文鳥舎寄席【サンタローdeナイト・フィーバー! vol.4】〜三太楼師匠の『崇徳院』についての感想を中心に。


三鷹「文鳥舎」という、毎週さまざまな企画・イベントを行っている喫茶店&居酒屋でのイベント。店のスペースをぎっしり埋めた40人程度の椅子席がほぼ満席という盛況(三太楼師匠の最初のまくらや、後で第四回目を迎えたこの企画に何度か足を運んだという方のお話を伺うと、今までにない大入りとのこと)。

三太楼『崇徳院』『茶の湯』の二席。
神田ひまわりの講釈は、今の大河ドラマ(『功名が辻』)に合わせて、山内一豊の出世話。

三太楼『崇徳院』(1)〜まずはまくらから。新刊『オールフライトニッポン』について熱く(?)語る。

まず、まくらは最近発売された柳家三之助師匠との共著『オールフライトニッポン』の話。
曰く(以下、実際の話の内容をかなり端折って記述)、

「飛行機の出発時間ギリギリに来たりすると、何が起こるか。大変なことです。まず、出発時刻って、客が登場する時刻じゃあないんですよ。離陸する前、飛行機って妙な機会が引っ張っていくでしょ。あれ、トーイングカーっていうんだけどね。で、それに乗ってる人が、よーし、もう出発できるぞ、ってなるとその手をこう、振る(ワイパーのような手の動き)。これ見ると、思わず窓見て手ぇ振り返しちゃうんだけどね。で、ここ。その時の時刻。これが、出発時刻。とっくに客乗ってなきゃいけないの、こん時は。で、そこが遅れちゃうと、空港も航路も同じような時間に希望が集中してるから、後から後から遅れが積み重なって、結局客が10分遅れりゃ4,50分は遅れちゃうし、航路も一番最後に残ったイマイチなの通らされるから遅い上に揺れたりする。それ、パイロットの責任じゃないんだから。睨んだり恨んだりしちゃあ駄目なんですよ。あ、ほら、今遅れて来たお客さん、ほら、こういう人がいると・・・(以下、しばらく客いじり)」といった具合。
ちなみに、途中でご本人も断っていたけれど、はっきりいってこのまくら、まるで噺とは関係がない。ただ、ともかく楽しそう、嬉しそうな語りなので、聴いているこちらも何となく愉しく、会の始まりからいい空気になったと思う。


ついでに、聴きながら例によってごちゃごちゃと考えつつ------「小三治師匠の本も『ま・く・ら』とかは買って読んでも、『バ・イ・ク』は買ってないんだけどなぁ……。ああ、でも、そういえば、小三治師匠には去年、少なくとも三回はまくらで大仏次郎天皇の世紀』の素晴らしさについて、それぞれ10分以上、下手すると延々2,30分以上の語りを聴かされた末に(正直言って、あれは幾らなんでもちょっと……)、殆ど洗脳されたようにネット古書店でそれも買ったはいいけど、まだ全く読んでないなぁ。忘れてたなぁ。まあ、それに比べれば……」とかなんとか------せっかくなのでこれは買ってみようか、という気にさせられた(で、結局、志ん朝「落語名人会(27)」などと一緒にamazonで注文。便利で楽になったけど、出る方だけでなく、入ってくる方も同じくらい楽になればいいのに……)。


ただ、まくらの終盤は、これは普通に噺に入る前準備に。
「昔から、「目やに女」に「風邪男」などと申しまして…」と言い立てて、それぞれ実演------しかし、いまいちウケず、三太楼師匠、ちょっと意気消沈。「志ん朝師匠がやったのを観て「俺もやってみてぇ!」と思ってたけど、まだ自信が無くて寄席で掛けたことは無かったんだよなぁ。当分、お蔵入りさせよう」とこぼす。
……志ん朝師匠なら、鉢巻の結び目を反対にした花川戸助六のイメージでも、華やかに描き出して見せたんだろうか?
ともあれ、いつになく長い(15分くらい?)まくらの後、噺の世界が始まっていく。


三太楼『崇徳院』(2)〜前半は志ん朝師匠風+随所に三太楼師匠らしさ。


落語名人会(27)

前半------いよいよ、若旦那が惚れたお嬢さんを探しに出るまで------は、全体的に志ん朝師匠の面影を感じさせる語り口。

例えば、親旦那の描き方。子を思う情は見せつつも湿っぽくなく、(熊五郎に無理やり支度をさせて送り出す場面などでも)上方の米朝・枝雀師匠のようにバァーッと舞い上がるというより、ポン、ポン、といなせに歯切れ良く畳み掛けていく。

