飛浩隆『グラン・ヴァカンス』読了〜「飛浩隆読み込み強化月間」開始。


グラン・ヴァカンス―廃園の天使〈1〉 (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション) 空の境界 上  (講談社ノベルス)

……これの感想をゴチャゴチャと-----例えば、他の作家と絡めて考えるなら、「SFのセンス・オブ・ワンダーと、山田風太郎忍法帖ものの凄惨な鮮やかさのアマルガムのような異常な作品だ」とか、奈須きのこ空の境界』や、TYPE-MOON月姫』『Fate/stay night』『Fate/hollow ataraxia』との感覚の比較------《硝視体》と《固有結界》、《AI》と《起源》、《罠のネット》と"設計=蒼崎、仕様変更=荒耶のホーンテッド・マンション"や《アンリ・マユ》、"教会地下の皆々様"などを接点にして云々?ちなみに、『FATE』二作のなんだが鬱陶しいネタバレ感想はこちら)------まとめる前に(定石としては、そういった類推等から作品の位置する大体の座標を推定してみた上で、初読の素直な感想とも付き合わせつつ、この作品独自の部分を改めて炙り出していくといったやり口になる)、とりあえず、もう、今月から来月にかけての読書時間の何割かは、


飛浩隆読み込み強化月間


ということで、大幅に時間を割り当ててていくことに決定。


思い返せば、先月の読書の半分くらいは、「小川一水読み込み強化月間」と化していた。
2月の新規読了本をリスト化すると、



小川一水『イカロスの誕生日』
小川一水『群青神殿』
小川一水『こちら郵政省特別配達課!』
小川一水『ハイウイング・ストロール
小川一水『ファイナルシーカー』
小川一水『復活の地』(全三巻)
小川一水導きの星』(全四巻)
小川一水『老ヴォールの惑星』
小川一水『強救戦艦メデューシン』(上下巻)
小川一水『疾走! 千マイル急行』(上下巻)
オルダス・ハックスリー『すばらしい新世界』(訳・松村達夫)
北村薫ひとがた流し』(新聞連載)
坂木司『切れない糸』
東野圭吾探偵ガリレオ
東野圭吾『予知夢』
東野圭吾『容疑者Xの献身』
ボブ・トーマス『アステア ザ・ダンサー』(訳:武市好古
山田風太郎戦中派動乱日記
山田風太郎『戦中派復興日記』
有本倶子・編『山田風太郎疾風迅雷書簡集―昭和14年〜昭和20年』
故J・H・ワトスン博士著/ニコラス・メイヤー編『シャーロック・ホームズ氏の素敵な冒険』田中融二/訳
桜庭一樹少女には向かない職業
桜庭一樹砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない


といった具合。
随分前に『第六大陸』だけを読んで下地が出来ていたところに、『導きの星』にぶつかった上に『老ヴォールの惑星』にまで出会ったことによる、当然の結果ではある。


で、今回の飛浩隆『象られた力』『グラン・ヴァカンス』に遭遇したショックはどう受け止めていこうか、となると……。
まず、「デュオ」「象られた力」の初出の形をSFマガジンSFマガジンセレクションから引っ張ってくるのは、既に手配済み。
《廃園の天使》の続きが掲載されている、雑誌バックナンバーの注文の即実行も当然。すぐ来い。早く来い。特急で来い。
しかし、どうも、それだけだと、受けた印象の《とりあえず》の整理にも色々と不足がありそうなので、何か対策を打つ必要がある。小川一水の場合は、そもそも本人の作品数がそれなりにある上に、懐かしのアシモフやギボン、その他諸々の、自分の中に昔に築いた関心の輪を再刺激、賦活させてある程度作品世界に向かい合うことも出来た。だが、今回の飛浩隆は強烈なインパクトが、自分の従来の関心の比較的辺縁に近いあたりに落ちてきた感じなので、どうにかこうにか印象をまともに整理するためには、まずそのための橋頭堡作りから始める必要がありそうだ。


で、ちょうどいいことに、ご本人のブログ(「Shapesphere 「棚ぼたSF作家」飛浩隆のweb録」)が存在したので、そこから、何かしらヒントになりそうな作品を漁ってみて、まずはそれから読んでみることにする。
先月の「小川一水読み込み強化月間」の影響で、やや「小松左京再読週間」が混じってもいるが、以下がとりあえずの「飛浩隆読み込み強化月間」のラインナップ。


小松左京
ゴルディアスの結び目
首都消失 (上・下)


ジョン・ファウルズ
魔術師(上・下)
コレクター (上・下)


グレッグ・イーガン
順列都市(上・下)
万物理論


ジョージ・R.R. マーティン
タフの方舟1 禍つ星
タフの方舟2 天の果実


野阿梓
兇天使(上・下)


