野阿梓『兇天使』〜なんだかえらく馴染みのある考え方だ……。

ところでやっぱり野阿梓氏の最高傑作は『兇天使』ですよねえ。飛の日本SFオールタイムベストワンはやっぱこれかな、今回のSFマガジンでは投票を棄権しましたけど。


野阿氏の文章力は飛の4億倍くらいある上に、『兇天使』はテーマ、アイディア、キャラクター、プロット、大趣向、中趣向、小趣向、微趣向がそろいもそろって超絶的。日本SF史のタイガー・ザ・グレート(古い)といっても過言でないので、古書店で見つけたら即ゲットしてください。


Shapesphere 「棚ぼたSF作家」飛浩隆のweb録」
2005/12/23 (金)の日記より。

なるほど、なんだかすさまじい作品で、『百億の昼と千億の夜』が好きな人は間違いなくはまりそうだ(表紙とふんだんにちりばめられた挿絵が萩尾望都だから、というだけでは勿論無く。というか、そもそも二つの作品+萩尾望都の漫画版『百億の昼と千億の夜』の読者は普通に重なることも多いのかな・・・?)。


《絶対善を求める一神教の信仰に関する話》から始まって、

《土俗信仰を《悪魔》=《龍》=《善なるものの敵》として無限に繰り込みつつ広がっていくキリスト教(⇒聖ジョージの龍退治など)や"中央"の王権(⇒ヤマトタケルヤマタノオロチ退治)の仕組み》

《一方で、知恵や王権の象徴としても扱われる《龍》(⇒中国の五本爪の龍=黄龍)=《蛇》(⇒アステカの翼ある蛇ケツアルカトル、ギリシア・ローマのヘルメスの杖)》

《急進的な信仰(イエズス会を例として)と進化論等の科学の、実に虫のいい《妥協点》たる優生学の批判》

《体制を批判しつつ、それがある程度組織化されて運動が広がっていくと、自ら同様の体制の病を抱え込まざるを得ない学生運動等の愚かさと脆さ》

《《赤い楯》ことロスチャイルド財閥の萌芽を孕みつつ発展していく、ハンザ同盟に代表させた《商人》の論理と国際政治の残酷な利害打算と複雑さ》

《《ローマ》という一つの偉大な世界観の権化でありそれを最も見事に体現しながら、それゆえに異なる世界観を持つ共同体同士の《国際関係》という概念に到達しえず、そうした者であるという、まさにその存在をもって巨大な時代の変化の結節点となるユリウス・カエサルという人物》


……などなど、古今東西、自由奔放にさまざまな概念を万華鏡のようにみせつけながら、独自の美をもった文体でその世界を構築していく。
そして、それらが------明示されていないが、おそらくそのバックボーンにあるものとして-----プラトンの国家論における《権力=制御しがたい巨獣》という思想、ニーチェの「長く深淵を覗く者を、深淵もまた等しく見返す」という有名な哲学をキーに、シェイクスピアの『ハムレット』の世界の中に収束していく、ほとんど官能的ですらある物語の構造にはただただ感嘆させられる。


なんだか、この本を読んでいる間、主に中学・高校時代に読み耽った懐かしい本の数々が思い出されずにはいられなかった。
塩野七生が今のていたらくに陥る前------『ローマ人の物語』のユリウス・カエサルの巻が出る以前くらいまで------までの『海の都の物語』を代表とする名作の数々、プラトン『国家』、トゥキディデス『戦史』、ブローデル地中海世界』、マキアヴェッリ君主論』『政略論(ティトゥス・リウィウスの最初の十巻についての論考)』、モンテスキュー『法の精神』『ローマ人盛衰原因論』、プルタルコス『英雄伝』、ユリウス・カエサルガリア戦記』『内乱記』、ブルクハルト『イタリア・ルネッサンスの文化』などなどだ。
それに加えて、広瀬隆『赤い楯』のような、ちょっと強烈に電波な陰謀論を受発信してしまっているものも(他にも糸川英夫『ケースD』とか、くそ真面目で呆れるほど"ベスト・アンド・ブライテスト"で、どこか抜けてしまっているところが憎めない、ローマ・クラブの『成長の限界』『限界を越えて』とか。それらは、当時ですらちょっと苦笑しながら読まざるを得なかったけれど、なんだか随分と好きだった)。