ただ、何より志ん朝師匠風なのは、若旦那から病気の理由を聞き出して戻ってからの、親旦那とのやり取りをする熊五郎。なんだか、『男はつらいよ』の寅さんのよう。
話のところどころで、首を傾けてちょっと眼を見開いてリズムよく「ねぇ?」「ねぇ?」と声が出る(例えば、「しゅとくい、って人がいるでしょう?ねえ?」「それ(「人食い」)じゃ化け物だ」というやりとりや、「そう、そう、あの歌。何といいましたっけ?ねえ?」」)。
圓生師匠に《圓生の笑い》、志ん生師匠に独特の頷き(「〜だろう?」「ウン」「それだよ。で…」)があるように、志ん朝師匠ならではの《間》の取り方の癖、もしくは技の一つであるものを、かなり三太楼師匠らしくアレンジして真似た演り方だと思えた。
そして、全体的に志ん朝師匠風、ということがあってか、三太楼師匠の高座では良く「大画面のテレビの中でのコミカルな掛け合いを観ていたら、突然画面の人物と眼があったり、ぬっと顔や手が画面の外に突き出てくることがある」といった印象を受けるのだけれど、この噺の前半は、それが大画面テレビではなく映画館のスクリーンの中で進んでいるようにも思えた。

ただ、そんな中でも、これはいかにも三太楼師匠らしかったというのは、熊五郎と若旦那のやりとり。中でも、「恋患いなんだ」と打ち明けられた時の熊さんの反応。
聞いたとたん、噴き出すのをぐっと堪えて、あの独特の、横目で相手(若旦那)を見る視線。そして、「ごめん、悪い。我慢できない。笑うよ」といって噴き出してしまう。これが全く残酷にならず、どこまでも愉しい場面になるのが三太楼師匠の持ち味の一つだと思う。

他にも、随所での顔芸(例えば、「片眉をぐっと上げ、僅かに遅れて上げた側の眼が大きく、反対側の眼を少し閉じるようにする。また、その時に眉を上げていない方の側に頭がほんの少し傾く」というお馴染みの仕草)や表情は、どこまでも三太楼師匠ならではのもの。

また、家に帰った熊五郎とおかみさんとのやり取り------特におかみさんの描写-----も、実にこの人らしかった。まず、(これは三太楼師匠の工夫なのか、志ん朝師匠やその前の三木助師匠の工夫なのかはまだわからないけれど)米朝・枝雀版では帰るなり親旦那からの報償の話をする熊さんは、三太楼師匠の噺ではまず、《若旦那の病気の原因を聞き出したら、自分がそれを探せといわれた》ということだけ話す。それに対するおかみさんの反応が愉しい。
「まあ、純情でいいじゃない。いいわねぇ、そういう話」と聞いていたのが、だんだん「それにしたって、何もあんた一人が駆けずり回って探さなくても。あれだけの大店、幾らでも人だっているだろうに。あんたは毎日稼がないとうちは首が回らないんだし。ねえ?まったく……」と愚痴りだす。それが、《借金棒びき、今なら三軒長屋も付いてくる大判振る舞い》ということを聞いた途端、見事に手の平を返し、「何ぼぅっとしてんだい」と親旦那以上に賑やかに散々せっつき、叩き出さんばかりにして熊五郎をけしかけ、送り出してしまう。
この愚痴りっぷり、豹変ぶりが、何ともいえない、実にこの人のニンにあったものだと思えた。

三太楼『崇徳院』(3)〜後半は権太楼師匠風



そして、噺の後半。おかみさんに追い出されるようにして、お嬢さんを宛も無く探しに出た熊五郎。
この場面以降、噺はほぼ完全に熊五郎中心になって、前半活躍した若旦那も親旦那も実に影が薄くなる。あとは、5日という期限の4日間を虚しく浪費してしまった熊さんが疲れきって家に帰ってきた所で、おかみさんがやや印象的に出て来るくらい。ひょっとすると、親旦那の元に一度報告に戻る下りは無かったかもしれない------あるいは、少し印象の薄い描き方だったのかとも思う。


熊五郎を通じて描かれるのは、決して欲まみれではないがそれなりには欲もあり、いじましくも健気に生きる一庶民のがんばりと哀感だったように感じた。つまり、いかにも権太楼師匠風の世界ということになる。
特に、熊さんの嘆き------(以下、非常にうろおぼえなので、極めていい加減にアレンジして記載)「それにしても、ひでぇこといいやがる。言いたい放題叱り散らした上に叩き出しやがって。若旦那、惚れた挙句に病気で寝込んじゃったけど、それで探して結婚して------でも、そのなれのはてはこうなるんじゃないの?教えてやりたいもんだね、まったく」-----などは、殊にその印象が強い。


《権太楼風の世界》ということをもう少し詳しく説明するならば、この噺以外でも、武士の意地や若旦那の純情、旦那の鷹揚さといった《いいこと》に対して、それを決して皮肉ったりするのではなく、まして嘲笑うわけでは断じてないが、「でもねぇ、その陰で周りだっていろいろ苦労しているのは忘れないでくださいよ」「それ、今は格好いいですけども、通し抜いたり持ち続けるのは大変ですよ、ねぇ」とひと言いっておかずにはいられない、というのが(例えば、『井戸の茶碗』の屑屋が「えぇ、わたしは年は三十五歳、物の道理は分かりません!」と叫び出すように)その《人情》の描き方だと思う。
それはつまり、効果の面からみるならば、そうした部分も描くことによって、《それでも張らずにはいられない意地》や、《そんな世知辛い世の中だからこそ、微笑ましくも貴重に思える純情》がより引き立つ、という手法だろう。そして、より内面的には(勝手に解釈して言葉にするならば)「《人情》というのは、例えば《意地を描く》というならば、意地を張る側も、張れずに毎日を生きる側も両方を描いてこそ初めて《描いた》といえるだろう」とでもなる、噺家自身の主張であり精神だと思う。
そして、師匠から弟子へ伝わるものというのは、持ちネタや、その演出上の工夫・技法といったものよりも、何よりもまずそういった《精神》なのであり、この噺の後半において、三太楼師匠の噺から滲み出しているのは正にそれなのではないかと思える。


