椎名高志『絶対可憐チルドレン(4)』〜物語全体の基本構造を推測してみる。


絶対可憐チルドレン 4 (少年サンデーコミックス)

相変わらず、いい作品だなぁ。
新キャラクターの名前の由来は、基本的にはここ(Wikipedia「椎名高志」)を参照として、後の小ネタとしては、黒巻節子の苗字は「クロマキー」、「NUOVO ristorante Paradiso」は「Nuovo Cinema Paradiso(ニュー・シネマ・パラダイス)」、「やらせはせん、やらせはせんぞぉ!」はドズル中将、といった具合に、おそらくまだこの10倍くらいはネタが満載なんだろう。
ただ、そんなことより、以下の要素などが遥かに面白く、今後の展開が楽しみでならない。
以下、少し力を入れてまとめてみる。


主人公達の組織が「B.A.B.E.L.=バベル」に対して、対抗する組織が(黒巻の帽子から推測して)「P.A.N.D.R.A=パンドラ」という設定の面白さ。


まず、「パンドラ」の、「パン=全ての」(パン・パシフィックとかパン・アメリカとかと同じ)+「ドラ=贈り物」(実は「ドラえもん」の「ドラ」ってこの「ドラ」で、「ドラ+衛門」なんじゃないかな、とか考えたこともあるが、脱線になりすぎるのでここでは触れない)という語源から、超能力=贈り物という文脈がまず考えられる。英語の"gift"には"天分・才能"という意味もあることだし、そのまんま『ギフト』というタイトルの超能力モノの映画があるくらい、ギフト=超能力という用語の使い方はよくあるものだ。


そして、更に重要なものとして、「パンドラの箱」の神話の幾つもの解釈も輻輳的に関わってくるのだろう。


まず、最も一般的な、「箱の中に唯一残されたのは、善き「希望」だったのだ」という解釈。
そしてもう一つの有力説としてある、「「全てを予め知ってしまう」という不幸からは辛うじて免れたのだ」という理解。例えば、上遠野浩平の《ブギーポップ》シリーズにおける、『VSイマジネーター』『ペパーミントの魔術師』と並ぶ良作である『ブギー・ポップ・イン・ザ・ミラー「パンドラ』ではこの解釈だった(しかしまぁ、このシリーズは巻によって出来不出来の幅がえらく大きいよなぁ)。


この「パンドラの箱」に関する解釈を、『GS美神』の中盤から出た前世ネタと同様に《物語の本筋の背骨》となるのだろう、例の「予知」の位置づけと絡めて考えるならば、《後者の解釈をメインにしながら、それでも「希望」という救いをその中で見出していく》という展開になるのだろうと、今後の作品の行く末を予想できる。


なお、「パンドラの箱」の解釈について更に付け加えれば、神話のほかの部分との関わりから考えても、有力説の方が妥当な解釈だと思える。パンドラとその箱を受け取った兄弟、プロメテウスとエピメテウスというのはその名前自体、「前に考えるもの」「後に考えるもの」(「プロ」は「プロローグ」の「プロ」、「エピ」は「エピローグ」の「エピ」)という意味であるし、この場合、ゼウスはとことん悪意に溢れた存在であり、その贈り物もとことん性質の悪いものだと考えるのが自然だろう(ちなみに、プロメテウス、エピメテウスの名前の意味については阿刀田高の名著『ギリシア神話を知っていますか』の受け売り)。
いい加減なあてずっぽうの予想をいうなら、いつか、《オリュンポス》という悪の組織だかグループだかか、《ゼウス》という兵部より遥かにシンプルに《悪》を体現する敵が出てくるんじゃないかな(《ゼウス》という悪役というと、岩原裕二いばらの王』みたいだけど)。


ここで、三宮紫穂が持つ最高度のサイコメトラーとしての能力というのは、強力な《今》と比較的近い《過去》を知る能力であり、野上葵のテレポート能力は《《今》の時間》という制限内で自在に空間を移動し望むところへと力を導くものであり、明石薫のサイコキネシスは、《今》と一部の《過去》を知り、それを元に力が振るわれるべき場所へと導かれた上で、《今》の現実に対して直接的に、強力かつ最終的に干渉するパワー、という関係にあるのだろう。
そして、そうした能力を持つ三人の子供自身は、ひきずらずにはいられない重い過去やしがらみを持たず、ひたすら《未来》を見つめる存在だ。それに対するのが、あらゆる能力を兼ね備え、未来をも予知しながら、とことん《過去》にひきずられずにはいられない存在である兵部卿介であり、その両者の間に、皆本・桐壺という源氏物語における親子、それぞれの中間に位置する人物が挟まってくるという構図が描かれる(あるいは、紫穂は皆本の目であり耳であり、葵は足、薫は武器を握る手、という見方がより適切か)。

そして、これらの人物達が、巨大な災いを告げる《予知》=《約束された悲惨な未来》=《パンドラの箱の奥に潜んでいた最も悪意に満ちた《贈り物》》と向かい合っていく、というのがこの物語の流れである、という推測が出来るように思える。


以上が、この作品全体の基本構造の推測となる。
しかし、P.A.N.D.R.Aって一体何の略だろう?
"PAradise of New DRamatic Age"とか?(何だそりゃ)。

「サイコ・ダイバーズ(5)」の扉絵における三人娘の精神の現状の明確な比喩


《世界》に対する認識の深さの度合いとほぼ反比例するように、未来へ向かって翔ぶための熾天使の雛達の孵化の度合いが描かれている。

この一巻の中で最も構図として優れた一コマ-------181ページ、スーパー銭湯でくつろぐ場面の愉しさ。


このコマでは、特にコマからはみ出す薫の描き方。
というか、「ナショナル・チルドレン(1)」全体が、コマ割りに関して今までで最高度の躍動感を持っている。
椎名先生、今までにも増してノって来ているのではないだろうか。

大変に気を使って、三人それぞれにバランス良く《見せ場》を作る構成


特に、三人同時に出る場合、誰に視線を集中させる構図を採るかで分かりやすく「その場の主役」を示す。実に映画的な手法だと思う。

モガちゃん、黒巻節子のプロフィールデータ左隅の「might/b」表示)などの、昔からの椎名ファンには嬉しい小ネタ


「might/b」はGS美神《アシュタロス篇》でも使われてたね、ということで。

シリアスな場面を滅多なことではそのまま押し通さない、《様式化された笑い》。


例えば、

「いきなりどうした!?」「〜しちゃってますね-----」


「××(敵)についた方が待遇がええってことか……」「……(うーん)」


というのは、もうほとんどパターン化され、様式化されたこの人一流の《型》だといえる。
こうした笑いは大概、話の流れが極めてシリアスになり-----つまるところ作者の照れや恥じらいを誘発するような状況になった時に------出現することが多い。
これは桂枝雀流にいえば《緊張の緩和》による笑いというものなのだろう。
この作者のこういうところこそが、好きにならずにはいられない、その最良の特質だと思う。