それでもって、おそらくは、この作者もそこらへんの作品は当然のように読んでいそうだと思った。……だって、作中のいろんな考え方が、そういう本を読みながらつらつら自分でも考えてみたことと随分と似ているから。
そして、そうした考察や感想をただ単なる感想や評論として終わらせず、こうして一つの物語として組み上げるためには、神話や民俗学、両性具有やホモセクシュアルの倒錯美といった仕掛けはいろいろと便利なんだな、と改めて思わされる。勿論、そうした分野の知識の下準備を自分がしたところで、《こんな凄い作品を自分でも書けないことは無い》などといった大それたことは到底思えないが。それで書ければ、何の苦労もいらない。
「天才の天才たる所以は唯技術の上においてのみのことだと銘記する必要があるだろう」(芥川龍之介)------表現するための技術を伴わない想念や考察は、極論すれば無意味だ。そして、その《技術》にこそ、作家という人種は全身全霊を込めていく。《表現すべき何らかの想念や考察》は、創作における当然の前提でしかない。


で、シェイクスピアの方は、主に大学以降に触れてきた、作品そのものの様々な翻訳とか(原書や現代英語訳にはとても手がでないくらいの哀しいレベルの語学力しかないので、触れるのは専ら日本語訳になる)、いくつかの映画や舞台や評論、数篇の小説等を思い出したが、中でもブラッドレー『シェイクスピアの悲劇』(訳・中西信太郎)や、志賀直哉『クローディアスの日記』、小林秀雄『おふえりあ遺文』、太宰治『新ハムレット』あたりの影はちらほらと感じられたような……。


ただ、『ハムレット』に対する諸解釈では、例えば"ホレイショー悪玉論"なんかは比較的目にしたことが多いような記憶があるけれど、この作品のような(ネタバレのため、以下少し伏字)王妃ガートルードの陰謀だという解釈という名の物語の再構築というのは、まだ目にしたことが無かったような気がする。ハムレット母との関係に焦点をあてた作品としては、メル・ギブソンハムレットを演じた、ゼッフィレッリ版『ハムレットがあるけれど。
ともあれ、この作品は『ハムレット』のある種の創作的な評論としても、十分楽しめてしまうのは凄い。


そういうわけで、ここまで作品そのものの感想は殆どなく、それから連想された過去に触れてきた作品について延々と書いてきたが、正直言って、これは、そういう態度にならざるを得ない作品のような気がする。
この作品は、《新たな鮮烈な知見をもたらしてくれる》というより、《既に作中で語られるような考えと共鳴するものを内に持つようになっている読者が、各々、作品に刺激されて思い出されてくる自分の過去の考えと改めて対話してみることが愉しい》ということに意義がある存在だろう。例えば、伊沢明という方の解説も、大まかに言ってその線での文章ではないかと思う。
つまり、この作品は、シェイクスピア同様、作者よりもむしろ、読者の持つ力量や方向性によって、およそその脳裏に結像するモノが大きく変わって来るシロモノなのだと思う。例えば、私にはフランシス・イエイツと薔薇十字団や、ジョン・ディーと占星術といった分野にほぼ全く感覚励起のトリガーとなるような知識も考察も持っていなかったので、そこはあまり楽しめなかったが、そういった要素もカバーできている人にとっては、この作品は更に愉しいものとして在るのだろう。

・・・・・・さて、飛浩隆の場合は、はたしてこの作品を読んで、どれだけの分野に関わる過去の思考や感情が賦活されたんだろうか?ちょっと、想像を絶するものがある。少しばかり、聞いてみたくなる話題ではあるなぁ……。


最後に、物語のほぼ終幕で出て来た《国家》=《龍》の話について少し。
さすがに、res publicaとstate、nation、そしてnation-stateの話とかを出してしまうと、政治学の論考だか小説だかわからなくなる、ということかな。
それと、これは本当にどうでもいい蛇足だが、2006/2/28の日記での、スピルバーグ『ミュンヘン』の感想で、《現代に個人が生きる上での、nation-stateとしての国家の保護の切実な必要性と、そのための闘争》という観点からゴチャゴチャ書いてみたことを思い出した。

(3/16追記)
野阿梓という名前、以前にもどこかで見たことがあると思ったら、白泉社文庫版『銀の三角』の解説、この人だったのか!!そうか、確かに、まさにうってつけの人選だなあ……。