ただ、そういう手法だからこそ、《庶民》を描いても、本当にえげつない浅ましさというのは出来るだけ和らげられる。
例えば、サゲの部分で、もうくたびれ切って諦めかけていた熊さんと、こちらはお嬢さんの家の方からの頼みを受けて元気に探しに出てきた鳶の頭が、お互いに捜し求めていた相手が見つかったことを知り、「三軒長屋!」「三百円!」と叫び合う下りは、どこまでもコミカルで愉しく演じられる。前半の《志ん朝風》の印象が凝縮されていたのが、熊五郎の「ねぇ?」の連発だったのと同様、《権太楼風》の演り方を象徴的に示していたのが、このサゲだっだと思う。
こういったところは、例えば、まともにドロドロの欲を描きながら、それでも陰惨さより遥かにおかしみと親しみを感じさせてしまう、志ん生の演り方------例えば「黄金餅」や「夢金」------と意識的に異なる方法が取られていると思う(それは当たり前で、あんなシロモノを真似しようと考えるのは無謀過ぎる)。
あとで振り返ると、今回の三太楼師匠の噺ではもう一つ大きな特徴として、米朝・枝雀両師匠では明らかに噺の重要なポイントになっていた、親旦那から鼻先に大きな人参をぶら提げられた熊さんが叫ぶように口にする「こうなったら、わたしも欲と二人連れ……」という部分が、あえて強調されていなかったか、これもひょっとすると口にされていなかったかもしれない。
それも、剥き出しの《欲》を真正面から突き出すことを望まない、演出上の明確な意図の表れだと思える。

三太楼『崇徳院』(4)〜発展途上ゆえの面白さ+《途上》にも関わらずそれ自体として持つ魅力


ここまで、前半は志ん朝師匠、後半は権太楼師匠と、三太楼師匠の噺のベースになっていたであろう相手と比較して感想を書いてきたが、こうして明確に印象が分かれることが、三太楼師匠のこの噺が《発展途上》にあることを示していると思う。
つまるところ、二つの異なる世界が《切り替わって》いて、一つの世界に融合していない。この会の打ち上げ三太楼師匠ご自身にお話を伺っても、まだ《発展途上》の噺だと(それがここで私が書いているのと同じ意味であるかどうかは定かではないけれど)いうことだった。


これは、素人的に考えても、ある意味当然で、ベースになっている志ん朝師匠と権太楼師匠とは、《二人共にその良さを吸収した上で、更に自身の持ち味も加えて一つの噺に仕上げていく》という素材としてはなかなか微妙な相性で、それにより、単純にそれぞれの偉大さの要求する苦労以上のものを求めてくることになっていると思える。


権太楼師匠の芸風については先ほど軽く触れたので、今度は志ん朝師匠について同じくごくあっさりと書いてみる。
志ん朝師匠の大きな魅力の一つは------といっても、私は落語にそれなりの興味を持ったのがかなり遅い時期なので、その生の高座に接することは出来なかったのだけれど------《湿っぽさ、しつこさ、説教臭さを削れるだけ削り、人の持つ相当えげつない感情にも踏み込みつつ、その《粋》という他ない爽やかでリズムの良い口跡と姿によって、鮮やかに噺の世界を立ち上げてみせること》だと思う。
その凄さは、ただその噺を聴くだけでなく、例えば『男はつらいよ』などの山田洋次の映画、そして川島雄三監督・フランキー堺主演『幕末太陽伝』などを観ると、より良く分かる。その落語的な空気は、他の誰よりもまず、志ん朝師匠のそれと重なってくるように思える。それによって、いかにその映像的なイメージの喚起力が強いか、それがいかに、現実に抗して立つに足る、広がりのある《物語世界としてのリアリティ》を持っているかということを、改めて実感させられる。


そして、志ん朝師匠のこうした芸風は、権太楼師匠とはやや対照的なものだとも思える。つまり、いってしまえば、権太楼師匠は良くも悪くも「少しばかり湿っぽく、結構しつこく、多少説教臭くもある」芸風と思えるので(去年の八月に鈴本で聴いた『文七元結』などを思い浮かべると、特にそう感じられる)。
それぞれが見事にそれぞれのスタイルを確立させている噺家だと思えるだけに、それを両方取り込むというのは並大抵のことではないだろう(もっとも、仮に相性がいい組み合わせでも、全くもって《楽》だなどということはないだろうけれど)。


ただ、だからこそ、そうした困難に挑戦している三太楼師匠の姿は大変面白くかつ興味深くもあり、それでいながら、現時点でもこんなゴチャゴチャとした理屈を並べなくとも、文字通り理屈抜きに楽しめる噺として仕上げてきていることは、怖いくらいに凄いと思わされる。