●その他
ヴォルフ歌曲集
アフォーダンス-新しい認知の理論


……まずはこの辺りを読んで、詳しい検討はそれからだ。現段階だと、とてもじゃないが、手に負えない。ちなみに、このリストに挙がった作家だと、イーガンは『しあわせの理由』をテッド・チャン『あなたの人生の物語』とセットのような形で(どちらも相当の傑作だったけれど、『象られた力』と『グラン・ヴァカンス』の作者が崇め羨むほどの作家か?やはり、自分がまともに読めていないだけだろうか??)、小松左京は名作『日本沈没』、怪作『さよならジュピター』ほか数冊を、随分とむかーーーーしに読んだことがある程度。
なんだかその作品との付き合いが長くなる作家になりそうだし、早めに周辺もろとも、それなりの感覚の体系------というにはあまりに粗雑でも、何らかの方向性を持った塊としての認識------を形作っておきたい。宮部みゆき作品を読む上でのスティーヴン・キングのような、明確に一つ、その作品を読む上での切り口を増やしてくれるような関係性を持つ作家だか作品だかがあれば、随分と感想や考察に筋道がつけやすくなるんだけれど。

……しかし、「デュオ」絡みで手を出してみた「ヴォルフ歌曲集」、「242曲収録」って何だ!?「\18,349(税込)」って何だよ!!いいよ、チクショウ、勢いで買っちゃうよ、聴くよ!!(泣)(ちょうど、仕事でもクラシック関連の着うた(R)公式サイト立ち上げとかやるところだし。あんまり直接役に立つようなもんでもないけど)。ただ、ファミリーマートの通販、一応、受け付けたけど、本当に在庫あるんかな。


それにしても、最近、「時間と気力をかけて身を削って」というだけでなく、明確に貯金を削ってモノを読んだり観たりする羽目になってる……。こんなノリは一年も二年も続かないとは思うけど、amazonヤフオクTSUTAYADISCASの履歴とかみると、さすがにどうかとも思えるな……。


……それと、作者のブログで触れられていたけど(2005/12/10「謝恩企画」」、そうか、『象られた力』のアレって、《ミーム=文化遺伝子》の侵食なのか。
ただ、少なくとも提唱者であるドーキンスの『延長された表現型』の時点では、《ミーム》の概念って、主に「利己的な遺伝子」という言葉と感覚が勝手に暴走しすぎるのを抑制するための安全弁として、あくまで漠然としたイメージのレベルで提唱されていたように読めたけれど、その後、ある程度はきちんとした科学的背景にもこだわる類の作家が、エンターテイメントにも応用していこうと思えるくらいに、学問としての考察が進んだんだろうか?というか、一応は"学問"といえるような体裁は整ったのだろうか。


ちなみに、脱線になるが、「利己的な遺伝子」という話について少し書いてみる。

利己的な遺伝子 (科学選書)


このネタは、『延長された表現型』などをまともに読めば、「この話を本当に理解するためには、「ゲームの理論」などの一連の関連する話に関する、ある程度以上に高度な数学的な素養が必要なんだぞ。そういう裏付け抜きで「生物=生存機械論」を下手に"応用"なんかすると、ほぼ100%悲惨なことになるぞ。気をつけろよ。例えば、フィッシャーって人の本読んで、それなりに分かる?なに、分からない?じゃあ、絶対に止めとけ」としつこく釘をさしているということくらいは、分かりそうなものだと思う。
だから、竹内久美子のような確信犯の似非学者が最悪であるなどということはいうまでもないが(ただ、アレに引っかかるような人は、正直言って、ある分野においてはかなり頭が不自由な人だと思う)、ドーキンスが書いている以上に、その理論(とその人が勝手に解釈したもの)を文学や哲学もどきと組み合わせて気軽に"応用"してしまう人というのは、頼むから二、三度くらい、『延長された表現型』を読み直しでもして欲しいと思う。そうした動きがあまりにひどいので、『ブラインド・ウォッチメイカー』なんて、ようするに一冊丸々使って、困った人々の暴走に対する注意書きのまとめと、グールドとの論戦とをやる羽目になっているわけだ(実に愉しそうに、ではあるが。というか、もともと本当にどうしても誤解を避けてとことん慎重にその発想を伝えたかったのなら、そもそも"Selfish Gene"などという余りにセンセーショナルな言葉は選ばなかっただろう。ドーキンスという人には、少しばかり性質の悪いところも確かにある)。
ドーキンスが「バイオモルフ」に代表されるシミュレーションを偏執的なくらいに愛し、こだわることや、他のあるいはより細かく実証的に、あるいはより深く精緻に理論的に研究を行う学者たちに常に敬意を払う姿勢、そして、ダーウィンの生涯最後の研究がミミズの生態についてのものだったといった話の持つ意味というのは、もう少し重く考えられてもいいのではないかと思う。


なお、偉そうなことを書いておいてなんだが、私にはドーキンスが参考に挙げる学者の著作の日本語訳を読んでも、正直言ってほぼ全く理解できなかった。なので、「それでいながら、ドーキンスの広めた理論を下手に応用する馬鹿にだけはなりたくない」ということで、意識的に自制するようにしている。そうせざるを得ない。

で、そうである以上、《ミーム》についてはますますもって、ちょっと敬遠したい------そして、どうみてもそういう分野に理解があるようにはみえないのに(それなりに理解があるにしては、言葉の定義があまりに甘すぎたり、一貫しなかったり、論理の筋道に不用意な逸脱が多すぎるといった場合)、やたらとミームミームと連呼するような輩は、それだけである分野における頭の悪さを証明していると思ってきていたが(無論、『象られた力』やその自作解説についてはそうは全く思わない)------ドーキンスによる最初の提唱以降、随分とこの概念については考察が進んで来たという話も聞くし、これはこれで、多少調べてみるべきなのかもしれない。