は)揺ぎ無い強烈な自負を以って、《現実》を傲然と拒み、古今の時間軸を自在に貫く独自の世界を築き上げているということだ。


そして、「際どく捻れ歪みつつ」というのは、その世界の構築に際して、例えばヴィリエ・ド・リラダン未来のイヴ』『残酷物語』のような直球で純情な(しかし、それゆえに迫力とある種昇華された純な美がある)やり方ではなく、怖ろしく複雑に無数の異なる秩序を取り込み、組み合わせつつ、独自性の異常に強い世界を創出する手法をとっていることを言いたかった。


また、それだけ凝りに凝りながら、全く《逃避》という気配はなく、あくまで傲然たる姿勢を崩さないこと、そして、「どうだ、凄いだろう」といわんばかりの稚気混じりのペダンティズムよりずっと冷ややかな、「この程度のことは常識としてわかる奴だけ読めばいいさ」といわんばかりの態度は、例えば小栗虫太郎黒死館殺人事件』と比べるとき、実に対照的に思える。


最後に、「噎せるような腥さ」とは、例えば、強烈な矜持と群を抜く深い教養、洗練の極みの文体を持つことは共通しながら、辻邦生『背教者ユリアヌス』『安土往還記』の格調高く高雅で、故意にバタ臭くもある、乾いた空気と抑制に抑制を重ねた渇き求める思い------それを読む読者は、ストイックな使命感と、真・善・美をあくまで知的かつ徹底的に求める論理と精神の美に自然と引き込まれる------と比べた時、この作品は、じりじりじりと迫りくる生命力をもって、精神のみならず肉体的にも圧迫してくるようなイメージを全篇に渡って遠慮会釈なく放射し続けてくるということだ。


作中の気に入った箇所


ただ漠然と「いいなあ」と思ったということならば、全篇を通じて見られる、この作品独特の迫力を生む大きな要因となっている技法-----すなわち、改行を少なくした上で拗音・促音も小文字で書かない旧仮名遣いが使われることにより、長く大きな段落が塊となってページから迫り来ること、その密度の高い文字の集まりの中で、自在にその空気を攪拌するカタカナの効果------が実に好きということで「好きなのは全篇」ということになってしまう。
ただ、それだけが感想というのもどうかと思うので、作中、特に素晴らしいと思えた二つの箇所を引用してみる。


まず、序盤において、物語とその中の人物たちの関係とその未来を暗喩しているように思えるくだり。河出文庫版21ページ。

母には生返事をしてそのまま二回へ上り、妹の様子を外から伺った。灯は消えたまま、熟睡してゐると覚しい。扉の上の小さな飾灯に夭(おさな)い蟷螂が淡緑の鎌を振ってゐた。

沙果子に代表される女たちが蟷螂だとすれば、男たちはやがてそれに喰われる蝶になるのか。
または、連想されるのは蟷螂の繁殖における雄雌の関係性か。
それと、沙果子=釈迦、須弥=須弥山という名前からも暗示されるとおり、男たちは女たちの手の平で飛び回る存在であるのか。
あるいは、鎌を振る蟷螂の姿からは、「蟷螂の斧」という言葉を連想すべきか。
上記引用文の最後の一文は、実に美しく、趣き深い。


続いての引用は、特に説明不要かとも思う。
ここだけ少し、登場人物の発言として少し他の部分と醸し出す空気が違う。茶道にかこつけて、矢はどのような的に向かっているのは明らかなように思える。

「言ふだけのことはある。見事だよ沙果ちゃん。恐らくそれも所詮は虚礼に繋るテクニックだらう。だが、型は秩序、この世を斎(いは)ひ人を鎮める唯一のよすがぢやないだらうか。型だけに堕ちて本末転倒した虚栄の市を罵倒するのは易しい。そして同時に現象面だけを衝くに急で本質に眼を覆ふのも倒錯の謗りを免れまい。さうだらう? 茶の湯も発生当時からさまざまな矛盾は孕んでゐるさ。道と呼ばれた時から頽廃は始まつてゐる。別に茶道だけの問題ぢやないよな。おれも茶禅一如がどうのかうのなんて鵜呑みにして有難がつてるわけぢやない。君の言つた紹鴎、織部、遠州にしろその道の達人であることだけなら何も魅力は感じない。茶をメディアとして、あるひは楯として時の権力に拮抗したことに、拮抗するだけの絶対的な今一つの世界を築き上げたことに満腔の敬意を表するのさ」