話がやや飛躍するが、落語関連の本を読んだり、実際に寄席などで噺を聴いてみると、落語家というのは実に演じる人にとって厄介な商売だと思わされる。どうやら、やがて歴史に残る《大名人》と呼ばれるような人でも、本当に芸が素晴らしくなり人気も出て来るのは早くとも四十、普通(?)は五十を越えた辺りからなのだとか。
志ん生文楽圓生という、いわゆる「昭和の三名人」ですらそうで、今回の会の打ち上げでも、「そろそろ還暦を迎える権太楼、さん喬両師匠の今の充実振りを見ると、二人のこれからが本当に楽しみだ」という言葉が殆ど《常識》のように口にされて、自分でも全く同感だというのは、改めて考えると結構怖いことを言っていると思う(もっともも、中には小朝師匠、談志師匠、志ん朝師匠のように、若くして芸の上でも人気においても高く評価される人もいるけれど。また、そういう世界で芸を磨き続ける人々の噺の中にしばしば「ご隠居さん」が出て来る、というのもある意味面白い)。
ただ、だからといって、金を取って客を呼ぶプロである以上、二十代、三十代、四十代の頃を「私はいずれ名人になりますから、今は多少御聞き苦しいところがあるかもしれませんが、我慢して聴いていてください。後で振り返れば、「あの頃があったからこの名人がある。俺はそんなときからあいつを聴き続けて来たんだ」と自慢できますよ」などと言うわけにもいかない。一方で、「今の人気目当てで芸を荒らしては大成できない」という戒めもある。
そんな矛盾した無理難題を抱えながら、それでも「何より眼の前の客を愉しませることを大切にしつつ、より高い領域を目指して先人の芸に向き合いつつ自分の芸を磨いていく」などということが出来るものだろうか……と思うところだが、実際にそれを正に現在進行形でやっている人がいるといるわけだから、伝統芸能という分野の底力と、このご時勢にそんな中に自ら飛び込んでいき、頭角を現すような人は凄いと思う。


そう考えていくと、そういう人の芸にそれなりに向き合ってみようと考えることは、自然に自分自身のことを振り返ることにも繋がらずにはいられない。
まず、噺家が現在より更に一段上の芸に挑戦するという時には、芸としての完成度は不十分であるに決まっている(話に聞く桂文楽のように持ちネタを絞りに絞り、そもそも高座に上げるまでにも異常な時間をかけて凝りに凝った上で、その後もひたすらそれを磨き上げるというやり方ならばそれも可能なのかもしれないが、あまりにも特殊な例であり過ぎる)。
特に、柳家権太楼一門の筆頭でありながら、およそタイプの違う古今亭志ん朝の《粋》を自分の芸に取り入れようという取り組みというのは、素人目にみても凄い挑戦に思える。ここで「Google」で「崇徳院 三太楼」などで検索すると、少なくとも数年前から高座に掛けていたり、弟弟子の右太楼さんにこのネタを教えていたりと、随分前から力を入れて取り組んでいる噺だということがわかる(一方で、この日の二席目『茶の湯』は2005年10月末にネタ下ろしとなった噺であることも知る(⇒このページから)。もーーーーの凄く生意気で身の程知らずのことを言うと、きっと数年もすれば、三太楼師匠の『茶の湯』も、今の『崇徳院』と同じくらいいい持ちネタになるのだろうと思う)。そして、これまたひどく分を弁えない言い草だけれど、幾ら才能溢れる人でも、とても数年程度で「これだ!」といえるところまでモノにしてみせることが出来る問題ではなさそうだと思う。
しかし、それでもその噺に理屈を越えた愉しさが溢れ、笑わずにはいられないというのは、足りない分は噺家が培った芸人としての自身の個性そのものをぶつけてそれを補っている------別のいい方をすれば、芸が未完成な分だけ自分をそのまま晒しているようなものではないだろうか。『崇徳院』の後半では、権太楼師匠風の展開に三太楼師匠の個性が自然に交じり合うようにして噺が進んだのに対し、前半部分は、志ん朝師匠風の流れの中で「いかにも三太楼師匠らしいところ」が浮き出して見えたように感じられた。それはモデルにした芸が、どれだけ演者の身に染み込み独自の形に消化されているかの度合いを示していたのではないかと思う。そして、そうして自分を比較的薄い皮でしか包まずに曝け出すのは、人前で喋るのが仕事のプロだろうと何だろうと、とんでもなく怖いことに違いない。

それをある程度身を入れて聴くというのだから、これは自分の方でも、それなりに仕事も他の面でも力を入れて何かが出来ている時でないと、強烈に自己嫌悪に苛まれてしまいそうで、演じる側の数分の一くらいには怖いことだと思う。

三太楼『崇徳院』(5)〜米朝師匠、志ん朝師匠との演出の違いとその解釈を考えてみる


(※この項は3/8に追加)


3/8に、志ん朝「落語名人会(27)」が届いたので、ようやくその『崇徳院』を聴くことが出来た。
そこで、米朝師匠・枝雀師匠、志ん朝師匠と三太楼師匠の噺の中で、特に目立つ演出の違いについて、気付いた箇所を幾つか挙げて考えてみることにする(ただ、あまり記憶力にも自信がある方ではないので、三太楼師匠の演出については解釈以前に事実として違っている部分もあるかもしれない)。


若旦那とお嬢さんの馴れ初め〜時間の凝縮と、若い二人の純情と縁の強調


三太楼師匠はここが独特で、出会いの時間をぐっと凝縮させた上で、雅な風情よりも、二人の純情さと、彼らを結ぶ縁の強さを強調していたのだと思う。

具体的には、お嬢さんが茶袱紗を落とした時、(出会いの場が上野清水観音ということもあり)近くの枝に掛かっていた短冊がひらひらと舞い落ちてくる。若旦那がすぐにすっと歩み出て袱紗を拾って渡すと、その手と手が一瞬触れ合う。お嬢さんは崇徳院の御歌が書かれた短冊を手に取ると、それを若旦那に渡して立ち去っていく。


他の師匠方とどう異なるかというと、まず、米朝・枝雀師匠では、茶袱紗を"忘れて"いったことに気付いて、追いかけて渡す。志ん朝師匠になると、同じように"落ちた"ことが切っ掛けだが、こちらはそれに気付かず立ち去ろうとするところを見て、急いで拾って渡すことになる。
そして、お嬢さんは問題の歌を(上方の両師匠は料紙を持ってこさせ、志ん朝師匠は包みから短冊を取り出して)"さらさらと上の句だけ書いて"渡す。


野暮にまとめると、まず、二人の出会いの時間の長さは「三太楼師匠版<志ん朝師匠版<<<米朝・枝雀師匠版」となり、それが短ければ短いだけ、二人が出会った瞬間のドラマ性が強調される。しかし、それは一方で、心の動きの細やかさにはやや欠ける部分も出て来るということでもある。
しかし、その部分は性格描写としては、坊ちゃん坊ちゃんした内気な若旦那が、この時ばかりはすぐにすっと歩み出て行動するところが、並大抵でない一目惚れの深さを示すということで補われているようにも思える。
また、三太楼師匠の若旦那はきっと、"お嬢さんが落としたまま忘れて立ち去るのを見て"と一拍考える間が出来てしまえば、とてもそんな行動を取れないくらい、内気で純情な人物であり、彼が行動できるとすれば、このタイミングでしかなかったとも感じられた。


次に、二人を繋ぐ崇徳院の歌の受け渡し-----この噺の風流な空気の根源-----の場面の違いについては、まず、明らかにお嬢さんが「さらさらとその場で上の句だけ書く」方が雅ではある。料紙を取り寄せるのも、包みに短冊を持ち歩いているのも、共に風雅でいい。

しかし、「なぜ、殊更に三太楼師匠が異なる演出を採ったのか」ということも想像はできる。
三太楼師匠の噺ではきっと、袱紗を受け取ったとき、もう彼女は、なんとかかろうじて抑えながらも、既に「ぶるぶる震えて」しまっていたのだと思う。とても、歌を認(したた)める余裕などない。
そこで、《どうしよう》と心が千散に乱れる中に、偶然にも自分の思いを伝えるのに相応しい短冊が眼の前にはらりと落ちてくる。その時、その嬉しさを噛み締める間もあらばこそ、気が付けば体は動き、短冊を渡していたということなのではないだろうか。
無論、大店の箱入り娘である彼女は普段ならば決してそんな思い切った行動が出来る人間ではない。《それでも》そう自然に動いてしまった、というのが、若旦那の行動と好一対になる正に一目惚れのなせる業であり、若旦那とお嬢さんの演出はセットとして工夫されているのだと思える。
三太楼師匠の噺では、《いい家の坊ちゃん嬢ちゃんの、いざという時にも優雅で品がある行動と表現》ではなく、《若い二人の恋を助けた有り得ないような偶然の重なりと、その上での迷う間もない、深い感情に突き動かされての行動》が描かれていたのではないだろうか。


「こうなったら私も欲と二人連れ」の下りの有無と、熊五郎と若旦那・親旦那への態度との関係


「三太楼『崇徳院』(3)〜後半は権太楼師匠風」でも書いたことだが、米朝・枝雀両師匠では噺の重要なポイントである、「こうなったら、わたしも欲と二人連れ……」の下りが、(記憶によれば。多分。たしか。ひょっとすると間違って覚えているかもしれないけれど)三太楼師匠版ではカットされているが、この工夫は、志ん朝師匠版で既に採用されているようだ。
そして、この演出の解釈として、志ん朝師匠の録音を聴くうちに、「剥き出しの《欲》を真正面から突き出すことを望まない」意図だという基本線は変わらないが、更に進んで《この演出は志ん朝師匠が若旦那にぶつける各種のくすぐりとセットになったもの》だとも思えて来た。


志ん朝師匠の噺では、米朝・枝雀両師匠に比べ、熊さんが結構ポンポンとつっかかるようなくすぐりを連発して、それが爆笑を誘う。

「ふぅん。医者に分からねぇで、お前さんに分かるんですか?それなら若旦那が医者になった方が早ぇですねぇ、それは」


「ほら・・・笑ったじゃないか」
「あ、勘弁して下さい。一遍だけ笑わせてください。ふっ!」


「へぇ…じゃあ、早ぇ話が、蜜柑をぶっ潰したような顔なんですかぃ?」
「違うよ……元気なら ぶつよ、もう…」


「よしなさい!そんな女。ねぇ?」


「そうですねぇ…まあ、仕方がねぇから、このまんま静かに息を引き取ってもらうというのは…」


それでもこうした笑いに陰険な影がまるで付かないのは、志ん朝師匠独特の《粋》であり、その演出の多くを踏襲した三太楼師匠の、一見ひねくれて内に籠っているようで、不思議に人を愉しく惹き付ける珍しい個性あってのことだろう。聴いていると、こうして良くも悪くもハッキリものを言ってくれるからこそ、若旦那も「熊さんでなければ」と信用するのだと思わされる。


特に「元気なら ぶつよ、もう…」の下りはCDの解説にもあるように、志ん朝師匠ならではの素晴らしい演出で、三太楼師匠もこうした部分を演りたくて志ん朝流の『崇徳院』に取り組むようになったのではないかと思う。
愛宕山』の「狼にヨイショは効かない」などに代表される、志ん朝師匠の既に伝説的とさえいえるくすぐりの巧みさは、この噺では熊さんと若旦那の会話の中で最も良く活きているのだろう。なお、若旦那の描き方でいえば、枝雀師匠の『崇徳院』でも、志ん朝師匠とはまた違う、これも枝雀師匠らしいとしかいいようがない、好きにならずにはいられない名演となっている。


ただ、その空気も、もし熊さんが親旦那からの報酬にすぐに目の色を変えるようだと、どうしようもなく壊れてしまう。それだからこその、上方噺としての『崇徳院』の名台詞のカットだろう。
そして、それに対応する形で親旦那の興奮の描写も控えめになるし、《欲》の部分は熊五郎のおかみさんを経由することで、夫婦の情愛を込めることで和らげた形で示されることになる。
また、褒章の内容自体も、上方では熊五郎に「五軒の借家と三百円」であるところが、熊さんには「三軒長屋」、最後に髪結床で出会う相手方が、お嬢さんの親から「百円」を約束されているという形で二つに分けられ、庶民の《欲》という部分を、コミカルに湿り気なく描くサゲに繋がって行く。

いかにも志ん朝師匠らしい、見事な構成だと思う。

一方、三太楼師匠版『崇徳院』では、基本的にはその展開を踏襲しつつ、随所に権太楼師匠の芸風と深く交じり合った、三太楼師匠らしい空気が感じられた。そのあたりのことは「三太楼『崇徳院』(3)〜後半は権太楼師匠風」で書いたが、特に目立つのは、自宅に帰った熊五郎とおかみさんのやり取りが分厚く描かれている部分だろう。単に理屈としての演出効果だけでなく、いかにも三太楼師匠に似合ういい演り方だと思わされる。

ただ、その中で「何もあんた一人が駆けずり回って探さなくても。あれだけの大店、幾らでも人だっているだろうに」という意味のことが語られ、「あそこも大店で、店の者の手前、若旦那がそんなことでぶっ倒れちゃっているのを知られたくもないし、あんまり派手に人を使うわけにはいかないんだろう」と返されるのは、"お嬢さんの店のほうでは後で総動員態勢で人を出してくるのに"という疑問に一つの回答を出しているのだろうけれど、別にそうして理屈を付ける必要がある噺ではなく、逆に余計なことを意識させると噺が小さくなってしまいかねないとも思えてしまう。


ちなみに、米朝・枝雀師匠の演じ方では、けっこうえげつなく庶民の《欲》を描いた上で、それをバネとして------正に志ん朝師匠版でカットされた部分を中心として------、どこまでも奔放かつ奇想天外に、ナンセンスの彼方へと広がっていく陽気な笑いを生み出していく。こちらは"正に上方噺"という演出であり、言うまでもなく、それでこそ初めて出て来る固有の面白さを持っている。


最後に一つ、小ネタ。
熊五郎がお嬢さんを捜し求める場面で、ガセネタ(!)を掴まされるなんとも愉快な下りがあるが、熊さんが勘違いする相手である子供の年齢が各師匠で違うのが面白い。米朝師匠は九つ、枝雀師匠は六つで、志ん朝師匠八つ。そして、三太楼師匠はぐっと幼く四つ("八つ"の聞き違いかも?)。
それぞれ年齢の理由を考えるのもなかなかに愉しそうだが、ここでは三太楼師匠版に限定して考えてみると、その前の、「水は垂れますか?」「水?……あぁ、滴ってるかもしれませんなぁ。少し」という他の師匠は振っていない小ネタのためではと思える。つまり、鼻や、下(しも)の方から何か滴ったりするわけで…。ただ、"四つだと、百人一首を詠んだりするかな?"とも思う。

会の後の打ち上げ〜幾つか印象に残った話をピックアップ。

参加人数は三太楼師匠も含めて30人ほど。ひまわり師匠は次も仕事が入っているということで、残念ながら不参加。

基本的にはめいめい勝手に飲み物・食べ物をつまみながら、それぞれ知り合い同士、数人くらいのグループを作って話し込んでいる感じ。こうした打ち上げに行ってみるのは、先月にあったやはり三太楼師匠の会が初めてでこれが二回目になるけれど、どちらでも、別に「三太楼師匠を中心に人の輪が出来てくる」というわけでもないのが、ちょっと興味深かった。
三太楼師匠は結構端の方にいて、その時々で二人〜五人くらいのグループと話している様子。他の集団は、それぞれ旧交を温めあうだけの話題を持っているようだ。
自分はといえば、どうにもこういう社交の輪に入っていくのは苦手なので(自分でもかなり困ったものだと思う)、一人で適当に店内に飾られた本の背を眺めていったり(「森鴎外が数冊あるが、全て著者名が本名の森林太郎名義なんだなぁ」とか、「カポーティがやはり数冊ある中で、『冷血』『ティファニーで朝食を』『遠い声、遠い部屋』『夜の樹』という代表作がまるで意図的に置かれていないように見当たらないのはなんでかなぁ」とか、「一冊だけ見かけた山田風太郎作品が『戦中派虫けら日記』(「不戦日記」でもなく)なのは何でだろう」などとぼうっと考えているのはそれはそれで楽しめた)、料理を-----こちらに関しては特に遠慮も無く------パクついたり(結構美味しかった)、何となく耳に入る会話を聞いたり全体の雰囲気を眺めてみていたり(そういうのは結構好きだ)、三太楼師匠が手すきの頃合を見て、しばらくお話を伺ったりしていた。


ただ、この会では途中から、全員で三太楼師匠を囲んで質問を投げかけつつ、お話を伺う流れになったので、自分ひとりでは聞き出せないような興味深い話が随分と出て来たのには、やはり少し嬉しく思えた。
以下、その中で特に印象に残ったものを書いてみる。



正月の師匠方への挨拶は、噺家にとって超重要の行事

噺家は誰しも、師匠やその更に師匠である大師匠の元へ年始参りにいくのが慣わし。
その時間はそれぞれの立場によってきっちり決められていて、それに遅刻するようなことは絶対に許されない、即廃業となっても仕方が無いくらいの大しくじりなのだという。
中でも、「目白(の師匠)」こと、先代の小さん師匠の家の正月は壮観で、自前の剣道場を備えた家の周りを紋付袴を着込んだ百人以上の集団がぐるりと囲む様子は、相当現実離れした、なかなかにシュールな光景だったのだとか。

そして、続けて語られた、それに関わる権太楼師匠の述懐(念のため、詳細は控えておいてみる)や、川柳川柳師匠のエピソードは実に面白かった。
酔っ払った川柳師匠のタチの悪さはご本人が書いている通り大変なものらしいが、それは毎年この日においても例外ではなく、その暴れっぷりは実に見事なものだったとか。ぐでんぐでんになったところで、皆で抱えてタクシーに乗せ、人間台風と化した師匠にご退散願う運びになるわけだが、ことに気分が良好である場合などには車の中から「ドゥピドゥピピッピッピッピッピッピ……」と軽快な声が響き渡り、実に賑やかに去っていくのだという(この部分の真実性には大いに疑問があるが)。
大師匠もこれには毎年閉口していて、「川柳はもう帰ったか?5分前に運ばれた?ああ、そうか。よし」と知らせを聞かされるとほっとしたのだとか。……しかし、ここで油断していると、ついさっき去っていった筈の車が、再び一幕の悲喜劇をもたらすべく、愉快なテーマ音楽を窓から漏れ流ししつつご帰還されることもあり、なかなかに安心させてくれないのだという。凄いなぁ、川柳師匠。



白鳥師匠はスゴイ。

「白鳥師匠の『船徳』は志ん朝師匠を超えた!!」-------という伝説は、なんと実話なのだという。


というのは、「昔よく志ん朝を聴いていた」という年配の方が、『船徳』を終えた白鳥師匠に涙ながらに感動に震える声で本当にそう言ったことがあったのだという。三太楼師匠の口振りだと、どうやら冗談では無く、実際にあった話のようだ。
なお、「きっとそのお客さんは、それまで体験したものと全く別のものを観てしまったんでしょうねぇ」というのが続く三太楼師匠のコメント。

……なるほど。白鳥師匠の『船徳』は聴いたことがないけれど、「四万六千日、お暑い盛りでございます」の《日本の夏》の噺が、白鳥師匠の手に掛かっては、カーーーッと凶暴に太陽が照りつけ、椰子が生い茂り、スコールが降り注ぐような《どこの国の夏だこれは!?》というものにでもなったのだろうか。『アジアそば』ならぬ、『ハワイ船徳』とか。あの師匠なら、そういうことも出来そうな気がする。


ちなみに、三太楼師匠と白鳥師匠の親しさは有名な話だが、序列的には白鳥師匠の方が兄弟子になるとのこと。また、これはごく真剣に、「客の空気によって自在にテンションを変えられるところなどは、あの人は本当に凄い」とも。
なお、白鳥師匠のユニークな人柄についての親しみを込めての話はしばらく続き、「他の人の芸を口に出しては褒めたがらない」という一面に関する苦笑交じりで語られたエピソードなどは特に愉しく思えた。


白鳥師匠とは巡り合わせが悪く、『任侠流山動物園』や『スーパー寿限無』ほか、まだ両手に収まる程度しか聴いたことがない。
とにかく、何だかわけのわからないパワーのある演者なので、もう少し色々と聴いてみたい人だと思う。



三太楼師匠と愉快な同期の仲間達

三太楼師匠を囲む輪の中から、「それにしても、師匠とほぼ同期の皆さんには、本当に個性的な人が多いですよね」との声。
続いて、「例えば、どんな人がいるんだろう?」と続き、「歌武蔵さん、菊之丞さんとかがいますね」との応答(どこからか漏れた「えーっと歌武蔵師匠って…」という呟きに、三太楼師匠「ああ、「本日の協議についてご説明します」の人ですよ」とフォロー)。
そして、そこで入ったツッコミ、「わぁ、凄い体格差ですね」が大ウケ。どこからか、「そう、実は歌武蔵師匠の体にはチャックが付いていて、開いてみると約二名の丞ちゃまが中に入って動かしているのが分かる筈です。知りませんでしたか?」と更に悪ノリの声。
想像してみて、ツボにはまって爆笑してしまった。


なお、その後でこれはやや真剣に、「みんな、他の噺家とは違う芸風を目指しますからね。かぶらないように、かぶらないように、と。結果、こうなってくるわけでもありますね」と三太楼師匠のコメント。こうしてうまく舵が取られるので、どんどんと話が弾んでいった。


入門した師匠からは(ある程度一本立ちしてからは)あまり直接噺を教わることはない。

以下は、三太楼師匠の話をうろ覚えでまとめたもの。

「自分の師匠にはあまり噺そのものを習うということはありません。ただでさえ好きで好きでたまらなくて入門して、それでなくとも似てきてしまうのに、師匠が直接噺をどんどん教えこませていっては、単なる師匠のミニチュアが出来てしまう。それじゃあ何の意味もないし、お客さんだってそんなのを聴きたいわけじゃあない。それだったら、弟子よりもっとうまい師匠の方だけ聴けばいいんだから。
だから、我々はいろいろな師匠のところに出掛けて噺を教わったり、袖で聞いて覚えて、それぞれの系統の持ちネタにしている師匠に許可を取って演ったりします。


ちなみに、志ん朝師匠なんかは古今亭のネタ、特に志ん生師匠の持ちネタだったものを外の人間がやることにはとても厳しかった。古今亭のほかの師匠に伺いを立てて演った話でも、「今の、誰から教わって演ったんだ」ときつく釘をさされることなんかもありました。
でも、直接、志ん朝師匠に伺いをたてるわけにもいかなかった。だって、まず断るんだから。志ん生師匠の芸を語り伝えることに、強いこだわりを持っていたからでしょうね」


そうした落語界での仕来たりの話は、落語関係の本でも割り合いよく眼にするものではあるけれど(例えば圓生師匠の『寄席育ち』などでも、許可を得ずに勝手にネタ下ろしをしたり、他の噺家の工夫を使う若手の噺家への苦言が書かれていたと思う)、やはり実際に《今》その世界で生きている人を眼の前にして伺う話には、独特の重みがあり、嬉しかった。



実は、『初天神』を演ることは、権太楼師匠の正式な許可を受けていなかった!?

衝撃の事実?
なんでも、三太楼師匠によると、

「実は今回、賞(彩の国落語大賞)を頂いたのは『初天神』という噺なんですが、これ、権太楼師匠から正式に「寄席でやっていいぞ」と許可を貰ってない噺なんです。前にこっそり午前の寄席でやってたら、脇からじーーっと師匠が見ていたので大汗をかいたことなんかもありまして。その時、師匠、終わった後でぼそりとひとこと、「下手だな」ですよ。
で、今回受賞の知らせを頂いて、師匠に報告したんですが、「で、お前、何演ったんだ」といわれて、もう、どう答えようかと。仕方が無いので、「えっ、その、まあ…」「うん?なんなんだ?」「……『初天神』です」と、こう。
「うっ…」と一声出した後、「…そうか」といわれた後は、師弟二人、黙って酒を酌み交わす、と。もう、こうなったら演ったもん勝ち、ということで……」

とのこと。
……落語協会ホームページのプロフィールでも、「得意ネタ 紺屋高尾 初天神 熊の皮 他古典落語全般」と書いてある十八番の、ちょっと意外なエピソード。



「ここを演りたいばっかりに、皆この噺をやる」


これも、三太楼師匠の話を記憶の範囲内で編集してみたもの。


「噺の中には、とにもかくにも皆が「ここが演りたいんだ!」と思う台詞や場面がはっきりあったりしますね。
 例えば、『猫の災難』という噺をご存知ですか。あの中なら、「今日はいい休みだったなぁ、っとうに(本当に)」という台詞。目白はあれが絶品で、いつも客席が湧いた。それで、もう皆が皆、あのひと言をいいたいばっかりにあの噺を演るんだけど、誰一人として、目白のようには出来ません。つくづく、目白は本当にすごかったと思います」